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断片XIV 「自然」への反逆

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 「いのちの無目的性」を賞揚することへのあなたの疑念については、 私個人の立場は明確で、なおかつ、あなたがお書きになられた意見に賛成です。 以下、私なりに敷衍してみます。

 例えば進化というのは無目的なもので、「このようにいまある」のは そういう意味では偶然の産物です。一方で人間は目的論的思考をしてしまうように 方向づけられているので、ついつい無目的なものに目的を投射してしまうのは 確かで、そのために間違った認識を持ってしまうこともあると思います。

 これは寧ろ文化的なものであるというべきだろう、つまりヒトという種というよりは、 その中であるタイプの意識の持ち方を社会的に強化してきた文明に固有のもの だろうけれど、でも全く生物学的基盤を持たないわけでは勿論ありません。 しかもそうした基盤の上で目的論的思考をするといった方向性を 強化するような方向づけというのは、最初は偶然に出現してきたものであっても、 生物の進化とは異なって、世代間、個体間での形質の継承といったものを するようになったことで、自然には起こりえない程度にまで加速されました。 繰り返しになりますが、それは生物としてのヒト固有と いうよりは、我々の様な意識を備え、生後の学習により強化するタイプの 文明に生きる「人間」に特有のもの(ただし、唯一のものであるとは言えない、 同じようなことを可能とする文明が存在する可能性は否定できないでしょうから) であるのは間違いなく、ただその中で育つ個体にしてみれば、それは自分が 必ずしも能動的・自覚的に選択するわけではなく、その中に初めから埋め込まれ、 更に学習により訓練されているわけです。

 だけれども一方で、目的論的な認識を無目的なものに適用する誤謬を犯すこと自体、 「人間」の特性であるという見方もできるでしょう。目的論的思考ができるために 必要なメカニズムは必ずしもヒトだけが備えているわけじゃないかもしれなくて、 だから「人間」を、更に生物種としてのヒトを無条件で特別視するのは間違いでしょうが、 それはどちらかというと権利問題に近くて、事実として、現在のこの地球には、「人間」 以外に「人間」のようなレベルで目的論的思考をし、自分を生み出した「自然」を、 これまた「人間」してきたような、これからもしていうようなスケールで改変さえする (改変には勿論、破壊的なものも含み得ます)種がいるわけではないことを認めないのもまた、 公平な見方ではないでしょう。

 同様に、意識を持つ、道具を作る、コミュニケーションをする、助け合うといった、 「人間的」とみなされがちな様々な特性は、その一つ一つをとってみれば、全て他の生物と 程度の差はあれ共有しているもので、だから、そうした特性を備えていることを以って、 人間が他の生物とは全く違う存在であるという見方(これは欧米では未だ根強いものが あるようですが)は端的に間違っている。人間は進化したサルには違いないのです。

 だけれどもその一方で、農業の改良の果てに遺伝子組み換えまでやり、水力や化石燃料のみ ならず、放射性物質さえ集めてきて電力を得るのに用いたり、あるいは同じ種の異なる 社会集団を殺傷するための兵器を作ったり、自然には存在しない物質を合成し、 それで道具を作り、薬を作り、農薬を作り、といったことをするのは事実上「人間」だけです。

 そうした文明の中に居るある個人が、そうしたこれまで人間の集団がしてきた営為を否定し、 いわゆる「文明」を拒絶するのは、個人の選択としては構わないし、勝手にやればいい。 だけれどもそれを押し付けるのはおかしいし、それで問題が解決するわけでもない、 その問題は回避しますと言い、そうした回避を他人に勧めているだけだと思います。 もちろん、それが間違っているということではなく、そうした態度はそれ自体、 為し得る選択肢の中の一つの極めて狭い選択に過ぎず、それが他に無条件で優越すると 主張することなどできないだろうし、のみならず、そうした主張は、いわば野党の主張、 目先の解決しないといけない問題への対処は、更には、そうした主張を可能にしている 前提条件の維持は、自分でない誰かがやってくれるだろうということを暗黙裡に 前提としてしまっている点が問題だと思うのです。

 そもそも「無目的」自体、ある種の観念であり、抽象の産物で、それを「選択」すること自体、 「人間」でなきゃできないのに、「無目的」を賞揚する人は、それに気づかないのでしょうか? 更に言えば、賞揚されるところの無目的で盲目のメカニズムが、「人間的」な感情からいけば、 有限の生命に限界づけられた個体、おまけにそれを自覚する意識まで植えつけられてしまっている 「人間」の個体にとって、どんなに残酷で無慈悲なものと感じられる様々な暴力となるかに ついての想像力が欠落しているのではないだろうかと疑いたくなりさえします。

