【短編小説】200万円の嘘
ブルー…BLUE…
ケロンパ
(13500文字)
「…ったく、付き合ってらんないわ」
呆れた顔で、彼女は吐き捨てた。
「いい年して、まだそんな夢ほざいてるの? あんたはもう賞味期限切れなのよ」
「わめいてないで、さっさと消えろ。ウザいんだよブス」
「……もう無理。じゃあね」
ほんの二年前まで、俺の前で恥ずかしそうにうつむいていた女と、同一人物とは思えない。
田舎臭く、野暮ったい服を着ていたあの頃。
だけど、それが彼女の素の魅力を引き立てていた。
いつの間にか彼女は、ブランド物のバッグや服を身につける、ありきたりな都会の女になっていった。
そして彼氏も、その見てくれに似合う男が良くなったんだろう。
名は知れているが小さなライブハウス。
そのあなぐらには、俺の歌声を求めて若い連中が集まってくる。
彼女は俺を“特別”だと信じきったような目で見つめていたこともあった。
所詮、そこ止まりだった。
変わっていく彼女の欲求に、俺は追いつけなかった。
別に困ることはない。
こんな狭い世界でも、俺に熱を上げる女はいくらでもいる。
だけど、結末は同じ気がした。
――あんたは賞味期限が切れたのよ。
俺だって、いつまでも、
ライブハウスのお山の大将で満足しているわけじゃない。
だけど、これ以上どうやって登ればいい?
歌に対する情熱さえ、もう擦り減っているこの俺が。
ステージの上で夢を歌って、ホストのバイトでは女に春を見せる。
何が現実かわからない日常。
馬鹿騒ぎの雑音の中に生きていた。
プライベートじゃ愛想のない俺でも、ホストの仮面を被れば、女を酔わせるくらいの台詞は吐ける。
ライブの日は休む。
そんな面倒な条件付きでも、
店の仕事はちゃんとこなしていた。
「可愛げのねぇ奴だな」
店の看板ホストが、俺の後ろで悪態をつく。
よっぽど目の上のたんこぶらしい。
客の指名が俺に流れているのが癪に障るんだろう。
俺から見たら冴えない男だ。
こんな男に金を払う女の気が知れない。
歌舞伎町の小っちぇ店にしがみついて、
他の世界を知らない、猿山のボスみたいな男。
奴の、アイドル崩れを気取った甘い顔立ち。
そのご自慢の面には、金と夜に擦り減らされた年月が刻まれていた。
……あんたも賞味期限切れみたいだな。
こいつを見ていると、胸糞悪くてイライラした。
自分とどこか同じだと言われているみたいで。
俺は違う。
まだ登る階段があるんだよ。
開店直後、最初の客が俺を指名した。
一人で来る客は珍しくない。
だけどその女は、この手の店ではあまり見かけないタイプだった。
この店に来る女の目的は男だ。
そういう時の女は、大抵それなりに着飾ってくる。
化粧っ気のない顔。
洒落た黒ぶちの眼鏡。
仕立てはいいが、シンプルすぎる白いシャツとジーンズ。
だけど、いい女だと思った。
ここまで飾り立てなくても、
彼女には凛としたオーラみたいなものがあった。
「ようこそいらっしゃいませ。ご指名ありがとうございます、銀です」
いつものセリフ。
苗字の白銀から一文字だけ取って銀。バンドでもこの名前で通していた。
片膝をついて挨拶する俺を、女はきょとんとした顔で眺めている。
おいおい、どういう店かわかって入ったのかよ。
指名してきたってあたり、わかってるんだろうとは思うんだけどよ。
女は分厚い革の手帳を取り出すと、書き留めてある何かを確認して、
「えっと、ドンペリのピンク頂戴」
とぬかしやがった。
その手帳、ホストクラブのマニュアルでも書いてあんのかよ?
