断片III 「現実」への姿勢
透谷には「一夕観」という文章があります。死ぬ直前の透谷が、 恐らく療養の目的もあって、自分の故郷に程近い、先祖の菩提寺の 寓居(国府津前川)にて書いた文章の一つです。 そこで透谷は目前に広がる、人間の秩序を超えた現実である 太平洋の海原を眺めつつ、ホメロスやプラトン、シェイクスピア、 バイロン、ヴォルテールといった固有名を呼び出し、人間の心「を」 創りだした世界と人間の心「が」創り出した世界を往還します。
自分がその中で如何に卑小な存在であるかを認識し、人間の営為と いうのが人間を生み出した世界の中のほんの一部に過ぎないことを 認識しつつ、だけれども、人間が生み出した観念の世界というのは 人間なしでは決して生まれなかったもので、それはそれで書物と いうかたちで個人を超えて歴史を形成していくもので、 決して無ではなく、それもまた現実の宇宙の秩序の一部であると いった認識が語られます。
彼はその一部であることを認識し、多分、この文章の外で、後で、 もう一度、自分の卑小と無力に打ちのめされるのだろうと思います。 彼はその後、東京に戻って程なくして自殺を試み、一命を取り留め ますが、その後は筆を取ることなく、半年後に縊死して生を 終えます。私はその無力感、挫折して何事も達成できない敗北者である という彼の自己認識自体を、心砕かれたものの誠実さとして受け止め、 彼の心の声を聴き取り、そしてそれに応答すべきなのではないかと 思い始めています。
明治時代のこの頃、言文一致とともに、 内面の発見があり、それと同時に風景が発見された、という言われ方を 良くするけれど、内面というものが指している実質は、彼が文語体で しか評論を書けかなったことが端的に告げているように、透谷の場合に ついて言えば実は孤立したものであり、同時代の他のそれとは 随分と異なったものであろうように思えます。ただしそれは、 彼が言文一致の手前に留まったから、彼は内面を発見できなかったし、 風景も発見できなかった、ということではないのではないか。 自然主義に繋がっていくもう一つの契機として、キリスト教的な「告白」の スタイルの受容がありますが、こちらについても同様です。 寧ろ彼は、内面と風景という図式が成立してしまった後には見えにくく なってしまったもの、にも関わらず、実際には見えなくなったわけではない ものを捉えていたが故に、今日に至るまで脈々と読まれ続けてきたのだと 思います。
確実に言いうることは、言文一致の模索が行われた時期に生きた透谷に とって、文体の模索というのは非常にクリティカルな事柄であったこと、 彼にとっては、言語が不透明で他者性を帯びたものであったように、 内面というのも(それが自己のものであれ)同様に、不透明で他者性を 帯びたものであったということでしょう。
彼の観念の世界は、 幽霊やら鬼が住む異界でもあって、恋愛についても、それは まさに「牢獄」であり、欲望との関連や、それが持つ自己破壊的な 側面に対してさえも意識的であり、しかもそれが 単なる理論ではなく、彼の生そのものであったことを総体として 引き受けるという作業は、汗牛充棟の感のある透谷研究の中でも 十全な形で為されているようには思えません。それゆえ、三輪眞弘さんの 『言葉の影、またはアレルヤ』がもう一度書かれるのであれば、 透谷のために書かれてもいいのではないかと感じています。
思うに、言葉は「現実」と呼ばれるもの自体を作り上げる 素材でもあり、「現実」の一部でもあるはずです。そして 言葉は「自己」の素材でもある。と同時に「現実」から 逸脱することを可能にするものでもある。 そしてその点では、俳句も詩も散文も変わるところはないと 思います。ただし、具体的な様相は、その形式的条件で 大きく変わってくる。寧ろ形式的条件が、「現実」との 離れ方を決めてしまう大きなファクターなのではないかと 思います。だからこそ、詩というものにおいて形式を獲得する という側面が重要なのだと思います。
透谷は形式の獲得への努力という点においてユニークだと 思います。謡曲や浄瑠璃の影響があからさまな、劇とも 叙事詩ともつかない作品、小説ともエッセイとも、散文詩とも つかない作品、伝統的な定型から逸脱しつつある短詩型、、、 評論でさえ、その言葉の持つ律動は、寧ろ詩に近づく瞬間が あります。恐らくは時代の制約もあって、形式の獲得の観点、 ゴールに到達できたかという観点からすれば、透谷は常に 破綻して、失敗し続け、何一つ達成できなかったし、彼自身、 それを自覚していて、ひどく苦しんだように見えるけれども。