 ちなみにこうした「無目的」のあまりに粗雑な賞揚の論理を見ると、「無秩序」という 言葉に関して、ランダムネスと複雑性を混同した粗雑な議論が行われることとの 類似性を感じます。完全な秩序でもランダムネスでもない複雑さが問題であるのと 同様、目的論的発想の濫用でも、無目的性への安易な回帰でもない方向性こそ 考えなくてはならないのではないかと思えます。あるいは東日本大震災後にしばしば みかけた「頑張るからいけない」「頑張ってはいけない」式の主張と類似のものを、 「無目的」の肯定に感じずにはいられません。

 例えば電力なしでやれるのか、医療なしでやれるのか、工業システムが生産・維持する ような道具なしでやれるのか、そうした自分を取り囲む「世界」の構造に思いを致すことなく、 無目的を賞揚し、答はそこにあるのであって、探すからいけない式の言い方をするのは、 ある意味で「持てる者の理屈」だと思います。印刷術を背景とした書物もしかり、情報伝達の 技術もしかり、意識を持ち、目的論的な発想をし、災害や病に対抗してきた何世代にも わたる営み(勿論、それは地質学的・進化生物学的時間からすれば一瞬であることも また忘れてはならないけれど)の上に立って、その恩恵に何重にも取り囲まれたうえで、 俺は無目的でいいんだ、今を生きることが答えだ、問う必要なんてないんだ、 というのは、何と虫のいい夜郎自大だろうか。

 勿論、目的を持ち、「自然」には存在しない価値を信じ、あるいは信じることを強いられ、 国家や宗教のために人を殺し、あるいはそのための道具として個体としての生命を犠牲に することを強いられ、または自発的にそう考えるように学習させられることで、「人間」は、 そうしたものがなければ無しで済ませられたかも知れない、これも数限りない愚行の 歴史を積み上げてきたという側面もまた、否定できません。だけれども、そうした側面と戦い、 そうした愚行を防ぐのは、決して無目的に逃げ込むことによってではない。対立軸を目的と 無目的に置くのは見当違いであって、目的には目的をもって戦うしかないのだし、 目的論的構造の背後に潜む「無目的性」に対して抵抗することこそが問題なのだと私は思います。

 助け合い、相手の立場を認め、といった行動は「人間」だけのものではない、 だから「人間」をそれでもって特権的に考えることはないけれど、 そうした行動を持っている生物は、目的をもった行動の少なくとも 萌芽を持っていると考えるべきです。更に人間の場合には、 量が質に転換するようなかたちで、目的論的な思考とそれに基づく行動を事実して いるわけだから、そこから逃げ出そうなんて考えるのではなく、 その中で、うまくやっていこう、目的をもった行動は、まかり間違えば、無目的な試行錯誤よりも、 失敗した時の危険が大きいのは確かだから、それを踏まえた上で破局を回避し、うまくやるように しようとすべきなのだと思います。

 それは今を未来のための手段として犠牲にすることでは、必ずしもない。 寧ろ、今を肯定しそれを維持し続けようとするところから、未来を予測し、 リスクを測定し、減らすための対策を講じるという発想が出てくるのであって、 実際には無目的に今を肯定することは、一旦その今の安楽が危機に瀕すれば、 自分が批判している筈の思考へと簡単に転化しうるし、実は秘かな共犯関係に あるのではないでしょうか?そしてそうした姿勢が、事後的に、カタストロフが 「予測不能」だったという言い訳に繋がるのではないか。そうではなく、 今を肯定することではなく、寧ろ逆に、未来を今の延長ではないものとして 認識することが必要なのではないかと思います。破局を回避するのは、 破局から目を逸らすことでは決して可能にはなりえない。そしてここに 「無目的性」の賞揚の出る余地はない。進化の偶然がもたらした能力すら 行使することを拒否すれば、暴力に満ちた自然や社会の中で、為すすべもなく 滅び去ってしまうことになります。でも「生きる事の無目的性」とやらを 賞揚する人たちには、こうした側面に対する意識は恐らく全く欠如しているに 違いないと思います。原発事故に対する解決は、あたかも言葉の力だけで原発の 存在を消去できると思っているかの如くの、恰も既に存在しているものを 初めからなかったかの如くに扱えると考えているとしか思えないような 単純な否定の中には存在しません。引き返せばいいというのは、 現場にいないから言える、当事者の置かれた状況に対する想像力の 欠落の産物であるようにしか私には思えません。 そうした「正論」が、しばしば火中の栗を拾う勇気を持った人を批判し、 否定しさえする光景は、しかしながら何と既視感に満ちたものであることでしょう。 でも実際には、現実はそうした火中の栗をあえて拾うことを引き受けた人の犠牲に よって成り立っているのであって、口先で絵に描いたような理想を述べ、 きれいごとを言う人間によってでは決してありません。


