ぎこちない形──『水辺のつつじ』ep.63
「手、繋いでもいい?」
彼女は立ち止まった。
僕も立ち止まった。
まるで、鬼のいない「だるまさんがころんだ」みたいに。
彼女は振り返ることなく歩き始める。
僕はそのあとを追いかけた。
まだ、暗さに目が慣れない。
瞬きのたびに彼女の白いコートの背に対向車の幻を見る。
四回目に目を開けた時だった。
僕は「あ。」と短い声を上げた。
枯れた生垣に咲く季節はずれの花を見つけた時のような、朗らかな衝動。
肺を介さない、音の上澄みのような声。
さっきまでコートにこすりつけていた右手は、いつの間にか彼女の手を握っていた。
家々から漏れ出る、部屋の灯りや人の声。
マンホールの下を流れる水の音。
目を凝らさなくても、耳を澄まさなくても、感じられる静かな営み。
僕はただ、光を光として、音を音としてこの身で感じながら彼女の隣を歩いている。
ふいに、知っている匂いが漂ってきた。
西陽に背を温められながら、アスファルトにこびりつく柿に群がる蟻を眺めた時の空気の匂い。
学校の図書室で借りた、薄い画用紙みたいな紙の本──
あの紙質のページですらめくりにくいほどに指先がかじかむ頃の夕方の匂いだ。
記憶の中に、鼻をすする音が混じる。
「うちのシチュー、なぜか鶏むねで作るんだよね。」
「シチュー……? え?」
視線を下ろしかけた時だった。
「だめ、見ないで。」
そう言って、彼女は顔を背けた。
僕は空を見上げた。
相変わらず、月は丸かった。
「瑞樹君……」
「ん?」
「……見てない?」
「見てないよ。」
どこまでも行っても月は同じ大きさのままだった。
その原理を知った今も、月の中で餅をつくうさぎが見えた試しがない。
僕は無意識に、探し続けている。
「あ、犬の糞!」
彼女の声に、僕は思わず視線を下ろした。
その途中、彼女の姿が視界をかすめた。
僕は慌てて左手で目を覆い、瞼を固く閉ざした。
眼球の震えが指に伝わってくる。
「ごめん、冗談。」
彼女はいたずらっ子の顔で笑った。
多分。
「匂いって、いろんなこと思い出しちゃうから。」
やがて、足音だけが聴こえるようになった。
「これ、なんの匂い?」
僕が聴くと、「これ?」と語尾を傾げる。
「そう、これ。」
「これ、じゃわからない。」
彼女はむっとした顔を作って、それでいて笑っている。
月の前を、薄く雲が流れた。
突然、鼻がむずついてくしゃみが出た。
立て続けに、三回も。
「花粉、かな。」
「こんな時期に?」
「気の早いのが、飛び始めたかも。」
僕は左手で鼻をかんで、いくあてのないティッシュを握り込んだ。
「ねえ、瑞樹くん。」
「ほんとに肉まんいらなかった?」
僕は思わず笑ってしまった。
「いらないよ。」
まだ止まりそうにない笑いを、僕は左のこぶしでおさえている。
「瑞樹君。」
月は僕の頭頂部の延長線上で止まった。
雲だけが、澱むことを知らない水の如く流れ続けていた。
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【人生初、読書感想文】
原田ひ香さんの小説の感想文をかきました。
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ゆきお様・解説
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