【毛利輝元、秀元・吉川広家に知行地を与える】1600年11月2日
【毛利輝元、秀元・吉川広家に知行地を与える】1600年11月2日
防長二国に減封された毛利輝元が、秀元に長府三万六千石、吉川広家に岩国三万石を与える。輝元は減封された防長二国の中から、毛利秀元に長府三万六千石、吉川広家には岩国三万石を与えました。当時、毛利家は関ヶ原の戦いが原因で改易の危機に瀕していましたが、吉川広家の尽力によって改易は免れ、防長二国への減封に留まりました。毛利秀元は毛利元就の四男である穂井田元清の子で、一時期は実子のいなかった輝元の養子となっていました。関ヶ原の戦いでは、毛利本隊として南宮山に布陣しましたが、吉川広家の内通により戦いに参加することなく退却しました。戦後、一度は改易となりますが、輝元から長門国に3万6千石、あるいは6万石を与えられ、長府藩の初代藩主となりました。吉川広家は毛利元就の次男である吉川元春の三男です。関ヶ原の戦いでは、西軍総大将となった輝元を東軍に加担させるよう説得しましたが実現せず、内密に徳川家康に通じて毛利領の安堵を働きかけました。この行動により、吉川広家は毛利家の改易を回避し、防長二国への減封に留めましたが、その後の毛利家中では、広家の行動に対する確執が生まれました。広家は岩国に築城を許され、幕府からは厚遇されましたが、毛利本家からは家臣として扱われました。 #大河ドラマ

