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クッキーの手術

#18
#アトリエ連作小説

クッキーの日は、作業名だけ聞くとやさしい。

クッキー。
ひらがなで書いても、カタカナで書いても、だいたい丸い。
でも実際には、最初のほうはわりと力仕事である。

厨房の台には、粉、砂糖、バター、卵液、ボウル、ゴムべらが並んでいた。
それから、キャップ、マスク、エプロン、ポリ手袋。

かわいいものは、だいたい準備がかわいくない。

私は黒い服の袖をまくった。

「今日はクッキーです」
Wさんが言った。

Wさんは「アトリエ」の新人のスタッフさんである。髪が長い。
長いけれど、厨房に入る前にまとめる人だった。

手首についていた黒いゴムを外して、いったん口にくわえる。
両手で髪を後ろへ集める。
左手で押さえて、右手で引く。
髪が首のうしろでまとまる。
超速い。

「すみません、お待たせしました」

「……いえ」

手を洗う。キャップをかぶる。マスクをつける。エプロンを首にかける。

ここまでは、いつもの流れ。

厨房では、順番がある。
順番があると、かなり楽。考えなくていい、ということじゃなく。考えることが決まる場所、という意味。

バターをボウルに入れる。砂糖を入れる。
ゴムべらで押す。
押す。
返す。
押す。
返す。

「けっこう力いりますね」
Wさんが言った。

「いります」

「クッキーって、もっとふんわりした作業かと思ってました」

「最初から、ふんわりしてないです」

Wさんが笑った。

悪い人ではない。
というか、普通にできる人だと思った。

粉を入れる。
白い山ができる。

ここからは押さない。
切る。
返す。
切る。
返す。

粉が消えかけたところで、Wさんが言った。
「そこで大丈夫です」

止める位置がちょうどだった。

私は手を止める。
ポリ手袋をはめる。
少しデカい。

指先に透明な余りができる。
その余りで生地を触ると、内側のパウダーの中で、こちらの指より先に手袋が動く。
それは困る。

「あ、小さいサイズありますよ」
Wさんが箱を持ってきた。

「ありがとうございます」
外す。はめ直す。指を入れる。手首を引く。空気を抜く。

今度はちょうどいい。

「それ、ぴったりですねー」

「はい」

「手袋って、大きいと、やりづらいですよね」

「はい。道具なので」

「道具」
Wさんは小さく繰り返した。
その言い方は、少しよかった。

生地を分ける。
丸める。
少し押す。
天板に置く。

全部同じ形にはならない。
でも、焼き時間が変わるほど違ってはいけない。

「同じじゃなくて、同じくらいですね」
Wさんが言った。

「はい」

「それ、いいですね」

それ、ってどれ?
でも、さっきより少し作業に近いところを見ている気がする。

オーブンが鳴る。

扉を開けると、熱が来る。
天板を入れる。
扉を閉める。
タイマーを押す。

焼いている間に、台を拭く。
ボウルを下げる。
ゴムべらを洗い場に置く。
袋を数える。
乾燥剤を出す。
シールをそろえる。

「いつも黒なんですか」
Wさんが言った。

私は、袋を数える手を止めなかった。
「あ、はい」

「統一感、ありますね」

「お洗濯はします」
言ってから、少し変な返しだったと思った。

Wさんは一瞬止まって、それから笑った。
「それは、そうですよね。すみません」

そこまでは、まだいい。

黒い服について言われることはよくある。だいたい、そこで終わる。
終わるなら、ただの服の話である。

けれどWさんは、少ししてから、もう一度こちらを見た。「黒い服に白いエプロンだと、印象、変わりますね」

印象?

