🔶【11話】天上の楽園・お泊り(サチ)
すごい。すごい。東京タワーが見える。
ルーフバルコニーに突き出すように作られたリビングの一角は、サンルームというのだろうか。とにかく壁も天井も大きな硝子張りだ。
「あ……でも、これじゃあ外から丸見えじゃないですか?」
「部屋の外に出なきゃ大丈夫。このガラス、外からは見えない仕様なんだ。ほら、照明を暗くするともっと夜景が綺麗に見えるよ」
すうっと、部屋の明かりが落とされる。東京タワーの電飾が、いっそう温かみを増し、オレンジ色に輝いて見えた。
桂木……いや、ユウちゃんの部屋は、岡部さん……いや、ヒロの部屋と作りはほとんど同じだ。ただ、大きく違うのはサンルームがあることと、見える夜景の方角。高台に建つマンションからは、都会のイルミネーションがどこまでも広がって見えた。ユウちゃんの部屋から見える夜景の真ん中には、クリスマスツリーのように輝く東京タワーが立っていた。
「いいですねぇ、この部屋」
「……気に入った?」
遠慮がちに彼はそう尋ねてくる。暗がりの向こうで、街の灯りが小さな光の渦のように瞬いていた。
あ、この雰囲気……あの時と似てるなと思ったら、もう唇は目の前にあった。
がさっ。
ん? あれ、この感触。
子供のおねだりみたいに、もっと……と唇を追いかけてくる彼の頬っぺを両手でビタッと挟み込む。驚いた顔。その唇に指を伸ばすと、やっぱり。
「熱で唇の皮、めくれちゃってますよ。リップクリーム塗って眠らなきゃ駄目」
しかられた子犬みたいに、彼は途方に暮れた眼差しを落としてくる。
「いい子にしなきゃ、一緒に寝てあげない」
これって大人にでも効く台詞なのね。
彼はあたふたとパジャマに着替えてきた。大きなソファをパタンパタンといじってベッドに変身させたのには驚いたけど。
「ベッドルーム、他にあるんだけど、今日はここで寝てもいい?」
「うん、いいよ。だって寝ながら夜景が眺められるなんて素敵」
彼は素直に横たわり、いそいそとタオルケットにくるまった。さっきヒロから渡されたアイスノンをタオルに包んで頭の下に潜り込ませる。
「サッちゃん」
うわ、懐かしい。その呼び方。
弟のアッ君がよくそう呼んでくれたっけ。中学生になったからか、この前、久しぶりに実家に帰った時には、生意気にサチなんて呼び捨てにされたけど。まさか今更そう呼ぶ人が現れるとは。
ふふっ、なんだかくすぐったい気分。
こんなにも大きな彼が、小さな頃のアッ君に重なる。
「なぁに?」
だから応える口調も、不思議と子供相手のように優しくなっちゃう。
「隣に寝て……くれる?」
はいはい、と隣に滑り込む。おでこに再び手を当てると、さっきより熱い気がした。
「ちゃんと眠らないと良くならないよ。はい、目を閉じて」
あ、懐かしい。子供を寝かしつけるのってコツがあるんだよね。呼吸のリズムを相手に合わせるの。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
……。
やだ、あたしいつの間に……どのくらい眠ったのだろう? 壁に掛けられた時計は夜中の二時を示している。やばっ、タオルケット、あたしが独り占めしている。肝心の病人が、クーラーの効いた中、なにも掛けないで眠っているではないか。おでこに触れるとぐっしょりとした汗の感触。
リビングを出て、バスルームらしい扉を開ける。予感的中。ホテルのように立派な大理石の洗面台の脇には、清潔なタオルが積まれている。……そのすぐそばの籠には、着替え一式が置かれていた。
黒いパジャマに、同じく黒で揃えられた下着。まるでショップのディスプレイみたいに綺麗に畳まれている。お手伝いさんでもいるのかな?
