Topic 28: 人種隔離の象徴「ジム・クロウ」と1930年のサンフランシスコにおける教育現場
At school in the auditorium we did Folk dancing. We played lots of games there we had the Jamp Jim Crow and Hancil and Gretle and many others. I like Hancil & Gretle the best dance. I like some others too. There are no long dance in them I like it better the shoter ones. I get…
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) January 14, 2026
「Jump Jim Crow ジャンプ・ジム・クロウ」という言葉がヨーコの日記に登場しました。
「ジャンプ・ジム・クロウ(Jump Jim Crow)」は、19世紀にアメリカで大流行した歌とダンスの演目であり、後にアフリカ系アメリカ人を差別・隔離する法体系(ジム・クロウ法)の名称の由来となったものです
「なぜジャンプ・ジム・クロウが1930年のサンフランシスコの小学校で踊られたのか?」
ヨーコの日記に「ジャンプ・ジム・クロウ」の言葉が登場し、その意味を知った時から、上記の問いをもってこの記事を作成することにしました。当時の人種隔離の状況や教育現場について調べると、1930年のサンフランシスコにはアフリカ系移民を含む有色人種に対する人種隔離が存在し、教育現場にも影響を及ぼしていたことがわかりました。
ただし結論から言えば、この記事は上記の問いに答えることはできていません。その意味で、記事は不完全であり、執筆者の認識が不足していることは確かです。しかし日記の言葉だけが残ってしまうことよりも、まずは当時の状況を理解するためにこの記事が必要だと考えました。
今回のトピックでは、ジャンプ・ジム・クロウと1930年のサンフランシスコにおけるアフリカ系を含む有色人種に対する隔離の実態、そしてその隔離が教育現場に及んでいた状況と、ヨーコが通ったエマーソン校の様子についてまとめます。
ジャンプ・ジム・クロウ Jump Jim Crow
“Jim Crow, A Comic Song”
written by: Thomas Dartmouth Rie
performed by: Henry Reed
Come listen all you galls and boys I’s just from Tuckyhoe,
I'm going to sing a little song, my name's Jim Crow,
Weel about and turn about and do jis so,
Eb'ry time I weel about jump Jim Crow.
Oh I’m a roarer on de fiddle and down in old Virginny,
They say I play de skyentific like Massa Pagannini.
Weel about and turn about and do jis so,
Eb'ry time I weel about jump Jim Crow.
さぁさぁみんな、聞いておくれよ!おいらはタッキーホから来たばかり
これからちょっとした歌を歌うよ、おいらの名前はジム・クロウ
くるりと回り、向きを変え、ほらこうやって
くるりと回って、ジム・クロウは飛び跳ねる
古き良きバージニアで、おいらはバイオリンを弾きまくる
まるで巨匠パガニーニみたいに、科学的に演奏するって言われているのさ
起源とパフォーマンス
1828年(あるいは1830年代)、トーマス・ダートマス・「ダディ」・ライス(Thomas Dartmouth "Daddy" Rice)という白人俳優が、顔を黒く塗る「ブラックフェイス」でこの歌とダンス(ミンストレル・ショー)を披露したことが始まりです。ライスは、足の不自由な年老いた黒人、あるいは身なりの汚い厩舎の少年が歌い踊る姿をモデルにしたと言われています。
その歌詞には「Weel about and turn about and do jis so, Eb’ry time I weel about I jump Jim Crow(くるりと回り、向きを変え、ほらこうやって。くるりと回って、ジム・クロウ、飛び跳ねる)」というフレーズが含まれ、その崩れた英語は訛りを揶揄するものです。
この演目は黒人を「怠慢で愚か、非理性的で人間以下の存在」として描くステレオタイプを定着させ、当時の白人観衆に爆発的な人気を博しました。
「ジム・クロウ」という言葉の変遷
1838年頃には「ジム・クロウ」という言葉自体が黒人に対する人種差別的な蔑称として使われるようになりました。
19世紀末になると、この言葉は人物やキャラクターを指すのではなく、黒人の権利を奪い、公共の場での隔離を強制する「ジム・クロウ法(人種隔離法)」という制度全体を指す言葉へと変化しました。
当初「ジャンプ・ジム・クロウ」という一介の滑稽な見せ物に過ぎなかったものが、社会全体に広まる過程で「差別という冷酷なシステムの顔」へと変貌していきます。
南北戦争中の1863年、リンカン大統領による「奴隷解放宣言」により、アメリカの奴隷制は廃止されたものの、黒人に対する差別は南部を中心に根強く残ります。
カリフォルニア州サンフランシスコにおける独自の「ジム・クロウ」
サンフランシスコにおける「ジム・クロウ」は、アメリカ南部の公然とした暴力とは異なり、法や制度を用いた「現代的で洗練された」手法によって組織的に構築されていたといえます。また南部のジム・クロウが主に白人と黒人の二元的な分離であったのに対し、カリフォルニアでは黒人だけでなく、アジア系移民、先住民、メキシコ系住民など、複数の有色人種グループを標的にしていました。
