【短編小説】一週間で、一生分愛した
リスク
ケロンパ
(11000文字)
空との境界線が曖昧な水平線。
それは、溶け合ってひとつの風景に見える。
完璧なまでに美しく混ざり合った、南の島の蒼い色彩。
けれど――それは錯覚だ。
天と地ほどの差。
その言葉の通り、手が届かないほど遥かな距離。
空と海は、決して混ざり合うことはない。
まるで、あたしたちみたいに。

「上手くできない」
あたしは拗ねた視線で、美月に助けを求めた。
南の島に似合う、背中の大きく開いた涼しげなサマードレス。
それに合わせて髪を編み込もうとしたのだけれど、失敗ばかりだった。
「もう、髪をまとめるのだけはケイ、不器用ね」
白い手が伸びてきて、あたしの髪をすくいあげる。
美月は鏡台の前のブラシを手に取り、
外した黒いピンを口の端に咥えた。
鏡越しに、その形のいい唇をじっと見つめる。
美月、綺麗になった。
それは、薬指に光る婚約指輪のせいだろうか。
独身最後の、気ままな旅行に行きたい。
そう言い出したのは美月だった。
「美月はダイバーじゃないんだし、モルディブのリゾートってカップルばかりだよ」
あたしは苦笑いしながら言った。
「ハネムーンで行ったら?」
「ハネムーンはイタリアって、もう予約しちゃったんだもの」
お願い、と美月はあたしのニットの裾をつまむ。
「ケイだって、もう一度行ってみたいって言ってたじゃない。ほら、カタマランヨットで行ったあの島」
アンガガのことだ。
――そういえば。
その話をしたのは、六年も前になる。
大学のグループ卒論をまとめるために、美月はあたしの部屋に泊まり込んでいた。
夜中、息抜きにと、ベッドの下に無造作に突っ込んでいたアルバムを引っ張り出してきたのは美月だった。
高校を卒業した春。
バイト代を全部つぎ込んで、ひとりでモルディブへ旅した。
ダイビングのライセンスを取りに行った、あのときの写真。
「ケイちゃん、かっこいい……」アルバムの中のあたしを、美月は羨ましそうに見つめていた。
「こんな遠くにひとりで行けるなんて、すごいよ」
真っ黒に日焼けしたあたしと、目の前にいるあたしを、何度も見比べる。
「この島に泊まったの? こんな綺麗な海、信じられない」
「ああ、そこは泊まった島じゃないよ。ダイビングスタッフが、カタマランヨットで連れて行ってくれたアンガガっていう島」
ヨットの前で並んで写っているモルディブの男の写真を、懐かしく眺める。
デート、デートって、あの人、はしゃいでたっけ。
「ふーん、怪しいな」
美月は写真の中の男を指差して、少しだけ疑うように笑った。
「……なにもないって」
あたしは、何でもないふりをした。
――そんな昔のことを、美月は今でも覚えていたらしい。
そんな美月の願いをかなえて、二日前、あたしたちはアンガガに着いた。
十八歳の春以来、十年ぶりだった。
一段と豪華に変わったコテージが、時の流れを感じさせる。
それでも、水上飛行機から見下ろした海と島の色は、何ひとつ変わっていなかった。
あたしと美月は、小さな窓に頬を寄せ合い、言葉もなくその景色を見つめていた。
インド洋の真珠の首飾り。
そう比喩される島々の空中遊覧。
――なのに。
触れ合った美月の頬の方が、ずっと気になっていた。
柔らかくて、少しくすぐったくて。
その感触を、あたしは景色と一緒に、胸の奥へ沈めた。

「はい、できたよ」
窓の外で、南の海が夕暮れの気配を含んで揺れている。
ふわりと、結い上げた髪をルーズに崩しながら、美月は最後のピンを差し込む。
「ケイの髪って、柔らかくて細くて、ほんと綺麗」
鏡越しに、やさしく微笑む。
美月だって――
その言葉を、飲み込んだ。
あいつが、美月をこんなふうに磨き上げたのだろうか。
男の人がくれる幸せって、こんなにも女を変えてしまうものなんだ。
あたしは知らなかった。
今まで、誰よりも近くにいたのは、あたしだったのに。
誰よりも、美月のことを知っていたはずなのに。
結婚したら、彼女は離れていくのだろうか。
――どうなるんだろう。
あたしには、美月しかいないのに。
彼女を手放してしまったら、
どうやって、生きていけばいいんだろう。
「ケイ、この指輪、すごく気に入ってる。ありがとうね。あんな値段でいいのかって、的場さん驚いてたよ」
薬指のエンゲージリングを、美月は愛しそうに撫でた。
