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火星——赤い地平の向こう(35):第8章 想像力の縁としての火星——科学的火星の文学的反射(1)

前章までで、火星の科学的な姿を描いてきた。観測史、探査史、物理的性質、進化史、生命論、未来計画、そして部分同型性という構造。
この章では、その科学的な火星が、文学という鏡にどのように映ってきたかを辿る。
ただし、ここでの関心は文学史的な網羅性にはない。問いはより限定されている。火星を舞台にした作品が、火星の部分同型性——地球と似ているが、別の軌跡を辿った——という構造を、どのように内面化してきたか。そしてその内面化が、どのような想像力の形を生み出してきたか。

8.1 序——実在の火星と文学の火星

まず確認しておかなければならないことがある。
火星を舞台にした小説は、その小説が書かれた時代や文化的な文脈に拘束されており、かつまた、そこに含まれる虚構も含め、書かれた時代における火星に対する知識の制約を受けている。
火星探査の進展により、新たな知識が獲得され、仮説が構築されること自体が火星を舞台にした小説が執筆される動機づけとなっているし、火星探査自体が小説の題材となっている。その一方で、あえて既にその時点では否定された過去の火星像をあえて取り上げるようなケースもあるだろう。
私見では、作品の価値は科学的正確さとは別のところにある。
20世紀前半までのほぼ単なる想像の産物であると言ってよい火星像に基づく作品は、いまや「火星」という固有名ではない別の何かを指示するものと読み替えなければ受容が困難だが、20世紀後半になると、マリナー計画に先行する作品でも幾つかのものは、今日の火星像を前提としてなお、火星を舞台としていると言いうるような要素を含んでいると感じられる。
いわばそこにおけるヴァーチャリティが、知識の細部の不正確さにもかかわらず、時代を超えたポテンシャルを備えているようなのだ。
ここでの問いは、そのポテンシャルがどこから来るのか、である。

8.2 H・G・ウェルズ——衰退文明の星

19世紀末から20世紀前半にかけての「火星像」は、第1章で描いたように、ローウェルの運河論争によって形成された。その火星は、老いた文明を持つ惑星であった。
水が干上がり、乾燥し、砂漠化した惑星。そこに住む文明は、資源の枯渇と戦いながら、高度な技術で生き延びようとしている。運河は、その証拠であった。
この火星像は、科学的には誤りであった。だが構造的には、奇妙なことに、正しかった。
火星は確かに、水を失った惑星である。かつては水があり、今はない。そこに生命が存在していたかどうかは不明だが、環境は確かに劣化した。火星は確かに、地球よりも「老いた」惑星である。
ローウェルは、火星に知的文明を投影した。その投影は誤りであった。しかし投影の背後にある直観——火星は老いた惑星である——は、科学的に正しかった。
この「誤った知識に基づく正しい直観」が、20世紀前半の火星文学に特有の質を与えている。
H・G・ウェルズの『宇宙戦争』(1898)を例にとろう。ウェルズの火星人は、高度に進化したがゆえに身体が退化し、巨大な頭部と触手だけを持つ異形の存在である。彼らは乾燥した火星で資源が枯渇し、地球侵略を試みる。
これは明らかに、ローウェルの火星像に基づいている。しかしウェルズが描いたのは、単なる火星人の物語ではない。それは「進化の極限がもたらす退化」という、より深い主題を持っていた。高度に発達した知性が、身体的な生命力を失う。文明が進化することで、生物としての活力が失われる。
これは、19世紀末のヨーロッパが抱いていた不安——文明の退廃、生命力の喪失——の投影でもあった。火星は、そうした不安の外部化された形として機能した。
科学的不確実性は、火星を「老いの寓意」として構成する場を提供した。
なお、同時代の火星文学には、科学的知見とは独立に展開された冒険的想像力や神学的寓意も存在する。(前者の例としては、第2章でもローウェルの文化的・社会的影響として言及したE.R.バローズの「火星=バルスーム」を舞台とした一連の作品を、後者の例としては、C.S.ルイスの「火星=マラカンドラ」を舞台にした作品が挙げられるだろう。)しかし本稿が追うのは、観測と探査によって再定義されていく天体としての火星と、それに応答する想像力の変容である。ゆえに象徴的・寓意的火星像の系譜は、本論の射程外に置かれる。

(続く)

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(2026.3.29 noteにて公開)

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