だけど上客だ。
ただの馬鹿かもしれないけど……。
「ドン・ピン一本入りました!」
店最初のオーダーが、両手の指じゃ足りない値段の一本。
がらがらだった店内が、少し活気づく。
指名のついていない何人かのホストが、この景気のいい客のテーブルに注目しだした。
その中には、俺に愛想が悪いとイチャモンをつけてきたあの男――女みたいな間抜けな源氏名のユウもいた。
この客に狙いをつけたんだろう。
物欲しげな視線で、ずうずうしく隣に座る。
「ごめんね」
思いもしないセリフが女の口から漏れた。
「あたし、大勢苦手なの。彼一人でいいわ」
彼女が視線で指したのは、もちろんこの俺。
ユウの顔が青ざめたのがわかった。
だけど、さすがにこれくらいで引き下がる神経じゃないらしい。
「冷たいな~。お姫様の扱いは、俺のほうが得意なんだけどな」
可愛いとでも思っているのか、すくい上げるような視線で彼女を見つめる。
彼女は苦笑いを浮かべた。
だけど、物事をはっきり言うタイプらしい。
「彼だけでいいの」
馬鹿みたいに唖然としているユウに、声を落として俺は毒づいた。
「お呼びじゃないんだよ、センパイ。下がってくれよ」
その瞬間、奴の持っていたグラスの中身が、俺のスーツにぶちまけられた。
「……上等じゃん」
仕事中だ。
いつもの俺なら見境くらいある。
だけど、ずっと腹の底に溜め込んでいた苛立ちの火種が、そこで一気に爆ぜた気がした。
「……っ止めろ!! 銀!!!」
店中のホストが俺を押さえ込む。
だけど、その頃にはもう、俺の拳は充分すぎる勢いで、あの男の体にめり込んだ後だった。
ちょっと売れてきたからって、掟が厳しいこの世界。
俺は店先に、荷物と一緒に放り出された。
「……ったく。ざまぁねぇな」
でも、奴に叩き込んだ拳の感触に、気分は妙に晴れていた。
これ以上、もやもやを溜め込む余裕なんて、俺には無かったんだ。
「失業しちゃった?」
俺の後ろから、ネオンに照らされた影が伸びる。
さっきの女だった。
「あんたか……悪かったな。ホストクラブ初体験、邪魔しちまって」
「……気にしないで」
クスクスと、笑いを噛み殺した声。
「仕事なくなっちゃって、あなたこそ困ったでしょ?」
「俺? まあ、また何か見つけるさ」
「ホストって儲かるの?」
「どうだろ……普通のバイトよりは割いいんじゃん? まだ新参だったし、稼ぐまではいかなかったかな」
そう、これからだったんだ。
顔もそこそこ売れてきて、他のホストから女が流れ始めていた。
「ね? よかったらアルバイトしない?」
「どんな?」
「週給で、一週間だけの高額アルバイト」
「いくらくれるの?」
「そうね……二百万じゃ安いのかな?」
そこで彼女は少し笑った。
「あなたを借り切るの」
数日後、信じられない金額が俺の通帳に振り込まれていた。
上等なホストクラブなら、こんなこともあるのだろうか。
だけど、たいした格でもない歌舞伎町の場末の店。
しかも、まだ新人だった俺に――いや、もうホストですらない俺に。
どうして?
あの日路地裏で、旅行に付き合ってほしいのよ、と彼女は言った。
ホテルは押さえてあるし、一人増えても変わらないと。
彼女は例の分厚い手帳を開いて何かを確認し、俺の飛行機のチケットも手配するからと、待ち合わせの日時までさらりと口にした。
「水着とパスポートだけは忘れないでね」
買い物三昧の旅行の荷物持ちって訳か?
……いや。
荷物持ちに、こんな金を払う奴がいるわけがない。
一週間の貸し切り。
彼女は俺に、何を求めているんだろう。
行き先も告げられないまま、数週間後。
半信半疑で、俺は成田へ向かった。
出発ロビーで、小さく手を振りながら近づいてくる女。
その姿を見た瞬間、俺は二、三歩後ずさっていた。
……無意識に。
ラフなシャツにベージュのパンツ。
服の雰囲気は前と変わらない。
だけど、背中に背負っているものが異様だった。
リュック……いや、あれは登山で使うザックってやつじゃないのか?
海外旅行って普通、スーツケースだよな。
周りを見渡せば、ヒールを履いた女たちが、軽そうにキャリーケースを転がしている。
そっちが普通だろ?
男だって大抵そうだ。
「持つよ」
手を伸ばすと、彼女は笑った。
「慣れてるから大丈夫よ」
どこ行くんだ?
何だか嫌な予感がした。
だけど、怖気づいたと思われるのは癪で、俺は意地でも行き先を聞かなかった。
乗り込んだ飛行機は、スリランカ航空。
スリランカ?
聞いたことはある。
……でも、それってどこだ?
