【短編小説】あおいゼリー/誰だって南の島で暮らしてみたいと思うことがある
あおいゼリー
ケロンパ
13700文字
誰だってひとつくらい持っているだろ? ただ寄り添っているだけで満たされていた恋人時代。何もかもが許されて、夢を齧って生きていけるなんて信じていたあの頃。
だから彼女は言ったのだろうか。海と空しかない。こんな島で暮らしてみたいだなんて……。
ドーニと呼ばれる質素な船から、ダイビング機材を桟橋に積み上げている時だった。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる母娘が見える。
日本人っぽかった。最近は中国人もちらほらと見かけることも多くなったが、モルディブを訪れるアジア人の大半はやはり日本人だ。
桟橋の上の母娘は、近づいて来るとチラチラとこちらを見た。この島には日本人のホテルスタッフはいない。だからダイビングスタッフといえども日本人だという安心感からか、 俺はダイバーでもない日本人ゲストからよく声を掛けられた。
きっと夕べ到着したゲストだろう。
「こんにちは」
俺は愛想良く声を掛ける。母親の影から少女がひょっこりと顔を出した。肩のあたりまで伸びた黒髪。日本人形のように小ぶりな整った顔立ちの中で、大きな切れ長の目が印象的な子だった。
あれ? 懐かしい気がした。だが、子供の知り合いなんて俺にはいない。リピーターのゲストだろうか? だけど母親には見覚えがなかった。
「あの……」
少し戸惑った様子で、母親が俺に何かを言い掛けた時だった。トコトコと少女が目の前まで歩いてきた。
「まさかおじちゃんが、マキムラリュウじゃないよね?」
まさか? どういう意味だろう。俺がその牧村龍ではマズイみたいではないか。母親は、そう声を掛けた少女を唖然とした顔で見ている。そして慌てた様子で、その子の事を「ミウ」と呼んだ。けれど女の子は母親を振り向きもせず、俺を真っすぐ見据えている。
「そうだよ」
そう答えるしか言いようがない。だって、俺がそのまさかの牧村龍なのだから。
「えっ、ホントに?」
期待を裏切られたようなその口調に、何故だか申し訳ない気分にさせられる。だけど突拍子ないこの会話が俺には理解不能で、助けを求め母親に視線を移したが、彼女はまだ唖然とした仕草で娘を見たままだ。その様子も違和感を感じるもので、狐につままれた状況に、俺は困ってしまった。
「ホントにホントに、ヨウコちゃんの元彼の?」
元彼……日本を長く離れている俺には慣れない日本語だ。なんて軽い響きだ。いや、そんな場合じゃない。ヨウコって今、言わなかったか?
ヨウコ。
その名は懐かしく、俺の胸の奥底を静かに揺さぶった。彼女の姿が瞼に浮かび上がって、あっ、と俺は驚きの眼差しで再び目の前の少女を見た。この子、ヨウコに似ている。最初に感じた懐かしさの意味を俺は理解した。
「初めまして、あたしヨウコの姉の金谷と申します」
遠慮がちな様子で、子供の手を引きながら彼女は言った。
「ヨウコの……そうですか、じゃあこの子は……」
「ヨウコの姪のミウです。7歳になったばかりです」
何故かその言葉に、安堵している自分がいた。ヨウコの子供だと言われたら、何となくショックを受けていたような気がしたから。馬鹿か俺は……。今更、未練がましいものでもあるのだろうか。彼女達と一緒に、もしかしてヨウコもこの島にいるのかもしれない。俺は焦った。
「ママと二人だけで来たんだよ」
見透かすようにミウが、悪戯っぽくそう言った。
「モルディブへ行くならおじちゃんの居る島に行きなさいって、前にヨウコちゃんが言ったの」
「どうして?」
意味が掴めなくて、子供みたいな口調でそうミウに尋ねていた。
「だって、おじちゃんが一緒に遊んでくれるから」
あまりにも素直な答えに気が抜けて……そっか、と俺は苦笑いしていた。クスクスと、その子、ミウは小さく笑うと「ねっ」と母親を見上げる。困った顔で彼女は申し訳なさそうに俺に視線を移した。
そういえば、結婚して鎌倉の実家の傍に住んでいる、5歳年上の姉がいるとアイツ言っていたな。そんな会話を懐かしく思い、俺のいる島を薦めてくれたことが、何だか嬉しくさえ感じてきた。
