【追悼・東野圭吾様】広報PR|一貫性という美徳の終焉――人は変わるために対話する
あの夜、東野圭吾は「変わっていい」と語った
作家・東野圭吾氏の訃報に接して、私が思い出したのは、2023年12月の第71回菊池寛賞贈呈式。壇上の東野氏は、意見を変えることを恥じる必要はないと語りました。
コロコロ意見や考えを変えるのは、私の得意技だからです。(中略)日本は政治家を筆頭に、一旦言い出したら、意見を変えちゃいけない、考えを変えたら恥だという雰囲気があるような気がします。そんなことはないです。原発を勉強して危ないなと思ったら、賛成から反対に転じて大いに結構じゃないですか。(中略) いくらでも意見変えて、全然構わないですよ。そうしないと話し合いって進まないじゃないですか。(中略)明日からと言わずに、もう今夜から。人の意見を聞いて、人間は変わったほうがドラマチックです。そうやって肩の力を抜いて、どんどん変化して生きていきましょう。
私たちの社会は、「ブレないこと」を長く美徳としてきました。人にも企業にも一貫性を求め、過去と違うことを語れば、すぐに矛盾を指摘します。
もちろん、一貫性のある説明責任は重要です。しかし一貫性を守ること自体が目的になってしまうと、対話自体が成立しません。何も変わるつもりがないのなら、人は何のために対話するのでしょうか。企業は何のために社会へ開き、広報PRを行うのでしょうか。
終わらせるべきなのは、一貫性そのものではありません。
終わらせるべきなのは、変わらないことを強さや誠実さとして崇める、その美徳なのです。

1. 一貫性は美徳なのか
1-1. 「前と言っていることが違う」という告発
私たちは、「間違った事を言う人」よりも、「前と違うことを言った人」に厳しいのかもしれません。過去の発言が掘り起こされ、現在の言葉と並べられる。「以前はこう言っていた」「方針が変わった」。その指摘だけで、相手の信頼性まで疑われてしまいます。
もちろん、責任逃れのために、無責任に立場や意見を変えたであろう人に、その説明を求めることは当然の行為です。しかし、新しい事実を知り、他者の意見に触れ、考えを改めた人まで「ブレた」と裁くなら、人は学ぶほどに身動きが取れなくなるのではないでしょうか。
1-2. 近代社会を動かしてきた主体のルール
現代において、人も企業も、自らの発言や判断に責任を負っています。考えを変えたなら、何を知り、なぜ判断を改めたのかを語らなければなりません。
これは近代社会が、人間を自ら考え、判断し、その結果を引き受ける主体として扱ってきたことに起因します。カント的な自律主体の考え方も、その重要な源流の一つです。過去と現在の自分を同じ主体としてつなぎ、行動の理由を説明する。この仕組みがなければ、信頼も契約も法も成り立ちません。一貫性は、近代社会を動かすOSに近い原則です。
しかし、カント的な自律主体を前提にした近代社会には、見過ごせない歪みも生まれます。
人は、自ら考え、自ら決め、自ら責任を負う主体であることを求められるものの、その要請が強まれば強まるほど、他者の言葉によって判断を変えることが、自律性を失う行為のように見えてきます。昨日の自分と違うことを語れば、主体としての一貫性まで疑われる。
こうした背景のもと、本来は「責任を支えるための仕組み」であったものが、「変化をためらわせる同調圧力」へと変貌してきたのです。
1-3. 規則が美徳に変わるとき
ブレない人は強い。方針を変えない企業は誠実である。
そう信じるほど、誤りを認めることや、外部の声によって判断を変えることが難しくなります。それは、様々な体験や対話を通過したあとに湧き出てくる、内なる気づきの声すらも封じ込めてしまいかねない。
企業のブランドストーリーも同じです。一貫した物語には価値があります。しかし、その物語を守るために、社会の変化や当事者の声を退けるなら、ストーリーは企業を未来に導く羅針盤から、企業を閉じ込める檻へと変化します。
今こそ疑うべきは、一貫性そのものではありません。「責任を支えるルール」を、「変わらない人間や企業の強さや美しさ」として崇めようとする、その美学にあるのです。
