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一人が好きな自分を、やっと認める

人付き合いが苦手だ。趣味がない。友達がいない。

こう言うと、周囲の人たちは決まって心配そうな顔をする。「大丈夫?」「何か始めてみたら?」「もっと人と関わった方がいいよ」。そういう声が、友人からも、家族からも、そして最も厳しく自分自身の内側からも聞こえてくる。

年を重ねるにつれ、その焦りは増していった。子どもが大きくなり、やがて独立していく。定年も見えてくるようになると、「今のままでいいのか」という疑問が、ますます頭をもたげるようになった。周囲を見ると、充実した趣味の時間を過ごしている人たち、何かのコミュニティに属して生き生きしている人たち。そういう人たちと比べて、自分は何だか足りていないのではないか。そう思うようになったのだ。

だが、ここまで生きてきて、ようやく気づき始めたことがある。

これは欠点ではなく、ただ自分の気質なのだということを。昔からそこにあった、自分の本来の姿なのだということを。

昔からそこにあった、違和感と違和感との和解

思い返してみると、この「一人が好き」という傾向は、かなり昔からあった。子どもの頃のことだ。学校から帰ると、友達と遊ぶより、一人で本を読んだり、何か自分のペースでやったりしている方が気が楽だった。放課後に誘われても、理由をつけては断ってしまう。休みの日だって、家で一人でいるのが心地よかった。

その時点では、それを「欠点」とは思わなかった。ただ、そういう気分だったのだ。ただ、そういう自分だったのだ。

ところが、学年が上がるにつれ、周囲の期待が明確になり始めた。「男の子なんだから、もっと友達と遊びなさい」「そんなに一人ばっかりいたら、変に思われるよ」。そういう声が、大人たちから聞こえるようになった。

そして、自分もそれを内面化していった。一人が好きなのは、何かダメなことなのではないか。社交的でない自分は、人間として不完全なのではないか。そういう不安が、静かに根を張るようになったのだ。

大人になってからも、それは変わらなかった。むしろ悪化した。職場での人間関係、プライベートでの交流、家族との時間。どれもが、「もっと積極的に関わるべき」という無言の圧力に満ちていた。SNSの時代になると、それはさらに顕著になった。誰もが何かしら打ち込んでいる。誰もが友人たちとの時間を大切にしている。自分だけが、そういう輪から外れているように見えた。

だから、ずっと無理をしてきた。無理をして、人間関係を作ろうとした。無理をして、趣味を探そうとした。無理をして、「正常な人生」を歩もうとした。

その結果、どうなったか。疲れた。心が重くなった。いつしか、自分は何がしたいのか、何が好きなのかすら、わからなくなってしまった。

「正常」とは、誰が決めたのか

ここで一つ、素朴な問いを立ててみたい。

人付き合いが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。趣味が豊富な人もいれば、特定の趣味を持たない人もいる。友達が多い人もいれば、少ない人もいる。これは、単なる個人差ではないか。

にもかかわらず、私たちの社会では、一方が「正常で健全で充実している」と見なされ、もう一方が「問題があり、孤立していて、人生が退屈である」かのように扱われている。

誰が、そう決めたのだろう。

人と繋がることを喜ぶ人が「社交的で良い人間」とされ、一人の時間を大切にする人が「内向的で問題がある人間」とされる。充実した趣味を持つ人が「充実した人生を歩んでいる」と見なされ、特定の趣味を持たない人が「退屈で味気ない人生を歩んでいる」と心配される。

だが、本当にそうなのか。

一人でいることで、初めて心が落ち着く人間は、存在する。誰かの期待に応じるのではなく、自分のペースで物事を進めたい、そう望む人間は、確実に存在するのだ。そういう人たちが、わざわざ無理をして社交的になる必要があるのか。わざわざ無理をして、趣味を作る必要があるのか。

むしろ、その無理こそが、心身を蝕むのではないか。その無理こそが、人生を重く、息苦しくするのではないか。

考えてみてほしい。あなたが人付き合いが苦手だったのは、本当に「克服すべき弱点」だったのか。それとも、自分の気質に無理して合わせようとした、その過程で生まれた「疲労感」が、そう見えさせていただけなのか。

家族であってもそれは同じ

「家族であってもそれは同じ」という言葉がある。つまり、あなたは一人の時間を好むあまり、家族と一緒にいる時間でさえ、一人でいたいと思うということだ。

一般的には、家族との時間は特別で、心を込めて大切にすべきものとされている。親として、配偶者として、家族一緒に過ごす時間こそが、人生の最大の喜びであるべき、そういう価値観が、社会には浸透している。