少し前に日本のダイビング雑誌の取材を受けた。もしかしたらその記事をヨウコは見かけたのかもしれない。
「ようこそ、ココア・アイランドへ」
ちょっとだけ芝居がかったように大げさに両手を広げて、俺はその思わぬゲストを歓迎した。だけど、まだミウは納得がいかないらしい。
「おじちゃん昔の写真と全然違うのね。そのお髭……熊になっちゃったのかと思った」
昔って言ったって、ヨウコと付き合っていた二年間、あの頃俺は二十四、五だった。今だってまだ三十三歳だ。そんなに変わったか? 俺。確かにあの頃と違って熊みたいな髭面だし、灼熱の陽ざしにさらされて、野性化すらしたかもしれないけれど……。繊細な俺は、ほんのちょっとばかり傷付いてしまった。
「ミウね、昨日はお船のコテージに泊まったの」
さっき出会ったばかりだというのに、得意そうにそう話すミウを、何故だか愛しい気持ちで見詰めていた。
ココア。たった二十五室しかない、東西に伸びる美しい砂州を持った島。ビーチコテージはなく、モルディブの伝統的な船、ドーニをイメージして作られたユニークな水上コテージが、悠然と桟橋に連なる。そして美しいこの島は、磨き抜かれたサービスを添えて、ゲストに飽きることのない楽園の日々を約束する。 部屋数が少ないだけに予約が大変だが、日本人にも人気のある島だった。
ミウの泊まったコテージ、それはドーニの形をしているだけで船ではないから動き出す事はない。けれども、この素晴らしく居心地の良い水上コテージで眠る夜は、モルディブの海に浮かぶ極上の夢を約束してくれるに違いない。

ミウはよくダイビングセンターに顔を出した。
「ママは?」と聞くと、いつもデッキテラスで本を呼んでいると答える。今、ハネムーナーばかりでダイビングをするゲストはほとんどいない。だから確かに俺は暇だった。暇なのだが……。
一年前、元々日本人が経営するこのダイビングセンターを俺は譲り受けたばかりだった。やっと手にした自分のダイビングセンター。こんな暇でいいのだろうか? いや、この格別なノンビリさが気に入ってこの島、ココアに腰を落ち着けた。
知り合いなのかと、タイビングスタッフでイタリア人のアルジェリオが問いかけてくる。昔の恋人の……なんて説明は面倒臭く、親戚なのだと答えた。すると奴は、自分がフォローするから、ミウとの時間を大事にしろと言った。情けの深い男だ。俺を羨ましそうに見詰めすらしてくる。
半年前に離婚されて、ホテルスタッフをしていた妻とまだ小さな娘に、島を去られたのが相当な傷のようだ。ミウの事も随分可愛がってくれる。そして、娘のように頭なんか撫でながら、女を口説くような台詞でミウの髪を褒めあげる。
なんて綺麗な髪だ。まるで絹糸を黒く染めあげたようじゃないか。
奴はまだ懲りてないらしい。その天性の女好きが、妻から捨てられた一番の原因だというのに。だけど奴をそこまで唸らせる、ミウと同じ髪をもつ女に、昔、俺は恋に落ちていた。ミウと一緒にいると、ヨウコの片鱗がその面影に見え隠れする。 懐かしさと少しの後悔が心を弾いて、俺はその切なさに胸を痛める。
俺が初めてモルディブを訪れたのは、ヨウコがどうしても行ってみたいと言い出したからだ。元々ダイビングが趣味の俺は、そのインド洋の秘境の噂は耳にしていたので興味を持ってはいた。だけど、やっと日本のダイビングスクールでライセンスを取ったばかりの彼女から、そこに誘われるとは思ってもみないことだった。
『だって見ちゃったの、ほらコレ』
定番のダイビング雑誌を差し出してくる。表紙にはモルディブ特集と書いてあった。そんな事がきっかけで、俺達は小さな島をひとつ選び、この環礁に足を踏み入れた。
この地の何もかもが驚きだった。
海も花も、島を取り囲む緑も、全てを引き立てるように埋め尽くされた、光を弾く真珠色の砂浜も。
島の溢れる色彩が、海の中まで続いていた。色とりどりな珊瑚礁と、それに群れる魚のカーテン。海に沈んだオーロラを眺めているようだった。
そして隣にはヨウコがいた。胸を揺さぶる程の感動を分かち、語り合うアイツが微笑んでいた。
いつもは下ろしている髪を、南の陽ざしのせいか、島ではいつも結い上げていた。白い首筋が見慣れなくて、二年も付き合っているというのに、今更のようにドキドキする自分がいた。
