小説|「セレニティ模様」第10話
香が居間に近づくとヨシばあの声が聞こえる。
「そろそろ帰る時間だなや」
「うん」悠の寂しそうな声がする。
香が居間に着くと悠はすでに帰る準備を終えテレビを観ていた。
「香。おはよう。そろそろ帰る支度しねばなあ」
「う-ん」気乗りしない香は「うん」とも「ううん」ともとれる返事をする。
帰りたくないと言いたいけどここで言ってしまえばヨシばあとお母さんを困らせてしまう。心の奥底ではここが日常なら良いのにと願っているのに。無情にもそう願っている間にも時間は刻々と進む。帰る時間は避けられない。願いながらも香の手は着々と荷物をまとめる。
とうとう帰る時間が来てしまった。香は嫌だけれどリュックサックを背負う。隣の悠はおとなしくリュックサックを背負いすでに外靴を履くところだ。
「また来いなあ」ヨシばあが玄関まで見送りに来る。
「うん。また来るなあ」八重子が言う。車のエンジンがつきゆっくり動き出す。
ヨシばあの家に向かうときと同じ道を逆に走っているだけなのに帰りはなんだか悲しく感じる。りんご畑も木の影のほうに目が行く。稲穂が風に揺れているのもなんだか薄気味悪い。田んぼ道、りんご畑、二回目の田んぼ道、坂道。確実にあの家に近づいている。
隣に座っている悠を見たら、ぼーっと窓から見える景色を眺めている。何も言わず、ただただ景色を見ている。悠は何を考えて何を思っているんだろう。
悠はいろいろ思うことがあれど一人で抱え込んでしまうことがままある。でも香の前では明るく振舞う。無理していると思いつつその優しさに甘えてそればかりかそれにつけこんでしまう。「悠、どうしたの?」というそのたった一言が言えない。悠の悩みの種を聞きたいのに。香がそうしてもらうように悠にも一人で抱え込ませたくないのに。お家に着くまでに車の中では時間はあるのに。いつも言えないまま帰路についてしまう。今日だってそうだ。
*
「ただいま戻りました」お母さんが山川家の玄関を開ける。子ども心にもお母さんが気を遣っているのが分かる。
「はい」トメさんが玄関前の仏間でタバコをふかしている。昼間からビールを飲んでいたのか畳にビール瓶が何本も転がっている。ヨシばあの家との落差に愕然とする。この姿もこの匂いも鼻について気が滅入る。
せっかく楽しい気分で帰ってもあっという間に思い出が台無しだ。思い出の余韻になど浸れない。
八重子は早速夜ご飯の準備に取りかかる。トメさんが好きそうな和食を作る。この家ではトメさんが主役だ。トメさんとトメさんが大切にしている息子。香のお父さんにあたる和夫さん。その二人が気に入るメニューにしなければならない。焼き魚、お味噌汁、菊のお浸し、塩辛、三五八漬、しめ鯖など。
八重子がご飯作りを始めるとトメさんが来た。
「うちの和夫にはおいしい物しか食べさせてきませんでしたから」
「はい」八重子が返事をしながら作り続ける。トメさんは暇を持て余しているからこの時間帯に家にいると、こうやって嫁いびりが始まる。
香は腹が立つけれど何も行動できない。言い返したら自分も傷つけられることが分かるから。
悠も何か言いたげにしているけど口をつぐんでいる。その代わり悠は八重子のエプロンの裾を必死に引っ張っている。
監視されながらも夜ご飯の支度を終えた。ご飯をテーブルに並べる。
和夫さんも居間に来た。トメさんはすでに座っている。
八重子はビールや日本酒を用意する。トメさんときたら昼はビール、夜は日本酒を呑む。和夫さんはまずビール、それから日本酒と続く。
この家ではトメさんがトップに君臨し次に和夫さん。八重子はお世話係。香と悠はトメさんと和夫さんの生活の邪魔にならないように同居してさえすれば良い。
昨日の夜ご飯どきはあんなにたのしかったのに雲泥の差だ。黙々と食べ、粗相をおかさないように気を張る。なんならトメさんと和夫さんがはやくご飯を食べ終わってこの部屋からいなくならないだろうかと考えている。