それでもなお、透谷の文章を読むとき、読み手はその律動と音調に、 かつてこの世に存在した一人の人間の精神を 非常に身近に感じます。まるで自分の中に転移したかのように。 通常は音楽において起きるような、自分の中に他者の リズムを引き込むことが、こと私について言えば、透谷の文章の場合に 起きるのです。
「造化(ネイチュアnatureと透谷はルビを振っています)は 人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す」
という透谷の 「内部生命論」の中の言葉は、一方でキリスト教的な信仰の 立場からの逸脱として、他方では、近代の啓蒙主義的な 人間中心主義として批判を浴びるけれども、私からすれば、彼を 批判する立場の人間は、では一体どれだけ人間としての責任を 引き受けているのか、と問いたくなってしまう。透谷の言葉には、 それに賭した彼の生の重みと、「現実」の中で翻弄されている 最中で発せられた切迫を感じるし、私には寧ろ人間の「責任」を 引き受けた言葉と感じられます。 おまけに彼の言う「造化」というのは、彼の「自己」を内側から 脅かす、無意識的な欲望をも含んでいて、それゆえに彼の 「他界の観念」もまた、単なる現実から遊離、観念の 世界への逃避・自閉などではなく、彼が、寧ろ「自己」こそが 「牢獄」であるといった認識すらもっていたことを踏まえて 考えるべきだと思います。
言葉により構築される世界、観念の世界を構築することは、 「現実」から遊離するのみならず、「現実」を変容させる 可能性を秘めた「行為」であるべきで、同時にそれは「自己」 からの(自己のままでは不可能な)脱出を実現する手段なの だけれども、単に「自己」を言葉の自律的な流れに委ね、 漂流するのではなく、それがたとえかつて一度も生起した ものでないとしても、あたかもかつて生起したもので あるかの如く、記憶に留め、他者へと贈与するような、 言いかえれば「意味」を産出するような「行為」ではなくては ならないのではないかと考えます。つまるところ、それは ヴァーチャルな世界の構築に他ならず、そうすることによって 「現実」を豊饒にし、「現実」に価値を与えるものなのだと 思います。そしてそれは「自己」の手前ないし彼方(自己の 深奥でもあり内部に穿たれた外部でもあるでしょう)に 向けて自己を滅することによって自己を超越することに他ならない。
透谷は現実との違和を抱えていて、 「人生に相渉るとは何の謂ぞ」にあるように、実用主義的な 文学観とは対立しているし、大量消費に向くような娯楽を 提供しないという点では芸術至上主義者と共通しているのかも 知れないけれど、決定的に違うのは、個の限界を超えるような イデアルなものへの志向の有無なのだろうと思います。
透谷は芸術至上主義者ではあろうけれど、それが「現実」に 接するときに何が生じるかに対して充分に意識的、批判的 だったし、その上に居直ることはしなかったし、 その認識の上で、自分が探りあてようとしたものの意義に 賭け、殉じたのであって、そこには自己中毒は感じません。
もっと純粋な詩人はいるだろうし、優れた詩、完成度の高い詩を 書いた詩人がたくさんいるのを認めた上で、従って、 例えば浪漫主義、芸術至上主義の価値基準からすると今度は 却って不完全で不徹底の謗りを受けるであろうことは認めた上で、 それらよりも透谷を擁護したいと感じているということです。 彼が「現実」の上で失敗者、敗残者であったことは、 彼が詩作を絶対視したこととイコールではない。 彼にはそれに加えて、或る種のモラリッシュなドライヴ (それは「現実」の社会の規範とは別のものです)が あって、そこがポイントなのだと思うし、だからこそ 彼を擁護すべきなのだと思っているのです。
文章を書いたり、詩作を したり、歌を、句を詠むのは確かに「行為」ではあるけれど、 その「行為」としての価値を定めるのは、その結果として個を 超えた何かが生じるかどうかで測られるべきで、その行為自体に 「現実」に優越する絶対的な価値を置くことは、自家中毒的な 倒錯ではないかということです。そして、結果を担保するものは 自分の中にはないが故に、その行為の価値を公的な権威による 評価によって測るような馬鹿げた価値の転倒・倒錯もまた 生じてしまうことがある。俳壇・歌壇・文壇といった「現実」もまた そうした倒錯を産み出す社会的な装置として機能してしまいうる。 でも、価値は本当は全く別のところにあるのだと思います。
(2017.8.10 公開, 2024.6.29 noteにて公開)