そして束ねた髪を、花びらが散らされたシーツの上でほどく瞬間……。その甘美な時間は、麻薬のように俺を虜にした。
再びヨウコに恋をした。島を包む南国のスコールにも似た激しさで、熱情は絶え間なく心に降り注いだ。
「おじちゃん、パパもあれ持っているよ」
ダイビングセンターの脇に、ひっそりと目立たなく置かれているシーカヤックを見つけて、ミウはそう言った。
「パパの船は赤だけどね」
このグリーンのシーカヤックは、俺の趣味でプライベート用の物だ。そうか、ミウのパパは海の男だったのか。親近感がわいてくる。
「ホントは一緒にくるはずだったのよ。でもお仕事が急に忙しくなっちゃったの」
ミウの顔に浮かんだ寂しそうな笑顔。そんな顔されたらさ……。俺は久しぶりにシーカヤックを引っ張り出した。
「ママも乗せてあげるから呼んでおいで」
その言葉に嬉しそうに頷くと、ミウは走ってコテージの方へ消えていった。
ミウの母親……ヨウコの姉とは、あの桟橋で出会って以来ほとんど顔を合わせていなかった。プライベートを重視して作られたコテージは居心地が良く、そこでのんびりと本を読むひと時は彼女を夢中にさせているようだ。ミウを自由にさせていても、一周十分ちょっとのこの島では迷子になりようもないし、俺やアルジェリオや面倒見の良いホテルスタッフに、すっかり安心しているのだろう。
ミウに手を引かれて、彼女は姿を現わした。腰に巻かれたパレオが似合っている。俺よりも年上なのだろうが、ヨウコとはまた違ったタイプの、知的で落ち着いた綺麗な人だと思った。
「ごめんなさいね。毎日ミウがお邪魔しているみたいで」
「いや、俺も楽しませてもらっています」
「あたしが遊ぼうって誘っても物足りないみたいで、目を離すとすぐに飛んでいってしまうのよ……困った子」
ミウ達が乗り込んだカヤックを、波打ち際からゆっくりと押し出す。帯のように広がって浅瀬に群れていたイワシの黒い影が、カヤックの先端から押し出されながら、その形を変えていく。俺が船に乗り込む頃には、船を取り囲む大きなドーナッツの渦のように漂って、鱗をキラキラと輝かせていた。
「こんなのパパが見たらビックリするね」
興奮し上ずった声で、ミウが母親に話しかける。その様子に満足してパドルを握ると、俺はゆっくりと漕ぎ始めた。
ヨウコの話は不自然なくらい、お互い避けるように話さなかった。
「どこまでの透明な海。ダイビングが出来たらまた違う世界があるのでしょうね」
「ええ、でもモルディブならシュノーケルでも充分楽しめますよ。コテージの先にあるドロップオフには行ってみましたか?」
「あの、海の色が変わっている境の所でしょう? 何だか怖くて」
「浅い場所でも魚は沢山いるけれど、ドロップオフは魚影の濃さが違うんです。カヤックの上から覗いてみましょうか?」
とっておきの初めての体験を二人に贈ろう。驚く顔を頭に浮かべて、俺は少しワクワクした気持ちで船を進めた。
しばしの遊覧の後、元の浜にカヤックを着けた。ドロップオフの光景に興奮したまま、二人は瞳を輝かせている。砂浜に腰をおろそうとすると、アルジェリオに呼ばれて、ミウは休む事も無くダイビングセンターの方に走って行ってしまった。
「まだ胸がドキドキしているわ。あんな魚の群れ、初めてよ」
「コテージからすぐの場所だから今度はシュノーケルで行ってみて下さい。水の中で覗くとまたすごいんですよ」
「そうね、本ばっかり読んでいる場合じゃないわね。それはそれで心地良いのだけれど」
くすくすと満足そうに彼女は笑った。
「ヨウコがまた来たいって、言っていた意味がわかったわ」
不意打ちのように出たその名に、俺は少し動揺してしまった。
「ヨウコ、元気ですか?」
さりげなく、でも切実な気持ちで俺はそう言った。
「龍さん……」
彼女がそう言いかけた言葉を、ミウの大きな声が遮った。
「こっちこっち、早く来てっ。イルカの群れがあそこに見えるよ!」
今更、俺はヨウコの何を知りたいのだろう。あんな別れ方をして彼女を傷つけたまま終わってしまった。
だけど、俺がいるこの島を、ミウに勧めてくれた。それはあの時の俺を許してくれているからこそ出た言葉なのだろう。それでいいじゃないか。