そのリングをデザインしたのは、あたしだ。
九月の誕生石、サファイヤ。
「職場でね、ジュエリー好きの子が見て、スターサファイヤじゃないかって。これって普通のサファイヤと違うの?」
あたしはそっと、美月の指を手のひらに乗せた。
「ほら、よく見て。石の真ん中」
美月は少し眉を寄せて、じっと覗き込む。
「三本の白い線が交差して、星みたいに光ってるでしょ。昔からこの光には、信頼とか、希望とか……運命が宿るって言われてるの」
モルディブの、あおいゼリーみたいなブルー。
光の届かない深い海へ沈んでいくような色。
そのイメージを、何度も何度も、美月の指に重ねた。
他の仕事を後回しにしてまで、このリングに時間を使った。
「素敵すぎる。いいのかな、あたしなんかにもったいない」
「なに言ってるの、美月のためにデザインしたのよ。あんたにしか似合わないんだから」
美月は嬉しそうに笑って、子猫に触れるみたいに、そっと石を撫でた。
大学の造形科を出て、ジュエリーの仕事に進んだ。
運もよくて、いくつか賞ももらい、来年には自分のアトリエを持つ予定。
――でも。
こんなふうに想いを込めて、リングを作ったことなんて、あっただろうか。
受け取りに来た美月の婚約者――的場に、
「お金なんていらないから」と言ったら、
「ケイからのプレゼントじゃ、エンゲージリングにならないよ」
そう言って、困った顔で笑っていた。
大学の頃、美月に言われたことがある。
ケイは素敵な夢があって羨ましいって。
「美月にだってあるでしょ? なにかひとつくらい」
「普通のお嫁さん……」
本当に恥ずかしそうに、美月はそう言った。
「あたし、ほら、両親が離婚してるから。
すごく普通の家庭に憧れるの。好きな人のお嫁さんになって、幸せに暮らすこと。それがあたしの夢。つまらないでしょ?」
言葉に詰まった。
飾り気のない、そのまっすぐな夢は、
あたしの心を強く揺さぶった。
「じゃあ、いい男を捕まえないとね」
美月の顔を覗き込む。
「あたしが見極めてあげるよ。美月を幸せにできる男かどうか」
――その言葉を、実行した。
美月の彼氏になった男、すべてに。
罠を仕掛けて、値踏みした。
最初のひとり目。
見極めてあげると約束した、大学卒業間際。
その頃にはもう、美月はその男と半年付き合っていた。
美月は、そこそこモテた。
派手じゃないぶん、逆に目を引くタイプだった。
長い黒髪と、百合みたいに凛とした佇まい。
軽い気持ちじゃなく、ちゃんと付き合いたいと思わせる、そんな女。
両親の離婚で父親と離れて育った影響もあるのか。
――ひとりでいるのは、あまり得意じゃなかった。
気がつけば、いつも誰かしら“彼氏”がいた。
それがどれくらい本気なのかは、その時々だったけれど。
あたしが最初に罠を仕掛けたその男とも、
一見うまくいっているように見えた。
――でも。
あたしは気づいていた。
その男が、美月の隣にいるあたしを、ちらちら盗み見ていることに。
そういう視線には慣れていた。
いつもなら気に留めることもない。
……今までは。
「あたしが見極めてあげる」
あの日、そう言った時から、
そいつは――“試す対象”に変わった。
簡単だった。
美月を愛してるなんて、口先だけだ。
この男に「愛」なんて言葉は似合わない。
「美月には、内緒にしてね」
少し甘えるように目を向けると、
男はためらいもなく、あたしを部屋に連れ込んだ。
「……夢みたいだ」
そんなことを言いながら、
迷いもなく、あたしにキスをしてきた。
「彼は美月を幸せになんてできないよ」
キャンパスの学食で、あたしは唐突に言った。
美月は一瞬、何を言われたのかわからない様子で、きょとんとあたしを見返した。
携帯を差し出す。
そこに映っているのは――男の部屋。
「ケイ、彼に何したの?」
「本物チェック。あんたを本当に幸せにできる男かどうか」
美月の表情が、すっと強張る。
「あたしがケイにかなうわけ無いじゃない。男だったら、皆ケイを選ぶよ……」
握っていたフォークが、小さく震えていた。
そして――
「面白いでしょう? 人の男が、自分に心変わりをしていく様子を眺めるのって」
美月にしては珍しい、きつい口調だった。
目の端に涙を浮かべて、まっすぐこちらを睨んでくる。
あたしは瞬きもせず、その視線を受け止めた。
「だって美月は、本物が欲しいんでしょ?