1. 制度としての差別(1850年代〜1860年代)
カリフォルニア州が1850年に「自由州」として連邦に加入した当初から、白人至上主義を強化するためのさまざまな法的制限が設けられました。
証言禁止法: 1850年から1863年まで、黒人や先住民は法廷で白人に対して証言することが禁じられていました。
参政権と婚姻の制限: 黒人の投票権は1869年の憲法修正第15条まで認められず、白人との結婚を禁じる「反混血法」も存在していました。
2. 公共交通機関と社会施設での隔離
日常生活のあらゆる場で身体的な接触を避けるための隔離が行われました。
路面電車: 1860年代には黒人乗客の乗車拒否や強制排除が日常的に行われていました。
公共施設: レストラン、劇場、バー、プールなどでの入店拒否や侮辱が横行していました。カリフォルニアの公共プールでは、アフリカ系アメリカ人が利用できる日を週に1日だけに制限する制度が取られ、「ネグロ・デイ」と呼ばれていました。
3. 教育における「分離平等」の歴史
サンフランシスコの教育システムは、早い段階から人種構成に基づいた隔離を構築していました。
隔離学校の始まり: 1850年代、最初の黒人学校は教会の地下室に設置されるなど、劣悪な環境にありました。
法的根拠: 1872年の訴訟により、後の連邦最高裁判決に先駆けて「分離すれでも平等(separate but equal)」の原則が確立され、隔離が合法とされました。
廃止と継続: 1875年にコスト削減を理由に人種別学校は一度廃止されましたが、その後の学区(出席区域)の境界線操作により、事実上の隔離が長年維持されました。
4. 住宅における組織的排除
1910年代から1920年代にかけて、居住地による隔離が洗練された手法で進められました。白人専用の居住区を作るため、有色人種への売却や賃貸を禁じる特約が不動産契約に盛り込まれ、法的に執行されました。例えばサンフランシスコのウェスト・ポータルに開発された庭園住宅セント・フランシス・ウッドも有色人種への売却や賃貸を認めていませんでした。
5. 文化的なステレオタイプとメディア
差別を正当化するための文化的攻撃も執拗でした。
ジム・クロウ興行: 1860年代には黒人を愚か者として描く「ブラックフェイス」の見世物が毎晩のように行われました。
映画『国民の創生 The Birth of a Nation』: KKK(クー・クラックス・クラン)を称賛し黒人への暴力を正当化するこの映画は、1915年に公開され、ニューヨークでロングラン上映される等大ヒットをしました。公開当時、この映画が広める人種差別的なステレオタイプや暴力の肯定に対し、多くの人々や団体が抗議の声を上げました。サンフランシスコでもジャーナリストやNAACP(全米黒人地位向上協会)などが、上映禁止を求める大規模なキャンペーンを展開し、当時の市長や監督委員会は映画の禁止を試みましたが、成功しませんでした。カリフォルニア州では1921年に一度上映が取り下げられましたが、1930年に再び上映 され、当時の人種隔離的な社会情勢を象徴する出来事となりました
ヨーコの暮らした1930年のサンフランシスコにおけるジム・クロウは、「地図上の境界線」や「契約書の特約」という見えない網によって、黒人を含む有色人種を社会の辺縁に縛り付ける、非常に現代的で逃げ場のない構造を持っていました。「自由州」で進歩的という評判の影で着実に人々の権利と自由を制限していたのです。
サンフランシスコ公立学校の1920年代
サンフランシスコの公立学校は1920年から1930年にかけての10年間に50校舎が建設されるという、急速なスピードで近代化が進んだ「黄金の10年」として位置づけられています。
1930年はサンフランシスコ公立学校制度の創設から80周年にあたりますが、1920年から1930年の10年間で行われた恒久的な教育施設の建設は、それ以前の70年間のどの時期よりも大規模なものでした。この期間に、当時の全校舎の半数に相当する校舎が新設または改築されました。
1. 急激な人口増加への対応
この大規模な建設の背景には、記録的な児童数の増加がありました。
児童数の急増: 1920年から1930年の間に、サンフランシスコの学校人口は25,440人増加しました。
市西部の開発: ツインピークス・トンネルの開通などにより市西部の居住区が拡大したため、1926年にはウェスト・ポータル小学校などの進歩的なモデル校が新設されました。
2. 「木造」から「鉄筋コンクリート」への近代化
1906年の大震災で40校舎が焼失した教訓もあり、都市の復興と並行して、この時期の建設は安全性と恒久性が重視されました。
構造の刷新: 新校舎は鉄骨、石、コンクリートで造られ、全米でも最高水準の教育施設と見なされていました。
教育制度の改革: 校舎建設と並行して、1922年には正式に「ジュニア・ハイ・スクール(中学校)」が組織され、6-3-3制への移行していきました。新校舎は新たな教育制度を受け入れるための基盤ともなりました。
3. 歴史的な影:人種隔離の固定化
一方で、この時期の校舎建設は後年の法的論争の対象となりました。
意図的な配置: 1971年のジョンソン判決(サンフランシスコ統一学区が憲法に違反する意図的な人種隔離を継続してきたと認める)では、1920年代から30年代にかけての新校舎の建設や増築の場所が、当時の人種別居住区(レッドライニング)と結びついていたことが指摘されました。
隔離の維持: 特定の人種が集中する地域に校舎を建てることで、結果として「事実上の隔離(de jure segregation)」を維持・強化する装置として機能してしまったという歴史的側面も持っています。
このように、1920年代の50校舎建設は、サンフランシスコが「教育の質と安全性」において全米のリーダーとなるための輝かしい前進であったと同時に、1906年の大震災からの復興してきた都市計画と連動して社会的な境界線を固定化してしまったという複雑な歴史的意味を持ち合わせています。