「イルカ、見に行ってみましょうか?」
さりげなく話の方向を変えて、俺はミウのいる方に向かった。
どちらかというと、子供はあまり得意な方ではなかった。だけどミウと島で過ごす時間は、見過ごしていた世界を俺に教え問いかける。
スコールの雨粒をつけた小さな蜘蛛の巣を、キラキラ光る観覧車と呼んでみたり、水平線に沈む夕日を見詰めて、あの向こうから明日が来ると教えてくれた。そして暗い海を漂う夜光虫の光に目を丸くし、あれは夜空の落し物だと語る。
ミウの子供らしい物語は、見慣れた美しい南の島を、俺の知らない色彩で染めあげる。それは当たり前になっていたこの島の魅力を、新たな視点で再び輝かせてくれるものだった。
だから、俺もせめてものお返しに、ミウが喜びそうな島の名所を案内して回る。ドクウツボの親子が住む小さな穴や、ロブスターのように大きなヤドカリの隠れ家。
ミウが笑うと、ヨウコも笑っている気がした。その錯覚は、俺の心を穏やかに優しく包み込んでくれる。

ドイツ人のダイバーのグループが新たに到着して、ダイビングセンターに活気が出てきた。明日、ミウはこの島を去るというのに、最後の二日間、ダイビングの予約で結構忙しくなってしまった。
午後のダイビングを終えて島に戻ると、砂浜でミウがカメラを構えている様子が目に入る。近づいて、何を写しているのかと覗き込むと、白い砂浜に刻んだ自分の足跡にレンズを向けている。
微笑ましい気持ちで小さな背中に声を掛けた。
「カメラ貸しなよ、ミウを撮ってあげるよ」
その声に驚いたようにミウは振り返って、はにかんでカメラを渡してきた。そして、「ちょっと待ってね」と、髪を手で整えている。七歳でも一人前の女の子の仕草。
「大丈夫、綺麗に撮ってあげるから」
ミウは、安心したように照れ笑いをしてカメラを見詰めた。
ちょうど日も暮れだして、淡い紫色の光を放つ空が背景になり、すごくいい写真が撮れた気がした。
「帰ったら、ヨウコに写真を見せてあげなよ」
自然とそんな台詞が口をついた。だけど、ミウは呆れた視線で俺を見上げる。そして、悪戯を咎める大人のような口調で言った。
「何言ってるの、おじちゃん。ヨウコちゃんは死んじゃったでしょう?」
悪い冗談だと思ったし、突然のその言葉に耳を疑った。
「死んじゃったから……写真なんて見せられないでしょう?」
ミウの瞳の端にうっすらと浮かんだ涙を見て、冗談ではないのだと悟った。
知らないの? 心底意外だという顔で、ミウは俺を見た。
早鐘のように心臓が鳴り響く。凍りついたように全身から血の気が引いていた。
あの時、哀しそうにヨウコは言った。
『行きたいわ、本当にそう思ったのよ。でも現実にあの島に暮らすなんて不安なのよ』
“こんな海と空しかない島で暮らせたらいいのにね”
あの旅行でそう語ったヨウコの言葉を真に受けて、帰国後、俺は日本人のダイビングインストラクターを募集している島にコンタクトを取った。
モルディブでは初めての日本資本のリゾートで、日本人のホテルのスタッフも探しているということだった。
『あたし、就職してまだ二年しか経ってないの。頑張って勉強して、それを生かせる仕事を始めたばかりなのよ』
ヨウコはアパレル会社でパタンナーの仕事をしていた。
あの時、俺は何をそんなに焦っていたのだろう。行かなくては、ただの旅行者としてではなく、もっともっと身近にあの島々を感じて生きていきたい。それもすぐにと。
ありきたりの大学を出て、ありきたりの会社に勤めていた。繰り返される代わり映ばえの無い日常に、飽き飽きしていた。
だけど、そんな毎日が当たり前だと思っていた。こんなものなのだと。ヨウコのような恋人がいて、それで充分だと思った。惚れた女がいるというだけでも、そんな日常を幸せに色付けてくれていたから。
だけど知ってしまった。あんな場所で過ごす特別な時間を。しかも、雇ってくれる島まであるなんて。
俺は有頂天だった。特別な人生を送れる気がしていた。しかも好きな女と一緒に。……だけど、俺が告白した計画に、ヨウコは哀しそうに首を横に振った。
『また、龍ちゃんと一緒に行きたい。絶対に行きたい。でも旅行じゃ駄目なの?』