何だかイメージが違う。
ハワイとかヨーロッパとか、
買い物して、ゴージャスなホテルのプールで泳ぐんだと思っていた。
まさか、このザック背負ってジャングルに行くんじゃないだろうな。
もしかしたら俺、護身用に雇われたのかもしれない。
そんな考えまで頭をよぎる。
命張るなら、二百万は相当かもな。
ちょっと後悔していた。
だけど、それでも俺は意地になって行き先を尋ねなかった。
スリランカで、一回り小さな飛行機に乗り換える。
俺は一体どこへ連れて行かれるのか、見当もつかなかった。
配られた出入国カードもよくわからなくて、彼女に書いてもらう。
俺はイヤホンを耳に突っ込んで、スマホの音楽をぼんやり流していた。
曲を書かなきゃ。
新しい歌。
バンドの連中に一週間留守にすると伝えたら、
「銀、一体いつから曲書いてないんだよ。マジでもうヤバいって」
そう言われた。
わかってるんだよ。
だけど今の俺には、何も浮かんでこなかった。
馬鹿みたいに空っぽ。
喉元に、何か杭みたいなものが刺さっていて、言葉が出てこない。
飛行機が着いたと思ったら、今度は真っ暗闇の中、爆走するボートに乗せられた。
だけど、その頃になってやっと俺は、自分が南国のなんとも言えない空気に包まれていることに気づいた。
目の前の風景を遮るものが何もない。
降るような星空だった。
まるで地球をぐるりと見渡せそうなほどに。
どこへ連れて行かれるのかという不安は、一瞬で期待に変わっていた。
言葉も交わさず、隣に座る彼女へ視線を向ける。
風を含んだ髪が、夜の輪郭に溶けていた。
歌舞伎町のホストクラブ――
安っぽいのに、ゴージャスにフェイクされたあの空間では、彼女はどこか浮いて見えた。
だけど、夜空と海を背負った彼女は違った。
黒いキャンバスへ描かれたように、景色へ溶け込んでいた。
「着いたみたいよ」
そう言って彼女が指差した先へ顔を向けると、激しかったボートのエンジン音が、すとんと落ちた。
そして、ぽっかり浮かぶ桟橋の灯りへ向かって、船はゆっくり滑っていく。
船を降り、短い桟橋を抜けた瞬間、慣れない砂の感触に戸惑った。
アスファルトしか知らないその靴には、不釣り合いな柔らかさだった。
現実感がない。
ただ、出迎えてくれた異国の男の笑顔が、あんまりにものんびりしていて、
とりあえず命の危険はなさそうだなと安堵した。
そのあと強烈な睡魔が襲ってきて、深く考える余裕もなく、俺は倒れ込むようにベッドへ横になった。
飛行機で眠らなかったツケが回ったんだろう。
服も着替えないまま目を閉じると、深い眠りへ沈んでいった。
やばい、思いっきり寝ちまった……。
まだ薄暗い部屋の中で目が覚める。
時差もわからないこの場所で、一体今が何時なのか、寝ぼけた頭でぼんやり考えていた。
隣では女が眠っていた。
無防備な寝顔は、思ったより幼く見える。
薄く散ったそばかすのある素顔。
何だか、この女らしかった。
若さを失っていくことに必死で抗いながら、ホストクラブへ通う女たちとは違う。
彼女は、上手に時間を重ねているように見えた。
まだ、この女の何を知っているわけでもない。
知っているのは、ジュンという名前と、パスポートをちらりと見て知った、俺より五つ年上ってことくらいだ。
靴を履いて、ドアを開ける。
その瞬間、目の前に広がった景色に、俺は言葉を失った。
目の前いっぱいに広がる、海と空。
見たこともない色。
ブルーとひと言で片づけるには、あまりにも陳腐だった。

一歩外へ踏み出すと、昨日と同じ違和感が靴の裏に触れる。
だから裸足になった。
混ざり気のない――これも白という言葉じゃ足りないような、さらさらの砂。
その感触を確かめたくて。
深く沈む砂浜をゆっくり歩き出す。
ささやかな波の音。
他には、何の雑音もない。
俺の知っている夜明けは、ネオンと闇で覆われた街の薄皮を、朝日がじわじわ剥ぎ取っていくような時間だった。
薄汚れた景色が、朝日で一層さらけ出されていく。
そして始まる雑踏の序曲。
音量を絞った不協和音みたいに、人のざわめきが街を満たしていく。
だけど今、生まれたばかりの夜明けを前にして、俺はただ圧倒されていた。
自分の足跡だけが波打ち際へ続いている。 真っ白いキャンバスへ刻んだ傷みたいで、胸の奥がわずかに痛んだ。
だけど、それでも俺を、柔らかく包んでくれる砂の感触に癒されていた。
この心地よさを、知っている。
歌うことに、ただ夢中だったあの頃。
曲を作る喜び。
自分の中から何かが溢れ出すような、高揚感。
ビーチに沿って、なんとなく歩いていると、また同じ場所へ戻っていた。
十分もかからなかった。
しかも朝が早いせいか、誰にも会わない。
途中、駅のホームに貼ってありそうな、南の島の水上コテージが見えた。
本物を見るのは初めてだった。
ここは、本当にどこかの島なんだと、そこでやっと実感した。
俺が泊まっているのと同じ、とんがり屋根のビーチコテージが、緑の中にぽつぽつ点在していた。
だけど……これだけ?