2. 「変わらない自分」という都市の病理
2-1. 人間は変わり続ける
養老孟司氏は『唯脳論』で、都市や制度が人間の脳の働きを外部化したかのように形づくられていく社会を論じました。
都市は、曖昧さや偶然を嫌います。人や物の動きを予測し、分類し、管理できる状態へ近づけようとします。そこでは人間も、昨日と同じ人格を持ち、同じ基準で判断する主体として扱われます。
しかし、人間は機械ではありません。身体は日々変化し、経験によって感情も判断も揺れます。以前は受け入れられなかった言葉が、年齢や立場、環境が変わったことで、突然、自分の中へ入ってくることもあります。
2-2. 「ブレない自分」という幻想
そうであるにもかかわらず、私たちは依然、近代の思考OSの世界において、自分らしさやブレない軸を持つことを求められ続けています。
もちろん、判断の基準を持つことは大切です。しかし、その基準を守ることに執着すると、新しい経験に触れても、過去の自分と矛盾しない解釈を探すようになる。外部の言葉を受け取るより、整った自分の物語を守ることが優先される。
「私は変わらない」という宣言のなかには、「信念」よりも強く、「自分が変わってしまうことへの恐れ」が隠れているのではないでしょうか。
例えば、あなたにとっての「成長」とはいかなる状態を指すでしょうか。それは、自己の既存の能力を強化することだけに留まりません。これまでの前提を覆し、新たな問いに向き合う態度に変容するプロセスこそが、本質的な成長と言えます。
だからこそ、人には対話が必要になります。
対話は、他者の言葉によって、自分の輪郭が少し変わってしまう。その可能性に身を開く営みなのです。
3. 対話を終わらせるもの
3-1. 相手だけを変えようとするマウンティング
対話が壊れる時。それは、自分を変えず、相手だけを変えようとしたときに壊れるのです。「こちらが正しい」「そちらが間違っている」。そう言い切った瞬間、対話は理解のための往復ではなく、どちらが上に立つかを決めるゲームへと様変わりしていきます。
マウンティングとは、自分が変わる可能性を閉じたまま、相手だけを動かそうとする会話です。その場で交わされているのは言葉ですが、実際に競われているのは立場(メンツ)であり、優位性であり、相手を論破し屈服させようとする力です。
3-2. 正しさを守るほどに、届かない言葉
自分の主張を守ることに集中すると、相手の言葉は反論材料にしか見えなくなります。聞いているようで、聞いていない。理解しようとしているようで、次に何を言い返すかを考えているだけです。
職場でも、家庭でも、SNSでも、この構図は珍しくありません。企業と社会の関係でも同じです。
説明会や記者会見を開き、意見を募集しても、最初から方針を変える余地がなければ、そこで行われているのは対話ではありません。自分たちの正しさを、別の言葉で繰り返しているだけの「不誠実」な態度なのです。
3-3. 言葉が敗北した先に現れるもの
マウンティングの応酬が続けば、対話は行き止まってしまいます。個人の関係なら沈黙、そして絶縁となるかもしれません。企業と社会の間なら、不買、炎上、訴訟へ進むこともあるでしょう。
国家が互いに「自分は変わらない」と誇示し、相手だけに譲歩を求め続ければ、やがて言葉の代わりに力が動き始めます。もちろん、戦争には領土、資源、安全保障、国内政治など、複雑な要因があります。それでも、相手の言葉によって自分が変わる可能性を閉ざした先で、武力が前面に出てくる構造は見逃せません。
戦争とは、対話が敗北したあとに現れる、最も巨大なマウンティングといっても良いのではないでしょうか。
対話を続けるために必要なのは、主張を捨てることではなく、自分もまた、相手の言葉によって変わるかもしれない。その相互の可能性を閉じないことなのです。
4. 対話という、変化を引き受ける勇気
4-1. 対話は同調を求めない
元大阪大学総長で、哲学者として知られる鷲田清一氏は、対話を相手を説得する技術として捉えていません。
ディベートは話し合う前と後で考えが変わったら負けなんですが、対話は前と後で変わっていなければ意味がない