裏切られた気分だった。だけど今思えば、ヨウコが躊躇して当たり前なのだ。自分の気持ちしか考えていなかった。そして勝手にヨウコだって、同じ気持ちだと信じ込んでいた。
ヨウコは重症ではなかったが、喘息の持病だって持っていた。季節の変わり目に、辛そうに咳をする姿を、何度となく目にした事だってあったのに。医者すらいない異国の島に、暮らすなんて不安だっただろう。憧れのブランドのパタンナーになれた。そういう自分の仕事に夢だって抱いていただろう。
だけど、俺は蔑むような視線を向けると、彼女の元を去った。
『言ったじゃないか、暮らしてみたいって』
そんな風に彼女を責める俺は、ただの駄々をこねる子供だった。自分勝手な男だった。
出発はあっという間に決まった。別れてからまだ二ヶ月も経っていなかった。出発する前日の夜、突然ヨウコの部屋を訪ねた。
『明日、日本を出る』
そう短く告げた俺を、青ざめた顔で彼女は見詰めた。悲しみの色を浮かべたその瞳の美しさに心がざわめいて、どうしてこんな事になってしまったのかと俺は途方に暮れた。
大事なものを失ってしまう後悔。
明日、再びあの環礁を訪れるというのに、ヨウコが一緒ではない事実が、それを色褪せたものに変えてしまっていた。
彼女は悪くなんてなかったのに。ただ、あの海を目の前にして、溜息のように溢した夢を口にしただけだったのに。俺は自分の逃げ道をそこに見つけて、ヨウコを道連れにしようとしただけ。
だけど、わかっていても、この湧き上がるぶつけようの無い怒りを、ヨウコに擦り付けるように言った。
『嘘つき』
そして乱暴に彼女を床に押し倒し、服に手をかけた。
『やめて』
俺の腕の下で、ヨウコは泣いていた。
『こんなのって哀しすぎるよ』
哀しみでも傷跡でも何でも良かった。目の前から消えていく俺を、彼女の心にただ深く深く刻みつけたかった。
ヨウコが死んだ……。眠れなかった、一晩中。
難しい病名をすらりと言ったミウの声が、一晩中眠れないベッドの上で響いていた。まるでテレビドラマの可哀相な主人公が、お決まりにかかるような、そんな病。
キュウセイリンパセイハッケツビョウ。
「おじちゃん、おじちゃん」
薄く目を開くと、心配そうに俺を覗き込むミウの顔が目の前にあった。仕事の後、もうすぐ島を出発するであろうミウの姿を砂浜に探しに来たのに、ぼんやりと座り込んでいるうちに、うとうとと眠ってしまったようだ。こんな時間にうたた寝するなんて、昨夜の寝不足のせいだろうか。
上から覗き込んでくるミウの柔らかい髪が、俺の頬まで垂れていて、心地良い優しい感触に救われた気持ちになる。
ミウは遠慮がちにおずおずと指を伸ばすと、頬にそっと触れてきた。涙を拭うような仕草。いや、まさか俺、本当に?
自分の指で恐る恐る触れてみると、確かに濡れた感触があった。信じられない気持ちと、そんな自分を見られた羞恥心で俺はうろたえてしまった。
「おじちゃん、怖い夢でも見たんでしょう」
怖い夢……。いや、ヨウコの夢を見ていた。哀しそうに俺を見詰める、出発前夜のヨウコの夢を。
皆には内緒にしてあげるからねと、ミウは母親のような口調で言うと、慰める仕草で頭なんか撫でてくる。大人と子供の立場が逆転した状況に居心地が悪くて、何か話題はないかと俺は苦し紛れにこんな質問を投げかけた。
「ミウって可愛い名前だけど、どんな漢字を書くの?」
我ながらいい質問だ。漢字というのが大人らしい響きではないか。
「あのね、ちょっと難しいのよ」
ミウは砂を指でなぞって書き始めた。読めない漢字だったらどうしようと、少し不安を感じながら小さな指先を覗き込む。そして、穴ボコだらけになった砂のキャンバスの二文字に、俺はしばらく言葉を失ってしまった。
ミウは得意そうにこう説明を添えてくれる。
「美しい海って書くの。素敵でしょう?」
そう問いかけてくる彼女に、ただただ頷いてみせる。
『あたしいつか子供ができたら、海って文字を名前に入れるわ』
あの旅行の最後の日に、ヨウコは俺の肩に寄り添って独り言のようにそう呟くと、キラキラと光を弾く海を指さした。
子供。
そんな話は未来だと思ったが、夢を語り合っているみたいでくすぐったい感じがした。
ふたりの子供。