見極めてあげるって、約束したじゃない」
ガタン、と。
周りが振り向くほどの音を立てて、
美月は立ち上がった。
ほとんど手をつけていない
ランチのプレートを残したまま、
すぐ横を通り過ぎていく。
それから卒業までの二ヶ月、
一言も口をきかなかった。
何度か、その男からしつこい誘いがあったけれど、
あたしはすべて無視した。
美月は、まるで最初からそこにいなかったみたいに、
あたしの存在を視界から外した。
だから、同じように振る舞うようにした。
もう戻ってこないかもしれない――
そんな不安はあったけれど、
きっと伝わると、そう信じていた。
ある日、突然。
美月は、あたしの前に戻ってきた。
青い顔で、アパートの玄関の前にしゃがみ込んで、
膝を抱えていた。
「連絡してくれればいいのに」
慌ててその手を取る。
ひどく冷えていた。
立たせて、部屋に入れる。
美月の好きなココアを、
美月の好きなカップに注いで、
そっと差し出した。
白いカップを両手で包んだまま、
しばらく口もつけずに、ただ温もりを確かめている。
湯気が、かすかに揺れる。
「……ケイの言う通りだった」
「そう」
短く、それだけ返す。
もう、それ以上は言わなくていい――
そんな視線を向けた。
「ごめんね……」
すがるような目で、美月は続けた。
「ケイ、あたしのこと、嫌いになったでしょう?」
「馬鹿だね」
泣きそうなその頭に、そっと手を添える。
「約束したでしょ。美月の夢、叶えるって」
――それから。
美月は、あたしに協力するようになった。
彼氏という関係に慣れた頃合いを見て、
その男に“本物”の資質があるかどうか、試す。
そのための隙を、美月自身が作るようになった。
まるで、共犯者みたいに。
あたしたちの試験に、合格する男はほとんどいなかった。
最初は拒む素振りを見せる男もいた。
けれど、ほんの数日の沈黙のあと、結局はあたしに手を伸ばしてくる。
「ケイじゃ、レベルが高すぎるかな」
イエスかノーか、それだけの報告に、
美月はいつも苦笑いを浮かべた。
あたしがどんな罠を仕掛けたのか、
美月は詳しく聞こうとはしなかった。
だから、話さなかった。
……気づいていたのだろうか。
その中の何人かと、
あたしが肌を重ねていたこと。
美月を抱いた腕。
美月に触れた唇。
そのぬくもりを、
男の身体を通して、確かめていた。
ほんのひとときの、嘘でできた時間のあとで、
あたしは静かに、失格の烙印を押していく。
女が好きなわけじゃない。
男が苦手なわけでもない。
ただ――美月が好きだった。
美月のためなら、なんだってできた。
これを、愛なんて呼んだら、罰が当たるのかもしれない。
それでも。
それがすべてだった。
なのに――アイツが現れた。
社会人になってからも、美月とはよくランチに出かけた。
職場が近かったから、自然と足が向いた。
ある頃から、美月の口にたびたびのぼる名前があった。
美術鑑定士の、的場。
――そろそろ、いいんじゃない?