対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語り合うほど他人と自分の違いがより微細にわかるようになること、それが対話だ。
この二つの言葉を重ねると、対話とは、その後の自分がどのように変わるか分からない場所に、敢えて身を置く行為だとわかります。
私たちは、自分の考えを相手に理解してもらうために話します。企業も、理念や方針を社会へ説明し、納得を得ようとします。しかし、自分の前提は動かさず、相手だけに変化を求めるなら、そこに対話は生まれません。
対話とは、相手の言葉が自分の内側へ入り込み、判断や問いの立て方まで揺らすことを許す営みなのです。
4-2. 変わらないという結論
もちろん、対話したからといって、必ず意見を変える必要はありません。相手の話を聞き、考え直したうえで、以前と同じ判断に戻ることもあります。
それでも、最初から変わらないと決めていた状態とは異なります。それは対話を通じて、相手の言葉を自分の中に通しているからです。相手との違いだけでなく、相手の事情や痛みも同時に受け取っている。そしてそれらを受けとめることは、「結局、自分は何を守ろうとしているのか」「自分の判断は、どのような前提に支えられているのか」と、自分自身を問い直すことに他なりません。
これまで自覚していなかった自身の先入観や固定観念に気づき、自分の立ち位置を捉え直す。そこにも、対話の大きな価値があります。
4-3. 対話は、主体を無傷で返さない
本当の対話を終えたあと、人は以前と同じ場所には戻れません。その経験は、自分の輪郭を少しずつ変えていく。つまり対話とは、自分という主体が、他者との関係の中で書き換えられる可能性を引き受けるという「体験の場」なのです。
だからこそ、対話には勇気が必要です。
自分から変わると決めることよりも、対話の先で、気づけば自分が変わっているかもしれない。その不確かさへ身を置くことのほうが、ずっと難しいのです。
5. 人は、自分の意志だけでは変われません
5-1. 「変わろう」と決めても、変われない理由
ここで、國分功一郎氏の「中動態」という考え方が効いてきます。
私たちは、「変化」を意志の問題として捉えがちです。
成長したいなら努力しろ。考えを改めたいなら決断しろ。変われないのは、本人の覚悟が足りないからだ。
しかし、人は自分の意志だけで、自分自身を書き換えられるわけではありません。変化とは、自分が一方的に起こすものでも、外から一方的に押し付けられるものでもなく、他者や環境との動的な関係のなかにその兆しが生まれ、気づけば以前とは違う場所に立っているというものです。
人は誰かの言葉に意図せず傷ついたり、思いがけず救われたり、心洗われる体験をすることなどによって、簡単にその価値観を揺さぶられ、変化の兆しが生まれる。
「中動態」という考え方を借りれば、「人間の変化」は「する」と「される」の間(あわい)に生まれているのです。
5-2. 対話のなかで変わる
対話も同様です。
人は、相手の言葉を受け取った瞬間に変わるわけではありません。その場では反発し、否定し、聞き流すこともあります。それでも、言葉は身体に残ります。時間がたち、別の経験と結びついたとき、以前は理解できなかった意味が立ち上がってくることもあります。
だからこそ、対話の価値は、その場の合意だけでは測れません。
対話とは、結論を出すための手続きであると同時に、相手の言葉を自分の内側に残す行為でもあるのです。
その言葉がいつ自分を動かすのかは、話している本人にも分かりません。人は、意志の力だけで変わるのではなく、他者の存在に触れ、予想していなかった言葉を受け取りながら、いつの間にか静かに変わっていくものなのです。
東野圭吾氏が語った「人間は変わったほうがドラマチックです」という言葉も、変化を命令しているようには聞こえません。むしろ、変わってしまう自分を、もう少し許してもよいのではないか。そんな軽やかな肯定だったように感じます。
5-3. 質的心理学は、変化の過程をどう捉えるか