ちらりと想像してしまったその響きが、気恥ずかしくて甘ったるくて。だけどそんな日がいつか来るのかもという予感は、俺達が深く愛し合っている証のようで……。俺は照れ隠しに黙って、ヨウコが指差した海をただ見詰めていた。
子供。こども。コドモ。
そのあまり慣れない単語に、触発されたようにあの日の会話を回想する。そうだ、彼女こう言っていた。
『結婚した姉は、婦人系の病気を患って子供が出来ないの。すごく母親が似合う人なのに。子育て手伝ってあげるから、何人でも産みなさいよなんて言われているの。心強いでしょう?』
まさか。そんな事って……。
不妊治療は日々進歩しているだろう。なかなか子供に恵まれなかった夫婦にある日突然、なんて話だって珍しい事ではない。だけど、まるでヨウコが少女になって佇んでいるようなミウの横顔に、俺は改めて心臓が高鳴るのを感じていた。
7歳、俺があいつと別れたの……。無意識に年月を逆算していることに気付いて、そんな自分に呆れた。何を考えているんだよ。
ミウがクスクスと笑いながら海を指差して、俺に語り掛けてくる。
「おいしそうだね」
その台詞に俺は、時間が後戻りを始めた錯覚に眩暈さえした。知っている……この台詞の続きを。
「だって、すご~く大きなあおいゼリーみたい」
あの日と変わらない空。
あの日と同じ海の色。
同じ眼差し。
同じ仕草。
「ほら、ぷるぷる揺れて綺麗だね」
ヨウコが死んだ。
昨日ミウからそう聞いた時は、何だか実感がわかなかった。ただ呆然と聞いていただけだったのに。今、あの時と同じ台詞を耳にしたら、ぽっかりと空いた埋めようのない空虚感に俺は落ちていってしまった。
人生を変えた一週間。
初めてこの海に触れた衝撃。
楽園の風の心地良さ。
そして手を伸ばせば、いつもあいつの温もりがあった。
あれから、雇われのダイビングスタッフとしてこの環礁を巡り島々に暮らした。海亀やマンタと海を泳ぐ毎日。
生まれ育った東京と全く違う素朴な地が、俺の故郷にさえなった。この海のような青い瞳の恋人がいた事もあった。激しく燃えるような、行きずりの恋だって。だけどヨウコと過ごした、この海でのたった一週間。あれ以上の日々を俺は知らない。
俺を映した瞳。
胸を震わせるような吐息。
名前を呼ぶ声。
絡め合った熱い指先。
俺、あの時どんな顔をしていた? そんな温もりに包まれて、馬鹿みたいに満たされた幸福感ってやつ。夢の中にいるみたいだった。
ヨウコ、何処に行っちゃったんだよ? あの瞬間の俺の全て、みんなお前の胸にしまっておいたのに。もう会うこともなかったかもしれない。だけど……俺とあの一週間を共有していることで、繋がっているって信じていた。離れて違う人生を歩いていても、求め合う気持ちが擦り減っても。
なぁ、最後にやっぱりここに戻りたいと思ったんだろう? 俺にはわかる。あの時のヨウコの全てを知っているからさ。
ヨウコが死んだ。
だったら、あの日の俺も、ヨウコだけが知っているあの日の俺も、消えてしまったようで……。
大事な宝物を剥ぎ取られてしまった感覚。
目の前に広がる、あおいゼリーと例えられたその海が、果てしなく続く蒼い砂漠のように感じた。
「ごめんね、おじちゃん」
ミウがひどく申し訳なさそうに、慌てた様子で声を掛けてくる。
「そのお髭、熊みたいだって言ったの冗談よ」
そんな事を急に言い出したミウを、不思議な気持ちで見詰める。
「だから、ね? そんなに泣かないで」
気が付かなかった。再び瞼が熱かったのは涙のせいだったなんて。いや、声をあげてしまいそうな嗚咽を堪えるのに必死で、涙の事にまでに気が向かなかった。
それ以上何も言わずにミウは、俺の頭を優しく抱いてくれた。
また、立場が……。
この期に及んでそんな負け惜しみがちらりと頭をかすめたが、癒すような温もりに今はただもたれかかって、子供のように泣きじゃくっていた。
「あ、そうだママがね、出発する前におじちゃんにお話があるんだって。お時間ありますかって聞いてきてって言われてたんだ」
思い出したように、ミウは言った。おいおい、最初に言ってくれよ、そんな大事なこと。だけど、そんな文句はとても今は言えそうにない。その話で少し気が紛れたのか、しゃくりあげていた息も落ち着いていた。
出発前ってあと一時間しかないじゃん。ママはどこにいるかと尋ねると、コーヒーショップだとミウは言った。