San Francisco public schools : report of the Superintendent 1930
https://archive.org/details/sanfranciscopubl1930sanf
サンフランシスコ公立学校年次報告書(1930年)に1920年代の50校舎建設のマップを見つけることができます。そこにはヨーコが通ったエマーソン・スクール(赤丸・赤四角部分、筆者追記)も含まれています。
ヨーコが通ったエマーソン・スクール
エマーソン校は、サンフランシスコのウェスタン・アディション地区、スコット通りとディビサデロ通りの間のパイン街に位置していました。創立は1860年と古く、1923年から1926年にかけて、鉄筋コンクリート構造およびスタッコ(化粧漆喰)仕上げの近代的な校舎が建設されました。

Outside Lands, July-September 2018: Volume 14, number 3
エマーソン校の1930年の様子がわかる邦字新聞の記事があります。当時の校長に日本児童の印象や家庭への希望をインタビューしたものです。
当時のエマーソン校には770名の学生が在籍し、うち200名が日本人・日系人でした。イタリア、フランス、スパニッシュという多様な出自の児童が多くいたということですが、日本人の割合は多い学校だったと言えるでしょう。日本人町近くの学校ですから、周辺の住宅の人種の傾向を反映しているともいえます。また日本語学校である金門学園とも連携をとっており、母の会(PTA)への参加を呼びかけています。
校長先生は「日本児童は勤勉でよろしいが、同時に健康のためにも休養をしっかりとるように」とも伝えています。

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19301007-01.1.4
日本児童に休息を与えよ
エマーソン校長ジュリア・コッフィー女史談
…エマーソン校の創立は1863年です。そして現在のパイン街に新校舎を建てたのは1923年ですから今から7年前になるでしょう。現に生徒は総数770名、組を全部で6つに分ち、その中一つは幼稚部になっています。この6つの組が23の教室に収容されていますが、私共の学校の教授方針としては個性の教育に主を置いていますから一教室の中でも上中下に分けて居ります。同じ年齢の子でも智能に特に秀でたものもあれば、幾ら進級させようとしても思う様に進まない者も居ります。また各国の児童を取扱うので、英語が出来ない者もいという訳で、そうした者には特に同種の者を一所にして特別教授をする様にしています…
日本の子供さんは約200人居ります。日本児童として特に異った点として申上げる程のこともありません。何故ならば殆んど全校の三分の一にも相当する日本児童を収容しているこの学校では特にこれぞと感ずる点は見出せないのです。私自身も日本人同様の気がしますから。またイタリア、フランス、スパニシュという具合に多数の異国の児童が混合しているものですから 、目に立って、これはどうといふことは言えないのです。これが千人の白人児童の中に十人の日本生徒がいるといふのでしたら特にどうということも申上げられると思いますが、ここでは日本人だけに特にという点は見出しません。
松隈家にのこるエマーソン校のクラス写真

ヨーコが2年生の時のエマーソン校のクラス写真です。アジア系の少年少女たちはおそらくほとんどが日本人なのでしょう。クラスの三分の一程度が日本人というのは学校全体の人種構成と同じです。アフリカ系の少年の姿も確認できます。