対話が人にもたらす変化は、哲学だけが扱ってきた問題ではありません。質的心理学領域でも、語りや行動、置かれた状況をたどりながら、人がどのように経験の意味を組み替えていくのかが研究されています。
質的心理学が扱うのは、数値だけでは捉えにくい経験です。人が何を語り、どの言葉を選び、出来事をどのような物語として理解しているのか。インタビューや観察、文章などを手がかりに、その意味と文脈を読み解いていきます。
そこでは、人間を完成した答えを持つ存在とは見ていません。時間の経過や他者との関わりのなかで、経験の意味を組み替えていく存在として捉える研究でもあります。
インタビューの途中で、語り手が言葉に詰まり、言い直し、ふと「自分は本当はこう感じていたのかもしれない」と気づくことがあります。研究者は、最初から用意されていた答えを回収しているわけではなく、問いと応答の往復のなかで、新しい意味が立ち上がる瞬間に立ち会っているのです。
この研究領域では、さまざまな現場で発生する変化にも注目しています。
医療や看護の現場では、病気を経験した人が、その出来事をどのように受け止め、人生の物語へ置き直していくのかが研究されています。教育や福祉の領域でも、子どもや支援を受ける人が、周囲との関係のなかでどのような経路をたどり変化していくのかが考察されています。ビジネスにおける顧客理解でも、購買という結果だけを集計するのではなく、ある商品が生活のなかで特別な意味を持つまでの語りを聞く方法が用いられます。
人は、ひとつの言葉だけで突然変わるわけではありません。過去の経験や他者との関係が重なり、語り直すなかで、少しずつ自分の位置が変わっていく。つまり、対話がもたらす変化とは、完成した答えとして現れる前に、言葉の揺れや沈黙、言い直しのなかですでに始まっているのです。
6. 東野圭吾が描いたもの
6-1. 『容疑者Xの献身』|完璧な論理の破綻
東野圭吾氏の代表作『容疑者Xの献身』の石神は、数学の論理によって世界を閉じようとします。靖子母娘を守るために、彼は人間の行動まで計算へ組み込み、綻びのない計画を組み上げました。そこには、自分の意志を貫き、他者を動かし、結末まで支配しようとする強い一貫性があります。
その計画を崩したのは、計算の誤りではありませんでした。
靖子が、石神の想定した役割にとどまらなかった。他者は、どれほど緻密な物語を用意しても、その通りには生きてくれません。
ラストの慟哭は、完璧な論理が敗れた音にも聞こえます。石神が守ろうとした世界は崩れました。しかし、そこで初めて、彼は計算によって閉じられた存在から、他者によって傷つき、揺らぐ人間として露出します。
6-2. 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』|対話による相互変容
『ナミヤ雑貨店の奇蹟』では、変化はもっと静かに起こります。
廃屋へ逃げ込んだ若者たちは、過去から届く相談の手紙に返事を書くことになります。彼らは、誰かの人生を導けるほど立派な人間ではありません。それでも、見知らぬ相手の悩みに向き合い、言葉を探し始めます。
誰かの問いに答えようとすると、自分の生き方まで問い返されます。
相談する側だけが救われるのではありません。応答した側もまた、相手の言葉によって、自分たちが立っている場所を見直していきます。
対話とは、完成した者が未完成な者へ答えを渡すことではありません。互いに不完全なまま言葉を交わし、その往復のなかで、双方の物語が少しずつ動いていくことです。
6-3. 物語を書き換える他者という存在
石神は、他者を自分の論理へ組み込もうとしました。ナミヤ雑貨店の若者たちは、他者の問いを自分の内側へ迎え入れました。
そこに、対話をめぐる二つの姿が見えます。相手を計算し、自分の物語に従わせようとすれば、関係はいつか破綻します。相手の言葉によって、自分の物語まで変わることを受け入れれば、予想していなかった場所へ進むことがある。
東野作品を読み返すと、私はそこに、論理や計画に閉じ込められた人間が、他者の存在によって揺らぐ瞬間を何度も見つけます。