 あなたが提起してくださった問題は、それこそ、「人間」の宿命、 無目的で盲目の試行錯誤しかない世界に対して、目的をもって 「反逆」をすることを宿命づけられた人間の宿命という、 時代を超えた問題を照らし出すように思えます。 そして私は、この点においても透谷は時代を超えて、そうした 構造を見抜いた先蹤であるという思いを強くしているのです。 実際に具体的な共通性の指摘も、この前「洪水」誌に寄稿した文章では 試みましたが、透谷の問題意識は現在のわれわれのそれと同じなのだと思います。 しかもそれは偶然などではなく、彼の問題意識が非常に根本的な、「人間」の 基礎的な構造レベルのものであるが故で、彼と我々は精神的・文化的な構造と いう側面では「同じエポック」に生きる同時代人だからなのだと思います。

 別になんでも透谷に引きつけようというわけではありませんが、 透谷は、一方でまさに「無目的性」の別の一面に他ならない国家とか社会制度の持つ 暴力もわかっていたし、他方で人間の内面というものの方も、それ自体病み、 暴走しかねない厄介なものであることを自覚しつつ、造化に支配されつつ造化を 支配するという人間の宿命に、希望をも感じ取っていたのだと思います。 なおかつ、そうした発想は、「文学」を始めとする「芸術」に存在理由を認め、 その自律性を守ろうとする姿勢に本質的に繋がっていると思います。

 無目的な現状肯定が、社会的な弱肉強食を是認する当時流行の俗流社会的進化論に 繋がり、人間による人間の搾取を肯定するロジックとなることを感じ取り、 勿論、答を見つけられたわけではなくても、それに抵抗して、そうじゃない 選択をしなくてはならないと透谷は考えたわけだし、彼が空の空を撃つことを 文学の目的として、安直な効用重視を拒絶したのは、一見したところとは異なって、 あなたが疑義を示された「無目的」の顕揚とは正反対の立場であって、 問うからいけないのだ、答はすでにそこにあるのだなどと逆説を振り回してみせるのではなく、 簡単には見つからない、というかおそらくは都度、よりましといったレベルの選択の 果てしない繰り返しなのかもしれなくても、都度、誠実によりより答えを求める、 それも目先の利益のためではなく、より高い目的のための答えを求めるという 透谷の立場に由来するものであったと私は理解しています。 時間論的に見ても、透谷は一見極端な未来志向を打ち出しているけれど、 それは未来を、予測不能なもの、カタストロフィックな変化も含みうる ものとして認識していたことを示していると私には思えます。

 「無目的な自然」に対する「反逆」を非常に端的に、その文章のみならず、 行動も含めた生全体によって示したのが透谷なんだと思います。一見すると 繋がりが稀薄に見える透谷の平和運動へのコミットメントさえ、民権運動への共感や、 文学に対するコミットメントと同様に、「無目的な自然」への意識を持たされた 有限な生命に限界づけられた個体の「反逆」の論理として一貫したものだと私は思います。

 他方、そうした「反逆」として彼の自殺を考えることも出来るのかも知れないとも思います。 すくなくともそれを敗北と決め付けるのはあまりに短絡的だし、勿論、事実問題としての 「何故」に対する答えにはなりようがないけれど、同じエポックに属し、 同じ宿命に晒されている我々にとって、透谷の生き様は、無目的に抗して、 自然に抗して、自分の中に抱えこんだ反自然との折り合いをつけて 生き続けることがどんなに難しいかを示しているし、だからこそ透谷のことを 自分の代わりに犠牲になったと感じる人々が数多くいるのではないかと 思えるのです。

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(2015/8/2 8:21公開. 2024.10.16 noteにて公開)

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