一周十分もない島。
街は無いのか?
この島には、生活感というものがほとんど見当たらない。

コテージの前の椅子で、寝起きの彼女がのんびり煙草をくゆらせている。
……今どき、紙タバコかよ。
「普段は吸わないのよ」
煙を細く吐きながら、ジュンは笑った。
「旅の間くらい、いいかなって」
その気怠げな仕草は、妙にこの島に似合っている。
「……ここ、どこなんだよ」
俺がそう尋ねると、ジュンは小さく笑った。
「やっと聞いた」
前にも耳にした、笑いを噛み殺すような声。
「モルディブって知ってるかな? この島はトラギリって言うの」
スリランカじゃないのか。
モルディブ……。
聞いたことはある。
だけど、知らないに等しかった。
「どんな俺がご希望?」
ここでの俺を、あんたは買ったんだもんな。
信じられない大枚はたいてさ。
彼女はきょとんとした顔で俺を見上げた。
初めて会った時みたいに。
おいおい。
俺を買ったの忘れたんじゃないだろうな。
金は振込済みだから、別にいいけどよ……。
「そうね、恋人らしく過ごしてくれれば」
「恋人らしくって、どんなだよ」
「あなたらしいのでいいわよ。でも、南の島っぽく、少しロマンティックにね」
了解、と言葉で返す代わりに、俺は彼女の唇へキスを落とす。
どんな女にもしたことがないような、優しくて甘ったるいキス。
……仕事だもんな。
俺らしくて、ロマンティック。
難しい注文を、俺は頭の中で反芻していた。
「いいお天気になりそうね」
ビーチと繋がるような朝食スペースで、彼女はそう言った。
砂が敷き詰められた、裸足の似合うレストランなんて初めてだ。
「チャオ」
周りでは陽気な挨拶が飛び交っている。
イタリア人が多いらしい。
日本人は他に見当たらなかった。
まだこの空気に馴染めず、居心地悪そうに甘い紅茶をすすっていると、ジュンが頬杖をつきながらこちらを見ていた。
隣の席のカップルが、新参者の俺たちへ気軽に微笑みかけてくる。
「ボン・ジョルノ」
そう返すジュンは、この島の空気にすっかり馴染んで見えた。
もうずっと前からここにいるみたいに。
スノーケルセットを借りに、ダイビングセンターへ行く。
ジュンはちゃっかり自前の道具を持ってきていた。
……前もって南の島に行くって聞いていれば、お気に入りのアロハでも持ってきたのによ。
スーツケースに詰め込んだ服は、この島には似合わなそうなものばかりだった。
部屋へ戻ると、水着に着替えたジュンが待っていた。
シンプルな黒いビキニ。
妙に彼女らしかった。
子供みたいにワクワクしながら、俺たちは海へ飛び込んだ。
この、あおいゼリーみたいな海の中へ。
「何だよコレ……」
「すげぇよ……」
馬鹿みたいに、俺はそんな言葉を繰り返す。
十七から、一人で生きてきた。
世間なんてとっくに見切った気でいた。
のほほんと大学へ行って、何となくサラリーマンになる奴らより、俺の方がずっと世界を知ってるんだって。
だけど――
俺が見てきたもの、あれ何だったんだ?
目の前にあるのは、ただの大自然。
何ひとつ飾っていないのに、こんなにも圧倒的に美しい。
ありのままでいることの究極。
珊瑚に群がる魚の渦に包まれて、自分の輪郭まで海へ溶けていく。

だけど、ジュンときたら――
どうやったら、あんな風に泳げるんだろう。
俺みたいに無様に手足をばたつかせたりしない。
流れに身を預けて、イルカのように泳いでいく。
何者なんだよ、アンタ。
こんな女、見たこともない。
泳ぎ疲れて、先に俺は浜へ上がって寝転んだ。
少し遅れて、ジュンも名残惜しそうに海から出てくる。
俺をのぞき込む仕草。
濡れた髪から滴る雫が、光を反射してきらきらと揺れていた。
彼女には、この景色がどう見えているんだろう。
海と空の境界線を指差して、俺は素直に口を開いた。
「すげえな。こんなの初めて見た」
「綺麗ね。色々なブルー」
彼女は歌うみたいに口ずさむ。
スカイブルー
アクアブルー
コバルトブルー
マリンブルー
プルシアンブルー
ターコイズブルー………
さらさらと流れていくジュンの声。
ブルーって単語を、彼女はとても綺麗に発音する。
何だか見惚れてしまう。
そして――
演技なのか。
どうしてなのか。
俺はその濡れた髪へ手を伸ばして、ジュンを引き寄せ、二度目のキスを落としていた。
恋人同士みたいなキス。
……仕事だもんな。
そうやって、自分に言い訳する。
こんなの俺らしくない。
俺らしくて、だけどロマンティックに。
ただ、その役を上手く演じようとしているだけなのか?
