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火星——赤い地平の向こう(44):第9章 火星は響くか——音楽とヴァーチャルな実在(1)

前章まで、私たちは火星を科学的に、そして文学的に辿ってきた。観測史、探査史、物理的性質、進化史、生命論、未来計画、部分同型性、そして想像力の縁。
この章では、問いを音楽へと向ける。
音楽は、火星とどのような関係を持ちうるのか。科学的な火星は、音楽と接続できるのか。そしてもし接続できないとすれば、それは何を意味するのか。
だがその問いに入る前に、遠回りのように見えて実は最も直接的な道を辿ってみたい。宇宙からの視点と音楽という問いは、先例がないわけではない。

9.1 シュトックハウゼンの問い——宇宙から音楽を眺める

宇宙からの視点、展望から人間の営みである音楽を眺めるということは先例がないわけではない。管見でも、例えばマーラーの音楽に関して繰り返しそうしたアプローチが行われている事実があり、そのうちの一つは、シュトックハウゼンが、アンリ・ルイ・ド・ラグランジュのマーラー伝の書評において、「もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはいかないだろう」(酒田健一訳)と述べているものである。
この発言は、19世紀末の西欧の音楽に関して言われたものとしては「突拍子もないような視点」のように感じられるかもしれない。だが最大限批判的に捉えたとしても、こうした視点を採ることによって「音楽」に関して主張される普遍性の危うさを逆説的に浮かび上がらせているということはできるだろう。結局のところ、幾ら背伸びをしたところで「音楽」は「人間」を超えることはないという点においてシュトックハウゼンの発言は幾つかの点で示唆的である。
一つには生物の「高等」さの尺度が「地球人」におかれていること。無いものねだりとは言いながら、例えばスタニスワフ・レムが描き出したようにそもそも地球上の生物とは全く異なる物理化学的・生物学的基盤の上に「知性」(正確には「知的」に見えるもの)が備わっていることだって大いにありうるわけだ。そうであってみれば、そもそも「音楽」というのが件の高等生物にとっては全く理解しがたいもの、何のために存在するものであるかすら分からない音響だということも考えられるし、人間と同じ周波数帯の聴覚を備えていることを期待すべきではないかもしれない。
シュトックハウゼンが考えていることがあまりに「人間」的なものを自明なものと前提した、随分とムシの良い人間中心主義なのは明らかなのだが、彼の「音楽」が暗黙の裡に前提としているものはそれだけではない。彼の発言の意図が別にあることは承知で言えば、もちろん「地球人」をヨーロッパのある時期の、しかもかなり特殊な音楽、たった一人の人間が書いた音楽で代表させることの無謀さは明らかで、そこに西欧の文化帝国主義の無邪気な顕れを見出して呆れる人がいても不思議はない。
かくして異文化理解のようなレベルで議論している分には成立するかに見える普遍性も、一歩外に踏み出せば色褪せてしまうということが、このような「突拍子もないような視点」から浮かび上がってくる。別の星に住む高等生物を持ち出すまでもなく、人工知能研究以後におけるロボットを考えてもいいし、その認知能力が明らかになりつつある別の生物、例えばオウムやインコ、あるいはイルカやクジラを考えても構わない。
勿論シュトックハウゼンは、一方では「人間」が時代とともに変容するものであることに対する認識はあって、「その音楽は、人類が人間を個々の部分に分解し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめようとするまえの、古い、全的な、《一個体》としての人間による最後の音楽である」と述べてはいる。だが寧ろジュリアン・ジェインズが構想したような時間軸での意識の歴史のようなパースペクティブこそ相応しい文脈にも関わらず、こちらは今度はあまりに狭い文脈の議論に飛躍してしまっている。恐らくこの発言で想定されているのは、彼の周辺の「現代音楽」から眺めた展望に過ぎない。
そしてこの問題は、シュトックハウゼンが想定しているよりもずっと近くにある。火星にいる人間——宇宙服を着た人間、あるいは将来的には遺伝子改変によって火星に適応した人間——にとって、地球の音楽はどのように響くだろうか。

9.2 アドルノの視点——宇宙から眺めた地球

同じく宇宙からの視点といえば、アドルノがマーラー論において「大地の歌」に関連して宇宙飛行士が宇宙から眺めた球体としての地球を持ち出した以下の発言も思い起こされる。

「大地とは、この作品にとっては森羅万象ではなく、五十年後に広大なる高度にまで飛び出すことになる人間の経験がはじめて手にするようなもの、すなわち星なのである。地球を離れようとする音楽のまなざしには、この間に宇宙からすでに写真に撮られたように、地球は一目で見渡せる円い球と見える。それは創造の中心ではなく、ちっぽけなもので、はかないものと見えるのである。こうした経験には、人間よりも幸せな生物が住んでいるかもしれない他の惑星へのメランコリックな希望がともにある。けれども、遠くへと去っていった地球には、かつて星たちが約束していた希望は失われている。地球は虚無の銀河系の中へと没滅してゆく。そこでは美は、死にゆく眼が果てしなき空間の雪塊のもとに凍りつくまでその眼を満たしているところの、過ぎ去った希望の反映としてそこにある。そうした美に魅了される瞬間は、魔法を解かれた自然への凋落に対して大胆にも身を張って持ちこたえようとする。どんな形而上学ももはや可能ではないということが、最後の形而上学となる。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳)

アドルノの視点はマーラーの音楽の元々の文脈からすれば「突拍子もないような視点」ということになるのだろうが、更に50年後の時代に生きている人間にとって、それは珍説として脇に押しやるのではなく、寧ろその視点を今、ここの展望に応じて徹底させることによって乗り越えるべきなのである。
ここで重要なのは、シュトックハウゼンの発言もアドルノの発言も、いつの日か、遠い将来のある時点でジュリアン・ジェインズがホメロスの時代の意識の様態を探ったのとパラレルな探査が、マーラーの音楽を素材にして行われたりするのかもしれないように、ある時代の認識の様態を端的に象徴するものとして分析の対象になっても不思議はないという点だ。そしてそれは同時に、音楽もまた時代と場所の産物であるという事実を浮かび上がらせる。
音楽は、地球の大気の中で、地球の重力の下で、人間の身体によって生み出される。この事実は、通常は自明の背景として意識されることがない。だが火星という問いは、その背景を前景へと引き出す。

(続く)

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(2026.4.7 noteにて公開)

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