【天野康景死去】1613年2月24日徳川家康家臣の天野康景が没す。享年77。
【天野康景死去】1613年2月24日
徳川家康家臣の天野康景が没す。享年77。
家康が人質となった際も行動を共にした。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの一族が一揆方につく中、家康方として功績を挙げる。
本多重次、高力清長と共に「岡崎三奉行」と称され、「どちへんなきは天野三郎兵衛」(慎重でそつがない)と評された。
天正14年(1586年)には甲賀忍者の統率を任される。
家康が関東に移ると、江戸町奉行を務めた。
慶長6年(1601年)には1万石を与えられ、興国寺藩主となる。
藩政では農政や治水工事に尽力した。
慶長11年(1607年)、康景が蓄えていた竹木を窃盗しようとした天領の領民を、康景の家臣が殺傷。
この問題について、家康の命を受けた本多正純が康景のもとを訪れる。
正純が下手人の提出を求めたことに康景が激怒。
慶長12年3月9日(1607年4月5日)、城地を放棄し子の康宗らと共に出奔。
このため、改易処分となる。
その後、小田原の西念寺に入り、蟄居した。
徳川24将の一人だがマイナー武将なのは治世を主に担っていたから。しかし家康のほとんどの戦に従軍し親衛隊として諜報活動に活躍した。武断政治から法治政治への移行には矛盾を感じていたのか…最側近の本多正純との反目が改易となった