だけど、重ねた唇がそっと離れる瞬間、どうしようもなく淋しくなった。
だから、その温もりを追いかけるように、もう一度口づけていた。
ディナーの後、部屋へ戻ると、ベッドがシーツの波で飾られていて、枕元には花が一輪置かれている。
焦った。
どうやってエスコートして、ジュンをベッドへ連れていけばいいのかなんて。
ロマンティックな舞台は完璧。
あとは、それにふさわしいセリフだけ。
だけど言葉を探せば探すほど、自分の貧弱な語彙に舌打ちしたくなる。
そうだ。
俺、バラードなんか作ったことない。
陳腐で、軟派で、やってらんねぇって思ってた。
だけど今、俺が欲しいのは、そんな甘くて切ない言葉。
ホスト時代に使い古した口説き文句は、どれもジュンには似合わない気がする。
「いいのよ、銀」
そんな俺を見透かしたように、ジュンは言った。
「あたし、愛がないとセックスしない主義だから」
どうしてだろう。
愛してないって言われた気がして、胸の奥がちくりと痛んだ。
愛だって?
何考えてんだ、俺。
仕事が一つ減った。
楽でいいじゃんか。
……そう思えばいいんだよ。
「腕だけ貸してよ」
ジュンは悪戯っぽく微笑むと、えいっとベッドへ飛び込んだ。俺の腕を枕にして、小さく丸まって眠る。
一日過ごして、やっと俺なりにモルディブという場所がわかってきた。
トラギリみたいな小さな島がいくつも集まって、一つの国になっているらしい。
珊瑚の欠片で出来た、インド洋の楽園。
ジュンに連れて来られなければ、一生縁のない場所だった。
俺は、知ってしまった。
何もしない安息っていう、究極の贅沢を。
知らなかった頃の自分が、もう別人のようだ。
こんな感覚は初めてだった。
自分のちっぽけさが、おかしいくらいだ。
ジュンに感謝していた。
彼女が、自分の道しるべみたいに思えた。
だけど同時に、一週間後、この旅が終わることを思うと、焦燥感が押し寄せてくる。
ジュンが口にした、沢山のブルー。
あの響きが忘れられない。
今、腕の中にいる華奢な女。
抱きしめているはずなのに、自分が抱かれている錯覚がする。
その温もりに触れてしまって――知らなかった頃の自分が、やっぱり他人のように感じる。
だけど、こんな温もりは知らないままの方が、俺は幸せだったんじゃないか?
金で雇われた俺。
求めることなんて許されない関係なのだから。
次の日も、その次の日も、ひたすらシュノーケルをして、疲れればビーチに寝ころび、のんびり過ごした。
パームツリーの木陰で寄り添いながら、俺はジュンに話しかける。
「ジュンのあのザック、年季入ってるね」
「モルディブには必要なかったみたい。つい癖でね」
「癖?」
「あたし、放浪癖があるの」
ジュンはそう言って、青く澄み渡る空を見上げた。
視線は、この空の先へ続く景色を追っていた。
「どこを放浪するの?」
「いろんな国。ひとりきりの、安上がりなバックパックの旅よ」
「ひとり?」
「女なのにって?」
「……やるね」
ジュンは少し照れて、はにかんだ。
「俺、ありきたりの海外旅行しかしたことないや。なんか旅の話、聞かせてよ」
ジュンは静かに語り出した。
砂漠に咲く花の話。
モンゴルで出会った、小学生たちの素朴な笑顔。
異国の地を、自分の足だけで歩き回る高揚感。
「歩くの好きなの。でも、こんなどこにも行きようのない小さな南の島で、のんびりするのも素敵。初めてだなぁ、こんな旅」
どうして?