パジャマはシルクだろうか。さらりと肌触りが良さそうだ。今、ユウちゃんが着ているものと同じデザインらしい。
冷凍庫から、交換用の冷えたアイスノンを取り出す。さっきヒロは、ユウちゃんに薬もさっと手渡していた。あまりの手際の良さに感心する。
看病を申し出たんだから、ちゃんと役に立たなくては。病人より先に寝てタオルケットを奪ったなどと、ヒロには言えない。ユウちゃんのためにグラスへ水を注ぐ。
ソファーベッドに戻ると、彼は大の字になって眠っていた。
パチパチとパジャマのボタンを外す。ぱらりと素肌がはだける。おでこ、首筋、ゆっくりとタオルをあてて汗をふき取っていく。
”抱っこちて、サッちゃん。抱っこ抱っこ”
熱にうかされて、腕を伸ばしてくるアッ君の手を思い出す。何もかもが小さくて愛しかった。だけど、目の前の彼はなんて広い胸なのだろう。厚みのある筋肉で包まれた胸板、長い腕、結構、重労働だ。
背中を拭くために体をひっくり返したいのだが、重っ。
持ち上げている途中で「う〜ん」と寝ぼけた声を出すと、彼は自ら寝返りをうった。
パジャマの上着をはぎ取り、背中もふいてあげる。汗をたっぷりかいたせいか、さっきほどの熱っぽさは感じない。
ぺたっ、と背中に手を当ててみる。うん、熱っぽくない。そう思った途端、びくっとその背中が跳ね上がった。
「さっさっサッちゃんっ?」
くすくす。笑いがこみ上げる。寝ぼけてるのかな? 口が回らない様子が面白い。
「はい、お水」
彼は一気にコップの中身を飲み干した。
「じゃあ、下も脱いで」
「はっ?」
「汗かいたまま着てると冷えちゃうから、下も脱いで」
パジャマのズボンを引っ張ると、びよ〜んとおなかのゴムが伸びた。
バチンっ。
さっと身を引かれたので、握っていたパジャマがするりと手から滑っていった
「いっいいっ。自分でやるからっ」
「そう? じゃあ、はい着替え」
「えっ? あ、下着までっ。よく、わかったね」
「勝手にごめんね。汗ふいて、着替えさせなきゃと思って。上はタオルでもう拭いたから、はい、これ着て」
肩にぱさりとパジャマの上を掛けてあげる。急に黙り込んだ彼の手を取って袖を通してあげる。男の人ってよく育つと、こんなに大きくなるんだな。小さい頃いっぱい牛乳飲んだのかしら? そんな事を思いながらボタンをひとつずつ掛けてあげた。
ふわって髪に手を添えられる感触。最後のボタンを掛けた時、いつの間にかすっぽりと彼の腕に包まれていた。
「俺の都合で突然呼びつけて、その上こんな面倒掛けて、ごめん」
急に真顔でそんな事言われると、困っちゃうな。いいのにそんな事。だからふるふると首をふってみせる。
「だけどさ、……こんな時になんなんだけど……」
途切れ途切れの言葉を補うように、回された腕に力が込められる。
「こんな風に一緒に過ごせてさ、俺、馬鹿みたいに舞い上がっちゃって」
……気のせいだろうか。背中に添えられた指先が、ほんの少しだけ震えている。やっぱり、汗が冷えて寒いんじゃないのかな。
「俺、自分でもどうしていいのかわからないんだよね。サッちゃんより年上で、外じゃ大人の男なんて看板背負ってる癖にホントかっこ悪いんだけど」
そう話をしながらどんどん彼の腕は隙間を狭めてくる。
どくん。どくん。
薄いパジャマの布越しに、早すぎる鼓動が響いてくる。
なんだか……暖かくて。抱っこされる心地よさ。
抱っこちて。抱っこ抱っこ。
あの頃、アッ君が小さな手で求めていた温もりってこういうのなのかな? だけど。
「うっ……ぐるぢい……」
「あっ、ごめんっ」
ゲホッとひとつ咳込んで息を大きく吸い込み呼吸を整える。
「もぉ、力、強いんだもん」
「ごめんっ、大丈夫?……ホント何やってんだろ俺」
しゅんとした彼が、さっきより小さく見える。だからわざと少し怒った声色で彼をからかってみる。
「早くお着替えしてきなさい」
チュッ。
はっ。やばい。昔の癖が出ちゃったよ。
ぐずるアッ君をコントロールする為の裏技。
おでこにチュウ。
ふらふらと立ち上がると、彼は着替えを握りしめてバスルームに消えていった。
これ大人に効くんだ。
アッ君を調教する裏技の数々。
あの頃のノウハウって、今でもそうそう捨てたもんじゃないんだな。
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