だから、「家族であってもそれは同じ」という言葉は、多くの人にとって、理解しがたい、あるいは冷たく聞こえるかもしれない。「自分の家族とさえ、一緒にいたくないのか」「家族を愛していないのではないか」そう思う人もいるだろう。

だが、それは誤解だ。

あなたが家族であってもそれは同じ、と感じるのは、家族を愛していないからではなく、あなたの心が、常に一定のペースで、適度な距離感を必要としているからなのだ。誰かと一緒にいることそのものが、エネルギーを消費する行為だからなのだ。

人間には様々な気質がある。一緒にいる時間を通じて、相手とつながる喜びを感じる人もいる。だが、同時に、相手との距離を取ることで初めて、心の落ち着きを感じる人もいるのだ。あなたは、後者なのだ。

そういう人間が、家族との時間を完全に無視することはできない。家族を見守る責任がある。だが、同時に、自分の心の最低限のペースを保つ必要もある。その両立を図ろうとするとき、「家族であってもそれは同じ」という感覚は、実は正直で、誠実な心の声なのだ。

一緒にいながらも、心は自分のペースを守る。相手を思いやりながらも、自分の時間も大切にする。そういう関わり方を、冷たいと呼ぶ人もいるだろう。だが、それは違う。それは、自分の感情に嘘をつかない、あるがままの自分で家族と向き合う、ということなのだ。

むしろ、義務感から無理をして、家族と一緒の時間を「楽しい」と演じるよりも、自分のペースを保ちながら、ありのままで関わる方が、長期的には、より誠実で、より安定した関係を築くことができるのではないか。

無趣味は、本当に欠点なのか

「趣味がない」と聞くと、人生が退屈で、充実していないように思える。学生の頃から、人間は「自分の趣味を持つこと」を勧められ続ける。何か打ち込めるものを持つことが、人生を豊かにすると教えられてきた。だから、趣味がないということは、人生が不完全で、何か足りていないように感じるのだ。

だが、本当にそうなのか。

実際のところ、趣味を無理に作ろうとしている人の方が、疲れているのではないか。自分のエネルギーの大半を、仕事と家族に注いでしまった人が、残されたわずかな時間の中で、「これが自分の趣味なんだから、楽しまなければ」という義務感を抱えながら、何かを続けている。その状態の方が、よほど重いのではないか。

あなたは、「趣味がない」のではなく、「わざわざ何かを追い求めなくても、今この瞬間があれば足りている」という気質なのかもしれない。それは、ある意味で、とても健全で、自分の心に正直な状態なのだ。

仕事をし、家族を見守り、日々の責任を果たしていく。その中で、時には一人で静かに考え、時には本を読み、時には何もせずにいる。そういう淡々とした人生だって、十分に意味がある。むしろ、そういう人生の中にこそ、本来の人間らしさが宿っているのではないか。

「人生は有意義な活動で埋め尽くされるべき」というのは、実は割と新しい価値観だ。過去の多くの人間は、特別な趣味を持たずとも、家族と過ごし、仕事をし、たまに友人と会い、それで人生を全うしていた。それで十分だったし、むしろそれが多くの人の実感だったのだ。

今、SNSの時代に、「充実している」ように見えている人たちの人生が、本当に充実しているのか。それとも、単に「充実しているように見える」ことを、必死に演じているだけなのか。その区別は、誰にもつきがたい。

だからこそ、自分の本心に問い直してみてほしい。趣味を持つことで、本当に人生は豊かになるのか。それとも、無理をすること自体が、人生を貧しくしているのか。

昔からのコンプレックスを、手放す準備

昔からそこにあったコンプレックスを、今、やっと手放す準備ができているのではないか。

「一人が好きな自分は、ダメなのか」。「趣味がない自分は、不完全なのか」。「友達がいない自分は、異常なのか」。

その問いに、もう答えが出ているのではないだろうか。いや、ダメではない。不完全ではない。異常ではない。これは、単なる自分の気質だ。それだけのことなのだ。

その認識に辿り着くことは、小さなことのように思えるかもしれない。だが、人生において、それは極めて大きな転換点になる。数十年かけて、自分の中に作り上げられた「自分は間違っている」という感覚から、初めて解放されるのだから。

もう、自分を「直す」ために、何かを無理に始める必要はない。もう、社交的になろうとして、無理をする必要もない。もう、何かの趣味を探して、自分を「正常」に寄せていく必要もない。

