🔶【26話】天上の楽園・変わっちゃった?(サチ)
夕方の山手線は、ラッシュでごったがえしている。南の島で過ごした時間は、人の流れに乗るという感覚すら鈍らせてしまったようだ。電車のドアからどっと乗客が溢れ出る。歩調が合わずモタモタとしていたら、じろりとサラリーマンのおじさんに睨まれてしまった。
壁際に避難して人の波がおさまるのを待とう。だけど途切れる事なく次の電車が滑り込んでくる。
ふぅっと小さな溜め息をついた。南国ののんびりさが染みついた感覚で、新宿は無謀だったかも。もともとぼんやりした性格が輪をかけてひどくなった気がする。ナオとご飯の約束をしていた。
午前中から仕事の打ち合わせ、そのまま新宿へと一日外出の予定だというのに、スマホを忘れてしまった。しかも打ち合わせに必要な原稿を忘れている事に気付き、駅から一度家に戻ったにもかかわらず、スマホは机の上に置きっぱなしのまま。
あたし、ボケボケと何やっているんだろう。人がごった返す駅前での待ち合わせだというのに、上手く会えなかったらどうしよう。
流れていく人の波を不思議な気持ちで眺める。ほんの数日前、目の前を横切る群れは艶やかな鱗をまとった魚だけだったというのに。
壁にもたれていると、通りすがりの女の子がチラリとこちらに視線を流して、聞きなれた名を口にした。
「ユウタっ」
どくんっ。
並んで歩いていた子まであたしの方を覗きこんでくる。
「わぁ、ホントだ。ねぇ写真とっちゃおうよ」
どくんっ。
え、なに? ユウちゃん……どこっ?
「あ、すいませ〜ん。ちょっといいですかぁ?」
急に話しかけられて一瞬頭が真っ白になった。
あたし?
その子は困った顔で、拝むように立てた手のひらを横に振ってみせた。
邪魔邪魔~って、そんな仕草。意味がわからず、見つめ返すと、参ったなという眼差しを投げてよこした。
「あのぅ、後ろの広告撮りたいんですけどぉ」
「へっ」
慌てて背中にもたれていた壁を振り向いてみる。
壁一面を覆う巨大なデジタル広告。
「ゆっゆっ…」
ユウちゃん。喉元まで出掛かった名前をゴクリと飲み込む。あたしの慌てぶりに彼女は怪訝な顔を向けてきた。はっと、飛ぶように横にずれる。
カシャッ。
連絡通路を通り過ぎる人から、あからさまに迷惑そうな顔を向けられても、彼女達は気にも留めない様子だ。きゃっきゃと嬉しそうにスマホを向けている。
「あっ! あっちにもいっぱいあるよ」
走っていく姿を目で追っていくと、ズラリと連なったユウちゃんの広告があった。コマ送りの映像のように、イヤフォンをつけてダンスするユウちゃんが並んでいる。
あ、あのコマーシャルの広告だ。ユウちゃんのバックでは、女性ダンサー達がタイトスカートから綺麗な足を覗かせて悩ましげなポーズを決めている。緩めたネクタイ、余分に外したボタン。その襟元からはすらりと長い彼の首が覗いている。
初めてあの島で目覚めた朝、引き寄せられた腕の中で見上げた顎のラインが頭をよぎって、カッと顔が火照る。
足早に広告の前を通り過ぎ、地上へ出るための階段を駆け上がる。
夕暮れの街に人々が溢れている。
華やかな都会の雑踏。
ショーウィンドウに、自分の姿がぼんやり映った。
二十三歳。身長百五十八センチ。モデルみたいな抜群のスタイルでもない、ごくありふれた女。
ふと、見上げたファッションビルの屋上に、ひと際巨大なユウちゃんの広告がライトアップされて街を見下ろしていた。
人は様々に分類できる。例えばこんな風にも。
愛を受ける人。愛を注ぐ人。
喝采を浴びる人、それを贈る人。
「サチっ、久しぶり」
肩をポンッと叩かれる。振り向くと、パンツスーツ姿のナオがにこやかに立っていた。わぁ、なんかキャリアウーマンって感じ。格好良くて見とれちゃうよ。
「何かずいぶん日焼けしてない?」
どくんっ。
「それにさ……」
眉間に皺を寄せる程、じっと見つめられてドギマギしちゃうよ。
「なぁに?」
誤魔化すようにわざと明るい声をだす。ナオは意味深な笑顔を浮かべると、「ご飯を食べながらゆっくり聞くから」と、あたしの手を引いた。
代々木の方に向かって少し歩く。ナオが選んでおいてくれたのは路地裏の小さなビストロ。クリーム色の壁に飾られたアンティーク調の額縁が、お洒落な雰囲気を醸し出している。
「最近、忙しそうにしてるなと思ったら急に一週間も音信不通になるんだもの。心配しちゃった。旅行に行くなら教えてくれればいいのに」
「ごめんね」
あたしって、どうしてこう気が回らないんだろう。女の独り暮らし、連絡がとれなかったら心配されて当たり前なのに。
「ま、それはいいとして、彼とハワイでも行ってきたって訳?」
わっ。さすがナオ、鋭い突っ込みだ。
「うん……まぁそんなトコ」
「へぇっ。ホントに?」
ワインリストから顔を上げて、ナオは興味津々といった眼差しを向けてくる。
「ねぇ、本当は何処に行ったのよ」
「えっと、すごく小さな南の島」
「えぇっ、そこで一週間も?」
大袈裟なくらい目を丸くしているナオに、小さく頷いて答える。
ふぅん~へぇ~そうなんだ。独り言を呟きながらニヤニヤと意味深な含み笑いをされる。
「ふふん、まるでハネムーンじゃない」
へ? 思いがけない台詞に思考回路が停止する。
「はっねっ……むっ?」
「だってそうじゃない。小さな南の島に二人でバカンスなんてさ」