その言葉を、俺は飲み込んだ。
いつも一人旅なのに。
ホストを貸し切りにして。
俺に金まで払って。
しかも、信じられないような額を。
バックパッカーの彼女らしくない、奇妙な旅だった。
きっと、何か理由がある。
だけど、俺は尋ねなかった。
縁があって、ジュンは俺を選んだんだ。
クラブの入り口に並ぶホストたちの写真の中から、俺を見つけ出してくれた。
まるで、救い出すみたいに。
あぁ、歌いたい。
こんなことを望んだの、いつぶりだ?
海に、風に、この島々に教えられた自由と孤独を――歌いたい。
フレーズがひとつだけ、込み上げてくる。
ブルー……BLUE……
この響きを織り込もう。
ジュンの口からこぼれた、あの色彩が溢れるような歌にしよう。
ぽろぽろと頭の中で、音符が広がっていく。
書き留めなきゃ。
昼寝でもしたら、全部忘れてしまいそうだ。
確か引き出しにボールペンが――
「あたし、ちょっとシャワー浴びてくるね」
ジュンはそう言うと、バスルームの扉を閉めた。
……あれ?
インク切れてるじゃん。
ふと、一度も入っていない小さな売店を思い出す。
散歩がてら買いに行くか。
俺は外へ出た。
この島へ来てから、買い物なんて当たり前のことをしていなかった。
必要なものなんて、何ひとつ無かったから。
店の中には、パレオや土産物、クッキーや絵葉書なんかが、あまり売る気もなさそうに並んでいた。
「ペンある?」
店員に聞くと、しばらくゴソゴソ探していたが、途中で面倒臭くなったらしい。
自分の胸ポケットに刺さっていたボールペンを、「プレゼントだ」と言って渡してきた。
その代わり、何か買っていけと言う。
何かって言われても……。
そう思いながら見回していると、隅に置かれた麦藁帽子が目に入った。
ツバの端がラフに切りっぱなしになった、南の島らしい帽子。
帰り道、レストランで顔馴染みになったイタリア人が、ビーチに寝転びながら「チャオ」と声を掛けてきた。
「チャオ~」
俺も軽く手を上げて返す。
一周歩いて十分ほどのトラギリ。
何がどこにあるのか、もう頭の中にこの島の地図が出来上がっていた。
スタッフに、この島のインコの名前まで教えてもらい、俺はすっかりここに馴染んでいた。

ヤシの木陰に座るジュンの背後へ忍び寄る。
石鹸の香り。
洗ったばかりの髪は、まだ少し濡れていた。
その頭へ、ぽんと麦藁帽子を乗せる。
「……っびっくりした。ヤシの実でも落ちてきたのかと……」
ジュンは帽子を取ると、少し驚いた顔でそれを眺めた。
「あたしに?」
そして、もうひとつ。
俺は後ろ手に隠していたものを、ばさりと広げてジュンへ被せる。
びくりと肩を揺らしたものの、ジュンはされるまま大人しくしていた。
ブルーのパレオ。
「綺麗……」
光を透かしたパレオが、海の色でジュンを包んでいた。
彼女の手もとには、小さなスケッチブック。
「絵を描くの?」
「うん。ここでラフにデッサンして、帰ってから銅版におこすの」
「……それってジュンの仕事?」
「まあね」
ジュンは曖昧に笑う。
そこには、鉛筆で描き始められた海があった。
色なんて付いていないのに、黒一色の濃淡だけで、強烈な南の日差しを映す海面が描かれている。
どうしてこの女は、こんなにも簡単に俺の心の奥を弾いてくるんだろう。
しかも無意識に。
俺たちは並んで、それぞれのやりたいことを続けた。
ジュンはデッサンを。
俺は歌作りを。
「銀の本業は作曲?」
「……バンドのボーカル」
「あたし音痴だから尊敬する。ね、なんか歌ってよ」
なんとなく思い浮かぶ曲を、BGMみたいに歌い始めた。
少し古い曲ばかり。
ジャンルもごちゃ混ぜだ。
藤井風、クラプトン、コールドプレイ、ブルーノ・マーズ……
気づけば、ゆったりしたバラードばかり歌っていた。
時々筆を休めて、ジュンは俺の肩へ寄り添い、静かに耳を傾けてくる。
酔いしれている、なんて思うのは自惚れだろうか。
……ほら、まただ。
伏せられた睫毛の落とす影に、俺は視線を奪われる。
そんな彼女へ向けて歌うのは、切ない溜め息のような曲ばかり。 その熱をペン先へ滲ませながら、俺は歌を書き続ける。
何度目の夜だろう。
もう、腕に触れるジュンの髪の感触にも慣れてしまった。
だけど、その夜は違った。
目を覚ましても、いつも隣にいるはずのジュンがいない。
まだ夜も明けきらない真夜中だ。
煙草でも吸いにテラスへ出ているんだろう。
ドアが少し開いたままになっていた。
驚かせようと、忍び足で近づく。
――やっぱり。
月明かりに照らされたジュンの後ろ姿。
暗闇の中、煙草の火だけが小さく浮かんでいる。
「俺にも一本ちょうだい」
その声に、ジュンが弾かれたように振り向いた。
……え?