俺は波打際で顔を洗うと、少し緊張した気持ちでコーヒーショップに向かった。
ウッドデッキテラスの椅子にミウの母親は座っていた。遅くなった事を詫びると、ミウのおしゃべりに付き合わされていたのでしょうと、逆に申し訳なさそうに彼女は言った。なんて返事をしていいやら……困った俺は、曖昧な笑顔でその場を濁した。
「本当に、ヨウコが話していた通り、素敵な所だったわ」
彼女は溜息混じりにそう言うと、夕日を帯び始めた空を仰いだ。
「ヨウコの事は昔の事なのに、今更押しかけて、気持ちをかき乱すような事をしてごめんなさいね」
「いや、訪ねてくださった事、俺は感謝しています」
ありがとうと、小さな声で彼女は言った。
「昨日あの子、あなたにヨウコが亡くなった事、話したみたいね」
「……ええ」
「ヨウコが死んでこの二ケ月、ミウは一言も口をきかなかったの」
「えっ?」
驚いた。最初に会った時、ミウは普通に話し掛けてきたから。
「あなたに声を掛けたあの時、ミウの声を二ヶ月ぶりあたしは耳にしたの……。嬉しかった」
あぁ、だからあんなにびっくりした顔をして慌てていたのか。初めて顔を会わせた時の状況が頭をよぎった。
「お医者さんには、ヨウコの死を受け入れられないショックのせいだろうって」
全然気付かなかった。ミウはいつも笑っていたから。だけどあの小さな身体で、そんな傷を心に負っていたのかと思うと、胸の奥がズキズキと痛んだ。
「ヨウコはあの子にとって特別な存在だったの。年の離れた姉のような、親友のような、理想の憧れの女性……そして母親のような」
母親という言葉に、俺の心臓は跳ね上がった。少しの沈黙の後、思い詰めた声で彼女は言葉を繋げた。
「龍さん、あの子はね……ミウは……」
彼女の顔は青白く、その声は震えていた。俺はそんな風に彼女を怯えさせる何かを、言わせてはいけない気がして、その先を遮るように言った。
「金谷さん」
彼女はビクリとして、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。そして泣きそうな顔で俺を見上げて、次の言葉を静かに待った。
「ミウはいい子だ。あの子を見ていると、家族に愛されて育った子だってわかります。あなたの話も、お父さんの話も、僕は家族の話を沢山ミウから聞きました」
彼女は瞳を潤ませて、何かに耐えるように押し黙っている。俺はおどけるように言った。彼女の気持ちを少しでも楽にしてあげたくて。
「ミウには俺がいいショック療法だったんでしょうね。憧れのヨウコの元彼が、熊みたいなオヤジになっていた」
彼女は両手で顔を覆った。肩が震えていて、泣かれてしまったと慌てたが、漏れてくるその声はクスクスと押し殺した小さな笑い声だった。
「……ごめんなさい」
申し訳なさそうにそうは言うが、込み上げてくる笑いを押さえ切れない感じだ。場の雰囲気が明るくなって、救われた気持ちになる。だけどあまりのウケように、繊細な俺はちょっとばかり傷付いてはいたけれど……。
「ヨウコがあなたに惹かれたの、わかる気がするわ」
さらりとそんな台詞を口にして、彼女は膝に置いてあった本を俺に差し出した。 不思議な気持ちでそれを受け取る。
「これはやっぱり龍さんにお返ししますね」
本だと思ったそれはアルバムだった。ぱらりと表紙をめくると、抜けるような青空の下で、馬鹿みたいにはしゃいでいる俺の写真が張り付いている。
若くて、髭面でもない、あの時の俺。隣の写真にヨウコもいた。日に焼けて、ヤシの木陰で頬杖をついて、こちらを覗き込んでいる。あの旅の写真、ヨウコが持っていたのか。
「ヨウコ、このアルバムを病室にまで持ち込んでいてね、まるで物語を読むみたいにページをめくっては、よくミウに話していたわ」
遠くでミウが「ママ」と呼ぶ声が聞こえる。彼女は「今行くわ」と声がした方向に返事をした。そしてゆっくりと立ち上がると、話を締めくくるように語った。
「ヨウコはこう言っていたの。これがあおいゼリーに浮かぶ小さな島よって」
桟橋の先端で俺は、積み込まれるミウ達のスーツケースを眺めていた。何度となく見慣れた光景。だけど自分だけがポツリと置いて行かれる気分だった。