会わせようとしない、その様子に、
あたしはずっと引っかかっていた。
まるで、終わりを先延ばしにするみたいに、
美月は的場を連れてこなかった。
だけど、その日は違った。
「ケイ、彼に会ってくれる?」
「あら。ずいぶん時間かかったね」
初めてその名前を聞いてから、もう一年近く経っていた。
「この前ね、的場さんに――結婚しようかって言われたの。
「……そう」
さりげなく答えて、視線を逸らす。
その瞬間、すっと血の気が引いた。
店内に流れていたジャズが、遠くなる。
――大丈夫。
心の中で、繰り返す。
いつもと同じ。
いつも通り、見極めればいい。
「彼といるとね、すごく安心できるの。今までと違う気がする」
のろけているはずなのに、
どこか不安そうな顔。
「的場さん、本物だといいな」
初めて的場を見たとき、
この男は掴みどころがない――そう思った。
閉館間際の美術館で、待ち合わせをしていた。
三人で初めて顔を合わせる日。
あたしは自分のデートよりも気合を入れて、
約束より一時間も早く着いていた。
牡丹の静物画の前で、ぼんやりと立ち尽くす。
――そういえば。
美月は、的場の写真を見せたことすらなかったな。
そんなことを、ふと思い出した。
そのとき。
いつの間にか、隣に男がいた。
人気の少ない館内で、この距離は不自然だ。
横目で鋭く一瞥すると、
「やっと会えたね」
男は、屈託のない笑顔を向けてきた。
知らない顔。
思わず眉間に皺が寄る。
何が可笑しいのか、男は笑顔のままだ。
背は高く、がっしりしている。
無駄のない体つき。
それなのに、どこか少年みたいな顔立ちで、
その笑顔の端に、ほんの少しだけ年齢が滲んでいた。
「ケイちゃんでしょう? 俺、的場です」
ナンパでもされているのかと思っていたあたしには、不意打ちの自己紹介だった。
アンガガのサンセットタイムが始まる。
美月に結い上げてもらった髪へ、そっと手をやる。指先に、さっきまであった温もりが残っている気がした。
ドレスアップしたのに、あたしたちはサンダルも履かず、裸足のまま外に出た。この島には、裸足が似合う。レストランの中にまで、さらさらの白い砂が敷き詰められているのだから。
夕日を見ながら、バーで一杯。それが、この島での習慣だった。
水上コテージの先にあるサンダウンバーへ向かって歩き出す――けれど。
すれ違った顔馴染みのスタッフが、今日はフルムーンだから、ビーチに特別なバーが出ていると教えてくれた。
ビーチにバー?
あたしたちは顔を見合わせて、小さく笑う。
方向を変え、ふかふかの砂を裸足で踏みしめていく。
夕焼けに染まる浜辺の先に、映画のセットのようなバーが、唐突に現れた。
すでに何組かの客がいて、ドイツ人らしい男たちが、湿った風に笑い声を混ぜながら、ゆったりとグラスを揺らしている。
一番端の、まだ人のいないテーブルを選んだ。
グラスを運んできたウェイターは、なかなか離れようとしなかった。気がつけば、もう一人増えている。
日本人の女ふたり。――値踏みするような視線には、気づいていた。
あたしはグラスを持ったまま、軽く視線だけを上げる。
「邪魔しないでね。あたし達、恋人同士なんだから」
英語でぴしゃりと告げると、ひとりが大げさに肩をすくめる。もうひとりは、指を振って笑いながら、美月の手元を指さした。
――そのリング。
目ざとい。
あたしは椅子から少し身を乗り出して、そいつの耳元に顔を寄せた。
「その指輪、あたしの贈り物よ」
囁いてから、自分の耳のピアスに触れる。
――同じ石。
ふたりは顔を見合わせて、肩をすくめ、ようやく離れていった。
残ったのは、潮の匂いと、ぬるい風と、夕焼けの色。
「ケイ、そのピアス……」
「小ぶりのいいサファイヤがあったから、作ったの」
出る直前に差し込んだそれに、美月は今になって気づいたらしい。
「えっと…… ペア。 女ふたりで揃えても、意味ないかな? これ、あとで美月にあげる。 指輪に合わせて使ってよ」
少し早口になっている自分に気づく。
「ううん。お揃いがいいの」
そう言って、美月はあたしの耳に触れた。
その指先が、ほんの少しだけ長く残る。
「ケイが使って。ね?」
鼓動が、少しだけ強くなる。