だって、まさか。
思ってもいなかった。
彼女が泣いているなんて。
こんなにも静かに。
「……どうしたんだよ」
思わず声が漏れた。
ジュンは少し困ったみたいに笑う。
「ごめん……起こしちゃった?……なんでもない」
“なんでもない”
その言葉が、ひどく淋しかった。
隣の椅子へ腰掛けて、俺は黙ったまま煙草に火をつけた。
テーブルには、トラギリのポストカードが置かれている。
ジュンが売店で買ったんだろうか。
「一人旅ばかりしてきたけど、帰りを待っていてくれる人がいたから、旅に出れたんだなって」
ジュンは独り言みたいにそう呟いて、短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。
「あたし、両親ももういないし……ずっと彼だけだったの」
少し間を置いて、ジュンは静かに続ける。
「六年付き合って、一緒に暮らしてた。来年は結婚するつもりだったんだけど……疲れたって、出て行っちゃった」
淋しそうに笑う。
涙はもう乾いていた。
「たぶん、あたしの生き方が理解できなくなったんだと思う」
ジュンは空を見上げた。
「結婚したら、一人旅なんてやめると思ってたみたい。でも、どうして? ちゃんと帰ってくるのに」
その声は、どこか迷子みたいだった。
「あたし、旅をやめたら空っぽになりそうで怖いの。絵も描けなくなりそうで……」
俺は黙って聞いていた。
彼女が全部吐き出せたら、少しでも楽になる気がしたから。
ジュンは新しい煙草を唇へくわえる。
だから俺は、慣れた手つきで小さな火を贈った。
「昔ね、一度だけ二人でフランスへ行ったことがあって……その時、小さな画廊で版画を買ったの」
ジュンは煙を細く吐いた。
「若い版画家の絵だったんだけど、別れたあと部屋に飾ってあるのが苦しくて……彼に返そうとしたら、いらないなら売ればいいって言われて」
少しだけ困ったように笑う。
「そしたら、その人すごく有名になってたの。しかも事故で亡くなったばかりで……信じられない値段になってた」
それが、あの二百万って訳か。
「だから、もういいやって思ったのよ。気晴らしに、今までしたことないことやって使っちゃえって」
ジュンはテーブルの上のポストカードへ視線を落とした。
「昼間、なんとなく売店で絵葉書買っちゃったの。……でも、送る相手もういないんだって、あとから気づいて」
俺はそっと手を伸ばして、ジュンを抱きしめた。
涙は消えているのに、彼女の肩は小さく震えている。
「……ね、それ、俺に送ってくれない?」
「え?」
「俺、届くの待ってるから」
曲を書いていたボールペンを取り出して、近くにあった紙へ自分の住所を書きつける。
ジュンのアドレスはあえて聞かなかった。
それは、何か違う気がしたから。
「……ありがと」
ふわりと彼女の手が俺の頬を引き寄せる。
そして、乾いた唇がそっと重なった。
ジュンからのキスは――これが最初で最後だった。
あれは夢だったんだろうか。
東京の雑踏の中、俺はくすんだ空を見上げて、あのブルーを探していた。
ジュンのことが忘れられない。
彼女の口からこぼれた、沢山のブルー。
帰国してからの十日間、取りつかれたように俺は曲を作り続けた。
バンドの連中は驚いていた。
一気に三曲も作ったから。
しかも皆、口を揃えて言う。
「お前らしくないけど、スゲェいい」
……褒めてるんだよな、それ。
喉元につかえていた何かが、一気に流れていく気がした。
今まで思いもしなかった言葉が、綺麗な響きを連れて溢れてくる。
そしてまた、俺は東京の日常へ埋もれていく。
だけど――
あの日々は現実だったのだと証明するように、ジュンからポストカードが届いた。
モルディブを発つ前、レセプションから送っていたあの絵葉書。
届くまで内緒だって、中身は見せてもらえなかった。
1ヶ月もかかるか?