あなたは、一人の時間の中で、自分の心の声を聞くことができる人間だ。その特性を、欠点ではなく、自分の本来の姿として受け入れる。それができれば、世界が変わって見えるはずだ。

疲労感の正体

ここまで述べてきたことを踏まえると、あなたが感じている「活力の喪失感」の正体が、少し見えてくるのではないか。

それは、単なる怠けや気の弱さではなく、むしろ「自分の本来の気質に反して、無理をし続けてきた結果としての、心と体の悲鳴」なのかもしれない。仕事の責任を担い、家族のために時間を注ぎ、そのすべての過程で、自分の本来の姿を抑圧し続けてきた。その蓄積が、今、疲労感という形で現れているのではないか。

もしそうであれば、解決策は「趣味を持つこと」でも「コミュニティに属すること」でもなく、むしろ「自分を受け入れること」なのだ。自分が一人であることを好む人間だということを、そのまま認める。それができれば、無理をする必要がなくなり、心にも身体にも、少しずつ余裕が生まれてくるのではないか。

定年まで、そしてその先へ

定年まであと8年。その間、あなたは家族への責任を果たし続けなければならない。それは、あなた自身も望んでいることだろう。家族の安定、子どもの成長を見守る。その時間を無駄にするつもりはない。

だが、同時に思い出してほしい。その8年の先には、まだ人生が続いているということを。定年後、人生はどうなるのか。その時点で、初めて「自分の人生をどう過ごすのか」という問いに、真正面から向き合う機会が来るのだ。

あなたが時折、「海の近い町で、ひっそり静かに生きたい」と考えるのは、実は間違った考えではないのかもしれない。むしろ、それは自分の気質に正直に生きる、ということなのだ。

もちろん、今からそれを実行することはできない。家族への責任がある。だが、その後の人生において、もし可能なら、一人で静かに過ごす時間があってもいい。友達がいなくてもいい。趣味がなくてもいい。一人でいることが、何より心地よい。そういう人間だからこそ、自分のペースを守り、心の平穏を保つことができるのだ。

定年後の人生を、全く新しい選択肢として考えてみてはどうか。今は家族のために生きる。それは尊い。だが、その先は、自分のペースで、一人で、静かに過ごす時間があってもいい。その二つの人生を、分けて考えてもいいのではないか。

同じような場所にいる誰かへ

もしこの文章を読んでくれている人の中に、同じような感覚を持っている人がいるなら、そっと伝えたいことがある。

あなたは一人ではない。一人が好きな人間は、確実に存在する。無趣味で、それで平穏に過ごしている人は、存在するのだ。友達が少ないことに、特に悩まない人もいる。そういう人たちは、何か欠けているわけではなく、ただ別の気質を持っているだけなのだ。

社会は、常に「もっと社交的に」「もっと充実させて」というメッセージを発している。SNSは、充実した人生の断片を、絶え間なく流し続けている。だから、そこから外れた自分は、何か間違っているのではないか、そう思うようになる。

だが、ここで立ち止まってほしい。そのメッセージは、本当に自分の心の声なのか。それとも、外から押しつけられた声を、無意識に内面化してしまったものなのか。

もし後者であれば、その声から解放される可能性がある。自分の本来の気質を認め、それを受け入れることで、人生は随分と楽になるはずだ。

小さな変化

この認識に辿り着いたからといって、人生が劇的に変わるわけではない。相変わらず、一人でいるのが好きだろう。人付き合いが得意にはならないだろう。趣味も、きっと増えない。

だが、その「そのまま」に対する評価が、変わるのだ。それは欠点ではなく、自分の本来の姿だ。そう思えるようになるだけで、心が楽になる。毎日が、少しずつ軽くなっていく。

家族と一緒にいながらも、完全に心を預けることができなくても、それは愛情がないからではなく、自分がそういう気質だからなのだ。そう理解すれば、自分を責める必要がなくなる。

無理をして何かをしなくても、淡々と日々を重ねていくこと自体が、一つの人生なのだ。その人生を、堂々と歩むことができる。

今この瞬間を、大切に

定年までの8年は、短いかもしれない。だが、焦りながら過ごす8年と、自分を受け入れながら過ごす8年とでは、その重みは全く違うはずだ。

「自分は何のために生きるのか」という問いに、すぐに答えが出なくてもいい。その問いと付き合いながら、今この瞬間を、できるだけ平穏に過ごすこと。それが、今のあなたにできることなのではないか。

そして、その過程で、自分が一人でいることを好む人間だということを、やさしく受け入れていく。そういう小さな積み重ねが、人生を、少しずつ変えていくのだと思う。

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