【本多正信死去】1616年6月7日家康の名参謀・本多佐渡守正信が歿す。享年79歳。
【本多正信死去】1616年6月7日
家康の名参謀・本多佐渡守正信が歿す。享年79歳。
官位は従五位下佐渡守で、そう呼ばれました。家康の二代将軍・徳川秀忠政権でも老中として政務の中心を担い、「父子ならんで天下の権をとる」と評されたほどです。
1538年生まれ
とされています。これは1616年4月に亡くなった徳川家康を追うようなタイミングでの死でした。
本多正信は政策面でも評価され、「本佐録」という政治論書の作者と長く考えられてきました。現在では別人の著作に正信の名が仮託されたとみる説が有力ですが、為政者の心得を説く書として知られています。家康とは主従であると同時に、戦や政務の「参謀」として非常に信頼されていました。とくに家康隠居後は、子の本多正純とともに、駿府の家康と江戸の秀忠の両政権をつなぐ要として動いています。
家康には徳川四天王と言う絶対的家臣が居たが、いずれも武官。その中で正信は軍師で文官だった。三河時代からの旧臣だったが三河一向一揆に身を投じ家康に逆らった。出奔後、資料に出てくるのが小牧長久手の戦いとなり、実に数十年の空白が有る。その後は側近として様々な献策と戦いに参加した。しかし嫡男正純は政敵土井利勝との政争に敗れ、宇都宮釣り天井事件で改易となった