ハネムーン……。何を言っているのかと笑い飛ばそうにも、その言葉の衝撃に固まってしまった。
「そろそろ会わせて貰おうかしらね。アンタをそんな風に変えちゃった彼氏に」
「え? あたし何にも変わってなんていないけど」
「やぁねぇ、自分じゃ気付かないものなのかしらね」
ナオは苦笑いしながらワインリストを閉じた。
「サチってば、すごく綺麗になった」
「は?」
「女っぽくなったって言うか」
「へ?」
「さっき、外で待ち合わせしていた時、ずっと何を見ているのかぼんやりと空を見上げていたでしょう? あたし近づくほどにドキッとしちゃったよ。何て言うのかな、サチの周りだけ空気が違うっていうか、可愛いなぁって思っちゃった」
「えっ、そんなによいしょされてもあたし今日、五千円しか持ってないよ、ご馳走できないから」
「せっかく人が褒めているっていうのに素直じゃないね」
「だって、なんか恥ずかしい」
「恋の威力は偉大って事だわね」
恋……。あの一週間は確かに何かを、いや、何もかもを変えてしまった。
ユウちゃんを自分の一部のように感じる事。ユウちゃんの断片を、取り出しやすい頭の片隅のポケットにそっと忍ばせておくこと。そんな癖をあたしにつけさせた。
時折あたしに覆い被さる彼の記憶は、あの海の香りと共に心をくすぐる。
変わった。あぁ、そうだ。こんなにも変わってしまったんだ。
ユウちゃん。ユウちゃん。悪戯が過ぎるよ。あたしなんて笑っちゃう程に免疫がないんだから。
“愛してる”
包み込むように抱き締められ、溜息といっしょに注がれる囁き。
あたしはユウちゃんという檻に閉じ込められてしまった。
切なく甘美で、時折あたしを勘違いさせる。
ずっと、ずっと離さないで欲しいだなんて。
ガチャリと音を立ててアパートのドアをあけると、暗い部屋に点滅している灯りが目に入った。あ、スマホに着信があったんだ。
電気をつけて部屋に上がり、テーブルの上に置きっぱなしにしていたスマホを手にする。着信履歴を開いた瞬間、目が点になった。
『不在着信13件 メッセージ1件』
ありえない。悪戯電話のオンパレードだろうか。いや、よく見ると着信は全てヒロからだった。
どくんっ。
え、どういう事? ユウちゃんに何かあったのかも。跳ね上がる心臓の鼓動に体中が揺さぶられる錯覚。メッセージもヒロからだった。短い一文。
“連絡が欲しい”
すぐに折り返しの電話をかけようと思うのだが、身体が硬直してただその場に立ち尽くしていた。
ぶるんぶるんっ。
手にしたスマホが着信音と共に震えた。
ゴトンッ。
思わず力が緩みそれは派手な音を立ててテーブルに落ちていった。振動と着信音が混ざりながら響く。スマホを拾おうとする自分の指先が、血の気を失いピリピリと痺れている。
画面に表示された着信の主は、さっきまで一緒にいたナオだった。すがる気持ちで通話ボタンを押した。こんなに動揺している自分を救い出して欲しかった。
『ちょっと! ねぇ、見てる? テレビっ』
興奮を押さえきれないひっくり返った声色。予想だにしない台詞。
「テレビ?」
ナオのアパートは中野にある。あたしより先に部屋に帰ったのだろう。だからって、テレビって、え? 意味が全然……。
『テレビだよ。ユウタっ』
どくんっ。
少し落ち着きを取り戻した心臓が、その名に大きく反応する。慌ててリモコンを探す。普段あまり使わないテレビのリモコンが何処に置いてあるのか、気が動転しているせいもあり途方に暮れる。だから指で直接テレビのボタンを押した。
映像と共に賑やかな笑い声が響いてきた。お笑い系というのだろうか、大阪弁のタレントが大きな口をあけて喋っている。
『ちょっと、何見ているのよ違うってばっ』
ナオのキンキンした声がスマホの向こうから響いてくる。ナオに言われたチャンネルのボタンを押す。
突然、画面いっぱいにユウちゃんのアップが映し出された。インタビューを受けている雰囲気。インタビュアーは見た事がある。有名な映画評論家だ。耳に押し当てたスマホからは、押し殺したナオの息遣いが聞こえた。沈黙の理由は、あたしと同様、テレビの画面に目が釘付けだからなのだろう。
『今日のエンディングを飾る桂木さんのプライベート写真を番組側がお願いしたとは聞いていたんですが、私、今、初めて目にしました。いや、素晴らしい写真ですね。こんな表情を是非、映画のスクリーンでも見たいものですな』
ユウちゃんの背後には、引き伸ばされイーゼルに立てかけられた写真が掲げられていた。ユウちゃんの肩越しに覗く青い色彩。カメラがゆっくりと写真に近づいていく。
え? 嘘。にわかに信じ難い。だけど、こんな状況にも関わらず、写真に映り込んだ海の蒼さに懐かしさが込み上げてしまった。ほんの数日前、ここにいただなんて嘘みたいだ。
ナオの興奮は最高潮に達しているようだ。震えた声で、あたしに訴えかけてくる。
『これってさ……サチだよねっ? この写真……ユウタの隣に写っているのサチだよねっ。ねぇ、そうでしょ』
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🔷【27話】天上の楽園・この胸に宿る願い(ユウタ)は
8/20(木)掲載予定
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