俺のシャツの裾をミウは引っ張って、桟橋の端っこに連れていく。そして、そこにしゃがみ込むと、名残惜しむように桟橋の灯りに集まった魚を見詰めた。
「あのね、そのアルバムの最後の一枚、綺麗だったからあたし貰っちゃったの」
「いいよ、ミウに持っていて欲しいな。どんな写真だった?」
「えっとぉ~」
バツが悪そうにミウは言葉を濁した。
ミウ以外のゲストは、皆、船に乗り込んだみたいだ。スタッフが、癖のある英語で声を掛けてくる。しゃがんでいたミウは立ち上がり、俺の耳元で小さく囁いた。
「こんな感じの写真よ」
チュッと小さな音。おでこに甘いキスを落とされる。 悪戯っぽく俺を覗きこむと「またね」とミウは脇をすり抜けて船に乗り込んだ。
おいおい、その手慣れたさりげないキス……まいったな。 苦笑いをしながら、俺も立ち上がると船の方へ向かった。
突き抜けるエンジン音を響かせて、スピードボートが桟橋をゆっくりと離れていくのが見える。
「バイバイ」
そう叫びながら、暗くなった海に溶け込んでいくミウの姿。 水平線に近づいていく船の灯りはどんどん小さくなって、空を埋め尽くす星の光に混じっていった。
手にしていたアルバムをパラパラとめくる。桟橋の柔らかいライトに照らされて、あの日々の断片が浮かび上がる。ヨウコが見詰めたあの瞬間、俺が見詰めたあの瞬間がそこにあった。無くしてしまったものを、再び抱き締めた安堵感。
そしてミウが言った通り、最後のページの一枚が抜き取られた形跡があった。いや、差し替えられたと言うべきだろう。他のとは大きさの違う一枚の写真。そこにはミウとヨウコが写っていた。どこかの公園で撮ったのだろうか、背景は一面の芝生だった。仲よく寄り添って、楽しそうにカメラを見ている。
もしかしたらミウは、ヨウコが産んだのかもしれない。万に一つの可能性で俺の子供なのかもしれない。だけど、ヨウコは俺に何も言わなかった。そしてそのまま消えてしまった。それが全てなのだと思った。
そしてミウはここを訪れた。ヨウコに導かれて……。俺の傍で一週間過ごし、家族と暮らす家に帰って行った。
傷付いた心を、この島は優しく癒してくれただろう。ヨウコが教えたあおいゼリーの海は、ミウの瞳に深く焼きついただろう。
絶えることなく、世界中から人々がこの地を訪れる。そして様々な賞賛の言葉を口にする。誰の物でもない美しい環礁。
けれども、ミウのような子供達にこそ、この海を知ってもらいたいと思った。
無垢な瞳にこの海は、ただありのままに映るだろう。そして地球が青く輝く意味をその小さな胸に刻むのだ。
背後からヌッと太い腕が伸びてきて、ごっつい指が俺の写真を指差した。振り向くと、顔馴染みのレストランの若いウェイターが、アルバムを覗いている。
「……リュウ?」
まさかな、という口調で彼はそう尋ねてきた。
「イエス」
当たり前だというように俺は答える。
信じられないとそいつは、大げさに頭を抱える仕草をしやがった。まだ幼さを残した悪戯っぽい顔で、しつこく俺を冷やかしてくる。生意気なガキだ。
得意の回し蹴りを食らわしてやると、今度はそのカンフーを教えてくれとまとわりついてくる。いつまでもさぼっていると、大目玉を食うぞと脅かすと、慌てた様子で戻って行った。
その後ろ姿を見詰めながら、シャワーの後、久々に……いや、数年ぶりに髭でも剃ってみるかと思ってみる。
朝食のいつもの席に座る俺に、お決まりの紅茶を運ぶアイツは、見知らぬ男をそこに見るだろう。
そんな思いつきに心を躍らせて、ミウに熊と言われたこの髭を、名残惜しむように触れていた。
【END】



小説の舞台となった島:モルディブ/ココア
写真提供:おいしいのがすき
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●昔書いた小説ですので、現在は島がリニューアルして名前が変わっていることがあります。
●モルディブを知らない方でも問題なく楽しんでいただけるかと思います。楽園の風を感じてみませんか?。モルディブは1島=1リゾートホテルが基本です。小説も1島ごとに描いていきまs。
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