「ルウィット・イン・プログレス」:ロザリンド・E・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ』入門
「ルウィット・イン・プログレス」は、突然本文の内容とは無関係に『モロイ』(サミュエル・ベケット)——の16個の石をしゃぶるくだり——の引用が延々と挿し込まれ続ける「異常論文」なのですが、ソル・ルウィット論としての内容は明快です。
それまで多くの論者は、ルウィットのコンセプチュアル・アートが合理主義や〈観念論(Idealism)〉を表明しているとみなしてきました。
しかし、クラウスは、ルウィットの作品が不合理であることや〈唯名論(Nominalism)〉に関係していると主張します。
以下では、この主張の意味するところを解説していきます。
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クラウスが中心的に論じているルウィットの作品は、《不完全な透かしキューブのヴァリエーション》(1974年)です。

クラウスによる作品記述は、次のようなものです。
それは122個のユニットからなるモデュラー構造をなし、各ユニットは数の進行順に整序された有限個の系列の一員である。この全系列にわたって「キューブ[立方体]自体は、ただ推測的に示されている。初めは最小限の情報(互いに垂直な3辺)に始まり、徐々に分けた辺を加えてゆき、最大限の情報(11辺)で終わる。系列内の各モデュールは1辺8インチ[約20センチ]で、各々白く塗られ、そして122の骨格構造が広大なプラットフォームに集められている。
このような作品の数学的な性質から、ルウィットは西欧(美術)の合理主義的伝統、「人間精神の神格化」の伝統と結びつけられます。
クラウスによれば、
ルウィットを論じるほとんどすべての書き手にとって、これらの幾何学的標章が、〈精神〉の図解、合理主義それ自体の表明であることは疑いを入れない。「ときに」、とある批評家は書いている、「これらの構成のなかでもっとも精巧なものは、完全な哲学体系を純粋な形式言語へと翻訳したもののように見える。もし、たとえばデカルトやカントの論文の構造美を知覚し、さらにそれをもっぱら視覚的なメタファーとして再創造することができる者がいるとすれば、それは間違いなくルウィットである」。
しかし、クラウスはこのような見方に異議を唱えます。彼女によれば、ルウィットの作品はそのようなことを成し遂げてなどいません。
「彼の作品の形式的条件は、[ルウィットを合理主義的に解釈する]書き手たちが求めているらしい人間理性の図式のようなものを生み出すには、あまりに散漫で、あまりに強迫観念的に過ぎる」。
つまり、クラウスはルウィットの作品を「強迫(観念)的」なものとしてみなしているのです。
先述の作品を、彼女は以下のように論じ直します。少し長くなりますが、引用します。
《不完全な透かしキューブのヴァリエーション》は、ルウィットの他の多くの作品同様、見る者に本質的に強迫観念的な経験をもたらす。一瞥で了解するにはあまりにも広すぎる、広大なプラットフォームの上に、きちんと並べて描かれた122の小さなフレームの断片が、どれも念入りに白く塗られ厳密に統制されてはいるが無意味な区画線のなかに収まって、ある種のばかげた頑固さの実演になっている。ユークリッドのもろもろの図形においては、ただ一度だけ公理的関係が述べられ、さまざまな起こりうる応用は読者に残される。[...]それとは異なって、ルウィットの作品は執拗に、起こりうるケースにいちいちその発生原理を当てはめている。[...]ルウィットの作品の連続的展開のざわめきには、数学者の言語のエコノミーはまったく備わっていない。それは、要約を拒み、全体を暗示する例を一つだけ挙げるのを拒むという点で、むしろ子供や高齢の老人の多弁さで語るのであり、「そして」で繋がれたほとんど同じ細部の連なりからなる、出来事のひどく興奮した説明に似ているのである。
ここで言われているのは、数学者は一度公理を示すだけで済ましますが、一方でルウィットはそのような公理(あるいは原理)から導かれる応用例を延々と強迫観念的に示し続けている点で、両者はまったく異なるということです。
クラウスはこのことから、ルウィットの作品が〈唯名論〉に達していると言います。〈唯名論〉とは〈実在論〉と対比されるもので、ここでは後者が〈理念(Idea)〉(あるいは〈精神〉)そのものの実在を認める立場、前者が認めない立場だと整理することができます。
つまり、これまでルウィットのコンセプチュアル・アートは数学的に〈理念〉を映し出していたとされてきましたが、クラウスによれば、むしろルウィットは〈理念〉が存在しないところで、(それにしたがうかのように振る舞いながら)不合理な思考をおこなっているのです。
なお、冒頭で言及したように、「ルウィット・イン・プログレス」には、『モロイ』の引用が延々と挿し込まれ続けているのですが、なぜ『モロイ』かというと、ルウィットがベケットと〈唯名論〉を共有しているからだということが示唆されています。

内容レベルでは、そのルウィット論と『モロイ』は関係しているのですが、それでもやはり、論文の形式的には異常です。それはおそらく、その異常な論述スタイル自体が、ルウィット論の内容——「不合理」であることをめぐる内容——に合っていると考えたからだと思われます。