「誘惑が多いからさ――あたしたち、本当にカップルってことにしようか?」
悪戯っぽく笑って、美月が腕に指を絡めてくる。
日本ではできないことが、この島では自然にできてしまう。
まるで、本当にそういう関係みたいに。
その指の感触はこの上なく甘美で。
あたしはこの素朴で、どうしようもなく美しい楽園で、
静かに幸せを噛み締めながら、沈んでいく夕日を見つめていた。
美術館での顔合わせをきっかけに、
三人で食事に行ったり、飲みに出かけたりすることが増えた。
機会を慎重に待った。
焦ってはいけないと。
そして――
的場があたしを「ケイ」と呼ぶくらいに距離が縮まった頃、
罠を仕掛けた。
「美月ね、急に親戚の付き合いで映画に行けなくなったんだって」
夕方、渋谷の待ち合わせ場所に現れたのは、
あたしと的場の二人だけ。
「ああ、さっき俺にも連絡きたよ。仕方ないね――ケイ、二人で行くか」
いつもは、美月が間にいた。
その日は、並んで歩いた。
彼の肩の位置に、あたしの額がくる。
映画の女優の話なんかをしながら、
ときどき見上げる。
映画が終わって、そのまま同じビルのイタリアンに入った。
ピザを頬張る。
「豪快だな、ケイ。そんな大口開けたら、美人が台無しだ」
褒めているのか、からかっているのか。
的場は「美人」なんて言葉を投げても、
そこに含みを感じさせない。
――隙がない。
あたしを見つめるその視線は、
どこまでも自然で、揺れない。
どう仕掛ければいいのか、わからなかった。
けれど――
外に出ると、雨が降っていた。
あたしは用意していた折り畳み傘を開く。
寄り添うようにして、歩き出す。
――神様がくれたチャンスだと思った。
「ちょっと強いな。小降りになるまで、どこかで待つ?」
シャッターが降りた店の軒先に身を寄せる。
傘があっても、肩が触れる。
離れれば、すぐに濡れる距離。
視界を遮るほどの雨のカーテン。
まるで街から切り離されたみたいに、的場と二人きり。
「美月と、結婚するの?」
唐突に、口にしていた。
「返事はまだなんだ。彼女がうんと言ってくれたら、だけど」
困ったような顔のまま、
的場は静かに微笑んだ。
「美月の、どんなところが好き?」
「そうだな……いつも美月らしいところかな。正直で、背伸びもしない。自分らしさをちゃんと持ってるところ」
――同じだ。
あたしが答えるなら、きっと同じ言葉を選んでいた。
的場は、うわべじゃなく、美月を見ている。
あたしと同じところで。
――だからこそ。
この男なら、美月の夢を叶えられる。
結婚。
子供。
あたりまえの家庭。
普通の幸せ。
あたしには、与えられないもの。
すぐ隣にある的場の体。
そこに、誰よりも濃く、美月の温もりが残っている気がした。
気づけば、腕にもたれていた。
――演技?
――それとも。
「あたしにも、少しだけ分けて。その幸せ」
「え?」
的場が、こちらを覗き込む。
顔を逸らして、そのまま腰に腕を回した。
濡れたシャツに頬を押しつける。
「ちゃんと秘密、守れるから……二人の邪魔なんてしない」
胸に耳を当てる。
規則正しい鼓動。
「今晩だけ、一緒にいて。お願い」
――変わらない。
どれだけ近づいても、
その鼓動は乱れなかった。
ゆっくり顔を上げてみる。
的場は、ただ静かにあたしを見ていた。
癒すみたいな眼差しで。
大きな手が伸びてきて、
髪に触れる。
まるで、転んだ子供をあやすみたいに。
「こんな綺麗な子に口説かれて、喜ばない男はいないよな」
回した腕に、力を込める。
祈るように。
「もしかして、俺を試してる?」
――心臓が跳ねた。
でも、顔には出さない。
「そんなことないよ。あたしじゃ駄目? 役不足?」
「だってケイは、俺のこと好きなわけじゃないだろ?」
咄嗟に言葉が出なくて……
だから首を振って否定してみせる。
「……もう、やめるんだケイ。こんなことは」
雨音が、遠くなる。
その声だけが、すぐそばで響く。
「そんなに美月が好きか?」
息が止まる。
「もしケイが男だったら――俺の出る幕なんてなかったよ」
――見抜かれていた。
本能的に、じりじりと後ずさる。
的場との距離を、わずかに開ける。
雨が――
幾千もの粒が、跳ねるように体を打つ。
もう、誤魔化せなかった。
