火星——赤い地平の向こう(31):第7章 部分同型性という構造——火星は地球の他者ではない(1)
これまでの章では、火星の観測史、探査史、物理的性質、進化史、生命論、そして未来計画を辿ってきた。この章では、それらを貫く一つの構造を取り出し、理論的に定式化したい。
その構造を、本書は「部分同型性」と呼んできた。
だがここで改めて問う必要がある。部分同型性とは何か。それは火星の何を言い表しているのか。そしてそれは、音楽や文学や想像力の問いと、どのように接続するのか。
7.1 同型と非同型のあいだ——構造的対応という概念
数学における「同型」(isomorphism)とは、二つの構造の間に完全な対応関係が成り立つことを意味する。同型な二つの構造は、内部的には区別がつかない。一方について成り立つことは、他方についても成り立つ。
しかし現実の世界では、完全な同型はほとんど存在しない。二つの惑星が、物理法則の意味では同じ枠組みの内部にありながら、細部において異なるということは当然起こりうる。
火星と地球の関係は、この「完全な同型ではないが、同じ枠組みの内部にある」という関係である。
火星は、岩石惑星である。コア、マントル、地殻という層構造を持つ。水の痕跡がある。炭素化学が成立している。季節変化がある。太陽光をエネルギー源とする。これらの点で、火星は地球と「同型圏内」にある。
しかし火星は、磁場を失った。大気を失った。水循環を失った。プレートテクトニクスを持たない。生命圏を形成できなかった。これらの点で、火星は地球と「非同型」である。
この関係を、本書は「部分同型性」(partial isomorphism)と呼ぶ。
部分同型性とは、同じ物理法則のもとに形成されながら、ある次元では対応が成り立ち、別の次元では対応が破れるという関係である。
火星は地球と完全には同型でない。しかし地球とは全く無関係でもない。この「あいだ」の関係こそが、火星を思考の対象として特権的な位置に置いている。
7.2 部分同型性の三層構造——何が対応し、何が対応しないか
火星の部分同型性は、三つの層に分けて考えることができる。
(A)物理的同型性——同じ法則の内側
最も基礎的な層である。火星と地球は、同じ物理法則のもとに存在する。重力、電磁気力、熱力学、化学反応。これらはすべて、地球と火星で同じように成立する。
岩石の組成は似ている。鉄、ケイ素、酸素、マグネシウム。これらは地球にも火星にも存在する。水分子(H₂O)は、地球にも火星にも存在する(あるいは存在した)。
この層では、火星は地球と同型である。
(B)時間的非同型性——分岐した軌跡
第二の層は、時間軸上での差異である。
火星と地球は同時に誕生した。しかし質量差により、火星は速く冷えた。磁場を早期に失い、大気を散逸させ、水循環を崩壊させた。
つまり、火星は地球と「同時に始まり、別の時間軸を辿った」のである。
この時間的分岐は、空間的差異ではない。火星が地球から離れているから異なるのではなく、火星が地球とは異なる時間構造を持っているから異なるのだ。
火星の現在は、地球の過去でも未来でもない。火星は、地球と並行して存在しながら、別の時間軸を辿った惑星である。
この時間的非同型性こそが、火星に「古さ」の感覚を与えている。火星の風景に「古い時代の痕跡」を感じるのは、感傷ではない。それは、火星が地球よりも速く老いたという、科学的事実の反映である。
(C)環境的非持続性——安定性の破綻
第三の層は、安定性の問題である。
地球は、複雑なフィードバック系によって環境の安定性を維持してきた。炭素循環、水循環、プレートテクトニクス、磁場。これらが相互に作用し、地球を「生命が持続できる惑星」として維持している。
火星は、この安定性を持つことができなかった。フィードバック系が機能しなかった。気候の安定性が失われた。生命圏が形成されなかった、あるいは形成されたとしても維持されなかった。
この「非持続性」は、単なる機能の欠如ではない。それは、持続しようとしたが持続できなかった、という構造である。
火星は、持続に失敗した惑星である。
(2026.3.25 noteにて公開)
