第8話:背中の向こうに──もう一度、出会うために
あれから、季節が二つ過ぎた。
大学を卒業しても、私は相変わらず本の中と現実の境界を行き来するような生活を送っている。
図書館にもよく足を運ぶ。
けれど、あの日の“背中”にはもう会えなかった。
その日も、特に目的もなく地下書庫へ降りた。
書架の隙間に積まれた古本の匂い。
静かすぎる空気。
そこで──私は見つけた。
木製の小さな札。
墨で、こう書かれていた。
「満月の夜、丘の上で」
胸が高鳴った。
これはきっと、私へのメッセージだ。
なぜなら、この筆跡は……忘れるはずがない。
その夜、私は月明かりに照らされた丘に立っていた。
風が頬を撫でる。
静けさの中で、虫の声だけが響いている。
ふと、視界の端に“影”が揺れた。
藤色の羽織。
背中を向けて、月を見上げている。
私は息を飲み、一歩近づこうとした。
「……来てくれたんだ」
それは、聞き間違えるはずのない声だった。
三奈の声。
でも、彼女は振り向かない。
「あなたに、もう一つだけ伝えたいことがあるの」
私は返事をしようとしたが、言葉が出なかった。
彼女の背中が、月光の中で淡く溶けていく。
「物語は終わっても、声は続く。
それが、あなたの役目よ」
次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
丘の上には、ただ風と月の光だけが残っていた。
私はしばらく立ち尽くしていた。
でも、不思議と寂しくはなかった。
だって──
私はまた、彼女に会える気がしていたから。
あの背中は、きっとまた現れる。