私は袋を一枚、数え損ねた。

「変わります?」

「変な意味じゃなくて」

変な意味じゃなくて、は、だいたい変な意味。

「いつもの黒と、エプロンと、キッチンっていうのが、なんか……」
Wさんはそこで止まった。

なんか。
なんかは、万能の穴である。
何を入れてもいいし、何も入れなかったことにもできる。
「なんか、ですか」

「すみません。うまく言えないんですけど」

「うまく言えないものは、言わなくてもいいですよ」
少し早く返した。

Wさんの顔が固まった。

オーブンの中で、生地がふくらんでいた。
表面に少し割れ目が出ている。

甘い匂いがしてきた。

甘い匂いは、ずるい。
場面を勝手に、まあいいかー、へ寄せちゃう。

「いい匂い!」
サンリオ女子さんが遠くから言った。

「もう食べたい」
芋けんぴ先輩が言った。
焼けている最中のものに「食べたい」と言えるのは少しこわい。

タイマーが鳴る。

クッキーを出す。
すぐには触らない。
網の上で冷ます。

Wさんは、しばらく黙っていた。

私は、袋を数え直した。

一、二、三、四。
足りている。
足りているものは、ありがたい。

圧着機のランプが青く点いた。

袋にクッキーを入れる。
乾燥剤を入れる。
口をそろえる。
熱い線の上に置く。
ランプが赤くなる。

一秒。
二秒。
離す。

透明な袋の口に、細い閉じ目ができる。
圧着は強すぎると袋が溶ける。弱すぎると開く。

「さっきの、黒い服とエプロンの話なんですけど――」
Wさんが言った。

え、なにもう、と思った。
「はい」

「私、たぶん、見た目でまとめようとしてました」

「はい」

「黒い服と、白いエプロンと、料理っていうので」

「はい」

Wさんは、圧着した袋を見ていた。

今度は、私の顔ではなく、袋を見ていた。

「エプロンを見ると、料理って感じが強くなります」

「はい」

「でも、今見ていると、料理というより、手順ですね」

私は、袋の口をそろえた。
「手順ですよ?」

「手を洗って、キャップして、マスクして、手袋して。触るところと、触らないところがあって」
そこまでWさんが言ったので、私は言った。

「手術です」

Wさんがこちらを見た。
「手術」

「はい。料理の準備は、手術と同じです」

「クッキーの手術」

「クッキーの手術は……あまり聞きませんね」

Wさんが少し笑った。
「それは、あまり聞かないです」

「でも、触っていいところと、触ってはいけないところを分けます」

「そうですか」

「エプロンだけ見ると、家庭とか、料理っぽさに行きます」

「え?」
Wさんはすぐには次の語をつがなかった。
束ねた髪の先を、肩の後ろへそっと払う。
「……私、そっちに行ってましたか」

「少し」

「少し、行ってましたか」
Wさんはそう言って、視線を落とした。

そこから先は、作業に戻った。

クッキーを入れる。
乾燥剤を入れる。
口をそろえる。
圧着する。

一秒。
二秒。

離す。

Wさんは、今度は私の服を見ていなかった。
手袋の指先と、袋の口と、熱の線を見ている。
それならいい、と思った。

最後の袋を閉じる。

圧着機の電源を切ると、赤いランプが消えた。
少し遅れて、金属の冷める音がした。

エプロンを外す。
キャップを外す。
マスクを外す前に、手袋を外す。
外側が内側にくるように丸める。
捨てる。
もう一度、手を洗う。

水を止めると、Wさんが言った。
「最初、なんかブラック・ジャックみたいだと思いました」

「ドクターXです」
すぐに言った。

Wさんは、目を丸くした。
「X」

「はい」

「ブラック・ジャックじゃなくて」

「はい」

Wさんは少し考えた。
「黒いから、ブラック・ジャックって思ったんだと思います」

「はい」

「でも、Xなんですね」

「はい」

Wさんは、机の上の袋をひとつ持ち上げる。
圧着した線をチェックするために、少し光にかざす。
「じゃあ、これはクッキーですか」

「それはもうクッキーです」

Wさんは笑った。

その笑いが、分かった笑いなのか、分からないまま合わせた笑いなのか、すぐには分からない。

少なくとも、袋の口は開いていなかった。

20260622

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