武蔵国風土記を訪ねる、渋沢平九郎物語
渋沢栄一の義理の弟で、最後は見立養子にもなった尾高平九郎、後の渋沢平九郎のことです。
高麗郡街道、入間郡岩口〜秩父郡我野をexploreした時、渋沢平九郎が飯能戦争で敗走し、故郷深谷に向かいますが、その途中で新政府軍に遭遇し、討たれてしまった道がこの辺りにあると、ご紹介しました。
栄一については説明不要でしょう。
その一方で平九郎は若干22歳(数え)で自刃してしまいます。平九郎と栄一は近しい関係でしたが、その生涯は、明暗が分かれました。
今回は、ここ飯能、秩父に残る、渋沢平九郎物語をexploreします。
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慶応四年(1868) 4月、彰義隊を脱退した渋沢成一郎、尾高惇忠、渋沢平九郎は、暫く事態を静観していましたが、4/19, 隊を結成し田無の西光寺に陣を張り、隊の名称を振武軍としました。

5/12, 箱根ヶ崎に転陣後、5/15, 彰義隊と新政府軍との上野戦争勃発を聞き、翌5/16, 上野に向かいますが、途中、彰義隊壊滅の報を受け、田無に引き返し、翌5/17, 一隊は所沢経由で、もう一隊は箱根ヶ崎経由で田無を発ち、翌5/18, 飯能に到着、ここで陣を張り再びの転陣となりました。飯能では能仁寺を本陣とし、智観寺などにも分陣しました。

5/22, 新政府軍主力部隊が扇町屋に到着したのを知り、振武軍は夜襲を掛けることにします。平九郎率いる一隊は北から扇町屋を目指しますが、上鹿山で新政府軍川越藩と遭遇、一戦交えますが、

平九郎は、これで夜襲が露見してしまったと思い、智観寺に後退し待機します。

夜が明けると新政府軍川越藩と、福岡、久留米両藩も加わり、智観寺を攻め、平九郎は本陣能仁寺へと退却しました。

振武軍奮戦するも兵力の差は歴然、渋沢成一郎、尾高惇忠、渋沢平九郎らは、夜襲の翌日5/23昼頃にはもう、本陣能仁寺を捨て、逃避行となりました。
振武軍は、万一の時の再結集場所として、秩父の三峰山を設定していました。飯能から三峰山だと、高麗川沿いの秩父往還吾野通りか、名栗川沿いの秩父往還名栗通りしか事実上ありません。
渋沢成一郎、尾高惇忠、渋沢平九郎は、吾野通りを選択しました。
飯能から秩父往還吾野通りへの道筋は、下記linkでexploreしていますが、写真のみをハイライトでご紹介しましょう。
平九郎は、今武蔵台団地がある太郎坊峠を越え、、、


、、、高麗川沿いの秩父往還吾野通りを秩父方面に向かい、顔振峠に行き着きますが、そのルートは3つ考えられていますが、井上(中峰)から阿寺に向うルートが有力視されています。

このルートには伝承が残っています。また、住民の生活道で、住民以外は使わなかった道のようですから、逃避行に適してもいます。





しかしチャリでこの山道は流石にキツイので、冒頭リンクのexploreでも走った、虎秀、間野、阿寺の林道を行きます。このルートも候補の一つです。


間野の集落を過ぎると勾配がキツくなり、つづら折れとなります。

そして漸く、阿寺の集落です。


さて、平九郎はここから顔振峠に向うのですが、冒頭リンクのexploreで実走済なので、今回はここから東へ行き一本杉峠から黒山に向かいます。



ということで阿寺から東へと進み、

黒山に到着。

程無く、渋沢平九郎自決の地、です。

そして、平九郎の骸が葬られた全洞院です。


いやぁ、しかし、渋沢栄一、成一郎、尾高惇忠、大成功したこの三人分の悲劇を、一人で背負い込んだかのようなヒーローでした。
平九郎が行くはずだった道を行きます。ここからは江戸期の道と現道が一致しています。黒山から越辺川に沿って下り、大満、小杉、津久根、黒岩と行って、越生です。

平九郎が自刃した後、その首はここ越生にある法恩寺の門前に晒されました。村人が秘かに法恩寺に葬ったと言われています。

そして栄一が、明治32年(1899), 全洞院への平九郎の墓参りの際、泊まったのがここ金子家です。

如何でしたでしょうか。
大河ドラマ、青天を衝け、の、平九郎が討たれるシーンが思い出されます。壮絶な死に方でした。
つくづく、大成功した栄一、成一郎、尾高惇忠の、3人分の悲しみを、独りで背負わされたようでした。
栄一は言わずもがな、成一郎も栄一の助けを受け、ビジネスで大成功を収め、あの八芳園は成一郎の自宅です。尾高惇忠は初代富岡製糸場場長です。
生きていれば、平九郎も、成功を収めていたのではないでしょうか。
しかし何故、敵がいると分かっていて深谷に向かったのか。もはやこれまでと思ったか。