滑稽で、笑ってしまいそうになる。
「こんな女が美月のそばにいたら、目障りでしょう」
「いや」
的場は、あっさりと言った。
「美月にとって、ケイは必要な人間だ。あいつはいつもお前の話をする。憧れてるって――綺麗で、強くて、夢を叶えてるお前が親友なのが誇らしいって」
雨に紛れて、涙が流れているのかどうかもわからない。
拭うこともせず、そのまま立っていた。
「結婚を申し込んだんだ。美月の全部を受け入れる覚悟はある。ケイのことも含めてな」
――受け入れる。
その言葉だけが、胸に残った。
「ケイの部屋、池尻大橋だろ。歩けるな。送るよ」
的場は、雨の中に踏み出してくる。
「傘はいらないな」
並んで、歩く。
生温い雨に打たれながら。
沈黙が、あたしたちを包んでいた。
不思議と、息苦しさはなかった。
しばらく歩いて、マンションの前で立ち止まる。
「選ぶのは美月だ」
的場は、静かに言った。
「でも、あいつが俺を選んでも――ケイに勝ったなんて思えないだろうな。たぶん、ずっと」
部屋に戻り、
濡れた服を、引き剥がすように脱ぎ捨てる。
バスローブだけ羽織って、ずぶ濡れの鞄からスマホを取り出した。
かすかに光る画面。
『合格』
短い一言を打ち込む。
送信ボタンに置いた指が、震えていた。
それでも――
涙は、一滴も落ちなかった。
それから少しして、
的場と美月は婚約した。
幸せそうに報告する美月。
あたしは、ちゃんと笑えていただろうか。
悟られたくなくて、口にした。
「婚約指輪、あたしがデザインしてあげるよ。美月の指に、一番似合うやつ」
カタマランヨットで、他の島を巡りたいと美月が言った。
まるで昔、あたしが話したモルディブの旅をなぞるみたいに。
いくつかのリゾートを回り、
無人島でランチをして、
最後に小さな漁民の島へ寄った。
観光地じゃない、小さな島。
物を売りつけられることもなく、
子供たちが、嬉しそうに集まってくる。
気づけば美月は、その輪の中にいた。 言葉も通じないのに、笑って、話して、地面に枝で絵を描いている。
やがて、美月は子供たちの手を取った。
「むすんで――」
そう歌いながら、両手をきゅっと握って見せる。
「ひらいて」
ぱっと手を開くと、子供たちが真似をして笑い出した。
もう一度。 今度は少し大げさに。
手を叩いて、また開いて。 腕を広げて、空を指さして。
言葉なんていらなかった。
単純な動きとリズムだけで、子供たちはすぐに引き寄せられていく。
気づけば輪は大きくなっていて、美月はその真ん中で、子供たちと同じ顔で笑っていた。
少し離れたところから、あたしはそれを見ていた。
――こんな美月が、好きだ。
シャッターを切る。
南の島の光を、その一瞬を、閉じ込めるように。
まるで遠足の集合写真みたい。
美月が真ん中で笑っている。
アンガガへ戻るヨットは、
風を受けて、静かに滑っていく。
「美月が、あんなに子供好きだとは知らなかったな」
「可愛かったね。お目々パッチリで。ケイは子供嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、どう扱っていいかわからないもん」
「ケイらしいね」
優しい瞳で、美月は笑う。
「……美月は、いいお母さんになるよ」
小さく呟く。
少し照れた顔で、美月ははにかんだ。
――行ってしまう。
じわりと、胸の奥が軋む。
甘えるふりをして、肩に寄りかかる。
「いっぱい遊んで、眠くなっちゃった」
「ケイが子供みたい」
くすっと笑って、肩を貸してくれる。
顔を伏せる。涙が、こぼれそうで。
風が乾かしてくれるまで、
このままでいたかった。
目を閉じる。
美月の温もりの中で。
――このまま、続けばいいのに。
この島での一週間を、
何度でも繰り返して生きていきたかった。
――だけど、それは夢。
最後の夜は、もうすぐそこまで来ていた。

ラストディナーのテーブルは、可愛らしく飾られていた。
あたしたちの最後の夜を、やけに華やかに見せる。
スタッフが小さなブーケを差し出してきた。
その温かさが、胸に刺さる。
部屋へ戻る帰り道、
美月は「また来たい」と繰り返した。
――そのとき隣にいるのは、きっとあたしじゃない。
そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。
水上コテージに戻ると、
床に埋め込まれたガラス越しに、海が覗けた。
ライトをつける。
暗い水面に灯りが滲んで、魚たちがふっと集まってきた。
影のように揺れて、
近づいたときだけ、鮮やかな色を見せる。
言葉もなく、ふたりで見つめる。
「いよいよ来月だね、結婚式」
返事はない。
――帰りたくないな。
そう思った、そのとき。
「……結婚、やめちゃおうかな」
一瞬、自分が言ったのかと思った。
でも違った。
「……あたし、怖い」
かすれた声で、美月は言葉を繋げた。
「幸せな結婚が夢だなんて、笑っちゃうよね。男の人と暮らすのって、そんなに甘くないって、知ってるもの……小さい頃のパパの記憶は、いつもママと喧嘩ばっかり……」
美月は、泣き出した。
背を丸めて、
小さく震えながら。
抱き寄せると、
美月はそのまま体を預けてきた。
「ケイが男だったらよかったのに……」
震える声。
「そしたら、何も考えずに、飛び込めるのに……」
「何かあったら、いつでもあたしのところにおいでよ」
美月は首を振る。
「ケイだって結婚しちゃうよ。すごいモテるんだもん、ケイは……この島でも一番のベッピンさんだもの」
美月の言葉に、あたしは苦笑いをした。
「幸せを知らないあたしが、幸せな結婚なんて出来る訳がないよ……」
子供みたいに泣きじゃくる美月の頬を、
涙を拭いながら両手でそっと包む。
その温もりを引き寄せて――
慰めるように――唇に触れた。
ほんの一瞬。
美月は、はっとしたように目を見開いて、あたしを見つめる。
触れていた唇に、そっと指を添えている。
「いつでも空けておくから。美月の場所」
さっきと同じような台詞を、もう一度口にする。
だけど今度は、本当の意味を含んで彼女に伝わっただろう。
「何年か後に、あたしも結婚なんてすることがあるかもしれない。
だけど、美月が一番。ずっとずっと、あたしの一番大事な人だよ。
美月の場所を持たせてくれないような男とは、結婚なんてしないから」
「馬鹿だよ……ケイは、あたしなんか……」
そう言って、また泣き出した美月を抱き寄せる。
そのまま、最後の夜を一緒に眠った。
いつもの夜みたいに。
でも――
なぜか、満たされていた。
眠った美月の手のひらに、
そっと自分の指を重ねる。
その温もりが、ただ愛しかった。
そのまま目を閉じる。
深い深い、あおいゼリーの海に沈むように、眠った。
成田の空港に、的場が迎えに来ているのが小さく見えた。
「行っておいで」
美月の背中を優しく押すと、躊躇したように美月は振り返った。
だから、耳元でそっと言った。
「夢はね、自分で掴まなきゃ駄目だよ。
あいつは、あたしが認めた唯一の男なんだから。
大丈夫。飛び込んでおいで」
小さく頷いた美月が、一歩踏み出そうとした時、
その背中に向かって、わざと軽い声で付け加えた。
「――あの話、子連れでも受け入れ可能だから」
美月は、もう一度振り返った。
今度は、笑っていた。
少しだけ拗ねた目で、あたしを見て、
そのまま、的場の方へ走っていく。
淋しくないと言ったら嘘になる。
だけど何かが吹っ切れていた。
終わった訳じゃない。
愛し続けることは自由なのだと。
あたしは、この一週間を生涯忘れない。
繰り返し繰り返し、何度この日々を思い返すのだろう。
決して色褪せない。
そんな一週間が、人生にはあってもいいのかもしれない。
【END】




小説の舞台:モルディブ/アンガガ
写真提供:RAKUENへの扉
http://gha11241.sunnyday.jp/
●どこか一つでも心に残るものがあれば嬉しいです。
●同じ世界観の短編をこれからも投稿していきます。魅惑の疑似バカンスを お楽しみください。
●昔書いた小説ですので、現在は島がリニューアルして名前が変わっていることがあります。
●モルディブを知らない方でも問題なく楽しんでいただけるかと思います。モルディブは1島=1リゾートホテルが基本です。小説も1島ごとに描いていきます。
●南の島にこだわらない物語や日本文化を考察したエッセイも綴っています。
★フォローやご感想などお気軽にどうぞ。励みにします。