いや、あの小さな南の島から、俺の部屋にちゃんと届いたのが奇跡のようなものだ。
とんがり屋根のビーチコテージ。
白い砂浜。
ヤシの木。
トラギリの景色が、そこにあった。
ここにいたなんて、まだ夢みたいで……
丸っこいジュンの文字。
少し緊張しながら、俺は裏返した。
銀へ
隣に居るのに、何日か後のあなたへ手紙を書いているのが妙な気分。
変な女の気まぐれな旅に付き合ってくれてありがとう。
優しい時間をありがとう。
麦藁帽子とパレオ、宝物にするね。
いつか海で書いていた、あなたの曲を聴いてみたいです。
きっかけは、ライブハウスで歌った新曲だった。
誰かがスマホで撮って、ネットへ上げたらしい。
最初は仲間内で少し騒がれていただけだった。
だけど、その動画は知らないところでどんどん再生されていった。
「おい銀、お前バズってるぞ」
そんな言葉で起こされた朝もあった。
そして、気づけばその曲は口紅のCMソングに使われていた。
モルディブによく似た、蒼い海。
口紅を引くモデルの背景に、俺の歌声が重なる。
ブルー……BLUE……
テレビから流れるその曲を、どこか他人事みたいに聞いていた。
だけど、違う。
トラギリの空は、もっと沢山のブルーが溶け合っていた。
脳裏に浮かぶ景色に、懐かしさで胸が詰まる。
あれから、もう半年が過ぎようとしていた。
半年前、登れなかった階段を、俺は確かに駆け上がった。
歌うことに満たされても、心にはぽっかり隙間が残る。
時々、ジュンから絵葉書が届いた。
世界の果ての、聞いたこともない街から。
短い日記みたいな言葉と一緒に。
――多分、今日だ。
ジュンは、七月最後の日に日本へ戻ると葉書に書いていた。
その葉書に書かれていた国名だけを頼りに、俺は成田へ向かった。
なんの確証もないまま、車を走らせていく。
深く被ったキャップ。
最近、少しは顔も知られるようになって、前みたいに自由が利かない。
だけど今日は、全部スケジュールを空けてきた。
もう限界だった。
ジュンに会いたい。
そして、あの海で生まれた歌を聞いてほしい。
今度はホストとしてじゃなく
ちゃんと、俺として。
――なぁ、また、行こうよ。
あの海へ。
今度は俺の奢りでさ。
ごった返す到着ロビー。
人混みの向こうに、小さな影が見えた。
……ほら。
あいつ、またあのザック背負ってる。
胸がうるさい。
俺の誘いを、受けてくれるだろうか。
“一緒にいたい”
そう言ったら、ジュンはどんな顔をするんだろう。
キャップを取って、俺は大きく手を振った。
ジュンが顔を上げる。
驚いたように立ち止まると、少し俯いて
――それから、泣きそうな顔で笑った。
そのまま、吸い寄せられるように俺へ向かってくる。
迷える思春期のガキみたいに、胸が痛いほど高鳴る。
次の瞬間。
どん、と胸へ飛び込んできたジュンの温もりと一緒に、柔らかな唇が重なった。
え。ちょ、待て。
これ……期待していいんだよな?
顔が熱い。
格好つけてる余裕なんて、もうどこにも無かった。
やっと触れられたその温もりを失いたくなくて、俺はジュンを強く抱きしめる。
「……会いたかった」
消えそうなくらい小さなジュンの声が、耳元で震える。
俺、待てるよ。
こんな風に、戻ってきてくれるなら。
世界の果てまで行ったって、笑って見送れる。
だから、たまにでいい。
またあの海へ行こう。
ジュンを独り占めできる一週間だけの旅。
ブルー…BLUE…
彼女に贈る歌は、俺が作った初めてのバラード。
その甘いメロディーに隠されたスパイスは、
彼女が教えてくれたあのグラデーション。
【END】







小説の舞台/モルディブの島:トラギリ
写真提供:『写真提供:OS1950の写真館』
銀が歌っていた曲のイメージで作りました ↓
●どこか一つでも心に残るものがあれば嬉しいです。
●同じ世界観の短編をこれからも投稿していきます。魅惑の疑似バカンスを お楽しみください。
●昔書いた小説ですので、現在は島がリニューアルして名前が変わっていることがあります。
●モルディブを知らない方でも問題なく楽しんでいただけるかと思います。モルディブは1島=1リゾートホテルが基本です。小説も1島ごとに描いていきます。
●南の島にこだわらない物語や日本文化を考察したエッセイも綴っています。
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