「はじめまして、ヨーコの日記です」で掲載した写真もエマーソン校2年生の時のものです。こちら写真ではアフリカ系の少年少女を何人か見つけることができます。

そしてヨーコが3年生の時の写真で「Topic 23: 児童書「ピーターとポリー」と学用品のタブレット」で掲載したものです。やはり、全体としてアジア系は三分の一程度、アフリカ系の生徒は在籍があっても割合は少なかったようです。
なぜジャンプ・ジム・クロウが1930年のサンフランシスコの小学校で踊られたのか?
1930年のサンフランシスコでは、都市計画の名の下に人種によって居住地を固定化させました。そして住所に基づいた学区制を設けることで、意図的に教育現場に人種隔離の状況を作り出したとされていたことがわかりました。
ヨーコが通ったエマーソン校もそのようにして生まれた日系人多く集まる小学校でした。そこにはイタリア、フランス、スペイン、アフリカ系の移民の子供たちもいました。逆を言えば、ここで見えてくるのは、いわゆる「アングロ・サクソン系」はエマーソン校にはいなかったのではないかということです。
そして、日記に書かれたことの事実に立ち戻ります。
言ってしまえば、エマーソン校はむしろ差別されていた有色人種を囲い込んでいた側です。そこで人種隔離法の象徴でもある「ジャンプ・ジム・クロウ」をフォークダンスで踊ることの意味とは何だったのでしょうか。特に「ジム・クロウ」はアフリカ系の人々を揶揄し侮辱するものです。
反「ジム・クロウ」を意図した人権教育として学んだのだ、と思いたいのですがそれはあくまでも希望的推測です。これまでに執筆者が見てきた資料からは、この問いに正確に答えることはできません。
戦後、日系人が去ったエマーソン校
日本人町が広がったウェスト・アディンションは、第二次世界大戦中、日系人の強制収容により空き地化し荒廃していきましたが、替わりにアフリカ系アメリカ人が移り住むことになりました。結果としてエマーソン校の生徒のほとんどはアフリカ系アメリカ人となりました。
1947年、エマーソン校にウィリアム・L・コブ博士が校長に就任しました。彼はサンフランシスコ統一学区において、初のアフリカ系アメリカ人校長という歴史的な存在でした。コブ博士は「教育を通じて不寛容を打破できる」という信念を持ち、人種統合(インテグレーション)に向けた道を切り開くために尽力した人物でした。1960年代後半、エマーソン校は深刻な人種隔離の状態にありました。1969年の統計では、児童の88.0%が黒人であり、市内で「黒人校」として識別される27校の一つとなっていました。1971年のジョンソン裁判でもコブ博士は原告と共にサンフランシスコ学区内の人種隔離状態を訴えました。
1976年にコブ博士が亡くなった後、彼が生涯をかけて取り組んだ教育の平等と人種統合への貢献を永遠に記憶するため、エマーソン校はウィリアム・コブ小学校へと改称されました。そして現在も存続しています。

何者かを傷つけ侮蔑する言葉やイメージを無自覚でも使ってしまうことは、とても悲しいことです。そのようなことに直面した時、無知であった自分を反省し、その言葉やイメージがもたらした痛みや苦しみを理解することが大切です。学び知っていくことを続けていきたいと思います。
参考リソース:
トップ画像はスミソニアン協会国立肖像画美術館所蔵「Mr. T. Rice as the Original Jim Crow ジム・クロウの元祖、T・ライス氏」
ジム・クロウ博物館は、不寛容に関する記録を収集・研究・公開しており、アメリカで最大規模のコレクションを有する。ジム・クロウ法と慣習が及ぼした恐ろしい影響を、文脈に沿って解説している。博物館はミシガン州ビッグラピッズのフェリス州立大学のキャンパス内にある。
ジム・クロウ法の西:カリフォルニアの人種差別に対する闘い, リン・M・ハドソン著, イリノイ大学出版局, 2020
サンフランシスコにおけるアフリカ系アメリカ人の居住分離の歴史を詳述した記事
1971年のジョンソン対サンフランシスコ統一学区裁判において、米国地方裁判所が下した判決文
https://law.justia.com/cases/federal/district-courts/FSupp/339/1315/1460757/
1930年代初頭のサンフランシスコ公立学校における教育行政、施設拡充、および教育課程の革新を記録した年次報告書
サンフランシスコの教育界における人種差別の撤廃に生涯を捧げた先駆者、ウィリアム・コブ博士の足跡を辿る伝記的な記録