人間は、誰かの物語の登場人物ではありません。自分の筋書きを持ち、こちらの予測を裏切り、ときには私たちの物語まで書き換えてしまう存在なのです。
7. 変わるつもりのない企業に、広報PRは必要か
7-1. 説明する広報と、対話するPR
企業には、常に一貫した説明が求められます。
理念や方針、過去の判断と現在の行動をつなぎ、社会に向けて語ることは、信頼を築くうえで欠かせません。判断を変えたなら、何を知り、誰の声を受け取り、なぜ改めたのかを説明する責任もあります。
しかし、自分たちの正しさを伝え、理解だけを求めるのであれば、それは対話とは言えません。広報PRが対話であるためには、外から戻ってきた声が、経営や事業、制度や行動を変える回路につながっている必要があります。
7-2. 対話のふりをした鎖国
意見募集の窓口を設け、SNSを運用し、ステークホルダーとの対話を重ねても、最初から何も変えるつもりがなければ、組織は開かれていません。外へ向けた窓はあっても、内側から鍵がかかっている状態であり、変化の可能性を拒んだまま行われる広報PRは、対話のふりをした鎖国です。
社会の声をすべて受け入れる必要はありません。
必要なのは、聞いたうえで何を守り、何を改めるのかを考えること。変えないという判断も、対話を通過した結果であれば、最初から耳を閉ざしていた状態とは異なり、そこには変わらなかった判断に至る、血が通った言葉が立ち上がっているのです。
7-3. 一貫性から、責任の連続性へ
企業に必要なのは、昨日と同じ言葉を繰り返すことではありません。何を守ったのか。何を変えたのか。どこで見誤り、誰の声によって考え直したのか。その過程を語り続けることです。
広報PRとは、一貫性を守るためだけの仕事ではありません。それは社会との対話を通じて、何を守り、何を変えるべきかを問い直し、その変化に説明責任を与える仕事です。
企業が変わったことよりも、なぜ変わったのかを語れないことのほうが、信頼を失わせるのではないでしょうか。
8. さいごに|一貫性という美学の終焉
8-1. 変わった理由を語る誠実さ
「前と言っていたことと違う」
そう指摘されたとき、私たちは身構えます。過去の自分を守ろうとし、言葉を重ね、ときには変わっていないように見せようとします。
しかし、本当に問われているのは、以前と同じかどうかではありません。何を知り、誰の言葉を受け取り、なぜ考えを改めたのか。その過程を語れるかどうかです。
変化を隠さず、過去の判断からも逃げず、現在の自分がそこへ至った道筋を説明する。それもまた、一つの誠実さです。変わらないことによって責任を示す時代から、変わった理由を語ることで責任を示す時代へ。私たちは、そろそろ進んでもよいのではないでしょうか。
8-2. 変わるための対話を始めよう
もちろん、対話したからといって、必ず意見が変わるわけではありません。それでも、以前とまったく同じ自分ではいられません。結論は変わらなくても、見える景色や、相手への理解は変わっているはずです。
東野圭吾氏は、菊池寛賞の壇上でこう語りました。
「人の意見を聞いて、人間は変わったほうがドラマチックです」
首尾一貫していることには、確かに美しさがあります。
しかし、その美しさを守るために他者の言葉を閉め出してしまえば、対話は静かに壊れていきます。対話とは、外から届いた言葉によって、その物語が書き換えられる可能性を引き受ける事なのですから。
終わらせるべきなのは、説明責任ではなく、変わらないことを強さと呼び、揺らがないことを誠実さとみなし、昨日と違う自分を恥じる、その美学なのです。
次に「前と言っていたことと違う」と言われたとき、私はあの壇上の東野圭吾氏を思い出すでしょう。そして、そこで生まれがちな沈黙を投げ捨て、考えが変わった理由を、自分の言葉で誠実に語りたい。もし、変化の理由を明快に語れないのであれば、せめてそこに生まれた違和感を言葉にしてみる事から始めたいと思います。
人は変わるために、
そして新しい自分と出会うために、
対話を重ねるのですから。
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