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タイタン――オレンジ色の霧の向こう(28):第9章:タイタン音楽の可能性(2)

(承前)

9.3. タイタン音楽とは何か——問いの輪郭

ここに至って、問いを正面から立てることができる。タイタン音楽とは何か。

まず確認しなければならないのは、この問いが「タイタンを題材にした音楽」を意味しないということである。天体を題材とした音楽は、これまでも存在してきた。グスターヴ・ホルストの「惑星」は最も有名な例だが、それは惑星の物理的実体を描写したのではなく、各惑星に付与された占星術的性格を音楽的に表現したものだった。ホルストの「惑星」とは異なって、実在の衛星に取材した作品として、オーストラリアの作曲家Amanda Lee Falkenberg がアメリカ航空宇宙局NASAの研究者や技術者、宇宙飛行士らとも議論を重ねて進められたプロジェクトにより作曲した The Moons Symphony という合唱つき管弦楽作品がある。7楽章のそれぞれが、イオ、エウロパ、タイタン、エンケラドス、ミランダ、ガニメデ、月という実在の衛星を取り上げており、それぞれの特徴に因んだ歌詞が歌われるとはいえ、タイタンを題材にした歌詞を伴う音楽に過ぎず、音楽自体は実在の天体の特徴を表現したものとは言い難い。

同様に、「タイタンを舞台にした物語の音楽」もここで問われていることではない。SF映画の劇伴や、タイタンを舞台にしたオペラといった可能性は、あくまでも人間の物語の枠組みの中でタイタンを利用するものであり、タイタンの非人間的な秩序そのものに向き合うものではない。しかし実際にはこのタイプの作品ですら実作例というのは管見では見当たらない。強いて言うならば、既述のFalkenberg の The Moons Symphony は、タイタンを題材にした音楽というよりはタイタンを紹介する映像のBGMに相応しいようなものかも知れないが。

その一方で、タイタンを「神話的な巨人」や「宇宙的な謎」として描く音楽は可能であろう。しかしそれは、記号としてのタイタンを題材にした音楽であって、タイタンという天体の固有のあり方に応答した音楽ではない。ちなみにマーラーの第1交響曲は、その初期稿である二部よりなる交響詩の稿態のある時期に「巨人」というタイトルを持っていたが、これはしばしば誤解されるように「神話的な巨人」の意味ではなく、直接にはジャン・パウルの小説『巨人』に由来するものである。第1章で述べた命名の経緯(ジョン・ハーシェルによって19世紀になって命名されたこと)を踏まえれば、ジャン・パウルがしばしばその作品に天体に因むタイトルを付けたとはいえ、ここでの「巨人」は土星の衛星タイタンのことを指しているということは実証的にはあり得ない。従ってジャン・パウルがこのタイトルに関して「神話的な巨人」という含意を持たせていたとして、更にマーラーもまたそうしたイメージを抱いていたとしても、マーラーの音楽が土星の衛星タイタンを「神話的な巨人」として描いたということもまたあり得ないだろう。
では「タイタン音楽」とは何か。それは、タイタンの固有の物理的・化学的・時間的条件に対して、音楽という媒体が正面から応答しようとするとき、いかなる可能性と不可能性が現れるかという問いである。具体的には、以下の条件が問われる。

第一に、タイタンの時間スケール。タイタンの「日」は15.95地球日、タイタンの「年」は29.5地球年、タイタンのメタン循環の一サイクルは地球年で数十年以上。これらの時間は、人間の知覚可能な時間と根本的に異なっている。人間が知覚できる音のリズムは、おおよそ毎秒0.5回から10回(つまり0.1秒から2秒の周期)の範囲である。その外側は、もはやリズムではなくテンポになり、さらに外側はフォルムになる。タイタンの時間スケールは、そのすべての外側にある。

第二に、タイタンの音響環境。タイタンには大気があり、音は伝播する。ホイヘンス探査機は直接にタイタンの音を録音したわけではないが、センサーの記録に基づいた音響の再構成は行われていて、聴こえたかも知れない「音」を確かめることはできる。大気の密度は地球より高く、音速は地球より低い(約180m/s、地球では約340m/s)。同じ周波数の音は、タイタンではより「重く」「低く」感じられるだろう。しかし、より根本的な問いとして——誰がその音を聴くのか。タイタンには聴き手がいない。音楽は、聴き手なしに存在しうるのか。

第三に、タイタンの秩序。タイタンには独自の秩序がある。メタンの蒸発と降雨のリズム、砂丘を形成する風のパターン、北極の海の季節的変動——これらは人間が作り出したものではない、タイタン固有の動的な均衡である。この秩序は音楽的か。より正確には、この秩序は音楽によって「翻訳」可能か。

9.4. 三輪眞弘の音楽——「ありえたかもしれない〈音楽〉」

現代の作曲家のうち、こうした問いに最も根本的に向き合ってきた一人が、三輪眞弘である。

三輪の作品概念の核心にある「ありえたかもしれない〈音楽〉」という考え方は、タイタン音楽の問いと深く共鳴する。三輪が問うのは、人間が実際に作ってきた音楽の歴史の外側に、どのような「音楽の可能性」が存在しうるかということである。それは単なる「まだ作られていない音楽」ではない。人間の歴史的・文化的条件が異なっていたなら、あるいは人間という生物の認知的構造が異なっていたなら、いかなる音楽が「ありえたか」という問いである。
三輪が「アルゴリズミック・コンポジション」と呼ぶアプローチは、この問いに対する一つの実践的応答である。アルゴリズムによる音楽生成は、作曲者の主観的意図と感情的判断を、数学的手続きへと置き換えることを試みる。それは完全に非人間的であることはできない——アルゴリズムを設計するのは人間であり、その設計には人間的判断が介在する。しかしそれは、音楽の生成プロセスから「主観の主体」をある程度退かせることを可能にする。
三輪の作品において試みられているのは、こうした「主観の後退」の実装である。特定の文化的規範に縛られた「美的判断」ではなく、規則の実行によって生成される音の連なり。それは「音楽らしくない」かもしれない。しかしそれは、「音楽らしさ」という概念そのものが、いかに特定の人間的条件に依存しているかを照射する。

この実践は、タイタン音楽の問いと交差する。タイタンの秩序は、人間の主観が作り出したものではない。それは独自のアルゴリズムに従って動いている——メタンの蒸発と凝結、砂の輸送、大気の循環。三輪が音楽において試みていることは、この種の「非人間的生成」を音楽的手続きの内部で実装しようとすることと、構造的な類似を持っている。
しかし、ここで決定的な問いが生じる。三輪の音楽は、あくまでも人間が聴くものとして作られている。アルゴリズムは非人間的であっても、その音楽が提示される場は人間的である。コンサートホール、スピーカー、聴衆の耳——これらすべては人間の環境である。タイタン音楽が真にタイタンの秩序に応答しようとするなら、それは人間的な聴取の文脈そのものを問い直さなければならないのではないか。

(続く)

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(2026.4.8 noteにて公開)

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