男系に拘る皇統が美しいとは一ミリも思わない。
私は薩長のやり方が嫌いだ。
(そこの地方が嫌いというわけではない)
当時の長州は玉(天皇)をとって幕府を倒すことばかり考えていた。
幕府にも当然悪い所もあった。
しかし、長州は、がちがちの皇道派であった。
日本書紀をまるで聖書のように信奉していた。
吉田松陰や高杉晋作などがいい例だ。
(ここでは詳しく書かない)
それが戦前の天皇を現人神まで押し上げ、国民に対して、
天皇万歳!といって死ねと戦場へ送った。
良いか悪いかは別として、日本は負けた。
負けて、天皇は人間宣言をした。
しかし、憲法が保障する基本的人権は天皇にない。
ないどころか皇室一家に憲法は適用されないのだ!
これはおかしい。
日本は天皇制さえ失いかねない80年前の焼け野原で、命乞いをしてアメリカにすがったのではないか。天皇を殺さないでくれと。
なのに、なんで天皇は未だに戦前のような扱いなのか?
国家元首でもない天皇なら、平民と同じ憲法が適用されてもいいのに。
つまり、現皇室典範は、憲法違反なのである。
何人も、日本人である以上、憲法のもと保障されなければならない。
天皇家が、我々は籠の鳥だ!人権蹂躙だ!と最高裁に訴えてもおかしくないのだ。
そんな状態だからこそ、平成天皇は平民と結婚し、今上天皇も平民と結婚したのではないのか?
男子のみ、DNAが継承されるのではない。
女性にもDNAは継承される。
もし男子も女子も同じ血縁で結婚すると、Y染色体に異常が発生した場合、
その男子は短命に終わる。
終わるどころか子孫を残せない。
だからこそ、X染色体を2本持った女性こそ、継承されるべきなのである。
2本あれば、病気は発症しにくい。
つまり、男が継ぐべきと言う大陸の発想のまま、2千年近くたってしまい、女性天皇が実質的に強くて偉業を成し遂げていた時代を忘却して、女性天皇はだめだという学者は、みな、化石みたいな人たちだ。
医学的な見地からも、男系の男子のみ天皇という規定は、バカ丸出しの法律なのである。
愛子さまは男系の女子なのであるから、現行の皇室典範に、女子でもOK!とという一行を入れるだけなのに、自民党も皇室に遠慮してなのか、大久保利通の子孫に遠慮してなのか、外戚を復活させようとしているのは、なんとも姑息な手段である。
私は高市さんは嫌いじゃないし、奈良の出身なので、現在の方法は本来なら本望ではないと思っている。
それでも、皇室典範改正にこぎつけたのだから、戦後の女性政治家として歴史に残る偉業をされたと思う。
あとは、実際に愛子さまが結婚されたときに(その前でもいいが)、第一子を天皇とする。男女に限らずという一言を設けてほしい。
それこそが、愛子さまを天皇に出来なくても、女性でも男性でも天皇になれるという奈良時代の王政に戻すことができるのではいだろううか?
奈良時代の女性天皇は決して中継ぎでない。
立派な天皇の形として機能してたのである。
記紀を編纂し、奈良の大仏殿を作ったではないか!
(記紀は持統。大仏は孝謙天皇)
中継ぎだったら、そんなことが出来るわけがない!
だれだ!中継ぎと言っているのは!!!!!!!
ちゃんと歴史を勉強しろ!
と、言いたい。
以下、古代女性天皇が中継ぎだったとは思えない業績を羅列する。
推古天皇(33代):皇極天皇(35代):斉明天皇(37代)は割愛。
元正天皇(げんしょうてんのう)(在位:715〜724年)日本史上唯一、女性から女性へと皇位が受け継がれた女帝であり、治世中は『日本書紀』の完成や『養老律令』の制定など、国の基盤づくりを大きく進めた。
『日本書紀』の完成
歴史書である『日本書紀』の編纂を命じ、在位中の720年に完成させました。
律令制度の整備
それまで使われていた大宝律令をさらに整え、『養老律令』の編纂を推進しました。
「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」の制定
農地の開墾を促すため、自分で新しく開いた田んぼについて、本人の一代に限って(のちに孫の代までなど緩和)私有を認める法律を723年に出しました。
礼服制度や官人規律の改革
衣服の襟(えり)を「右前」にすること(和風から唐風への切り替え)を定め、四等官以上の官僚に対して「笏(しゃく:手にもつ細長い板)」を持つことを義務付けました
地方統制の強化
地方の政治を監察・指導するため、要地に「按察使(あぜち)」を初めて設置しました。
元明天皇は、在位:707年~721年)第43代天皇
平城京への遷都:710年、それまでの藤原京(現在の奈良県橿原市)から、唐の長安をモデルとした本格的な都である平城京(現在の奈良市)へ都を移しました。これにより、奈良時代が本格的にスタートします。
『古事記』の完成と『風土記』の編纂:太安万侶(おおのやすまろ)に命じて、712年に『古事記』を完成させました。また、日本各地の地理や産物、伝承をまとめる『風土記』の編纂もこの時代に命じています。
和同開珎(わどうかいちん)の発行:708年に日本で最初の本格的な流通貨幣として鋳造を命じ、貨幣経済の発展を促しました。
孝謙天皇 第46代天皇。なり即位した女帝で、
後に重祚して第48代・称徳(しょうとく)天皇となりました。
東大寺大仏の完成と仏教の隆盛:父・聖武天皇の遺志を継ぎ、東大寺大仏の開眼供養(752年)や、唐の僧・鑑真の来日など仏教興隆に尽力しました。
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の鎮圧:権力を握っていた藤原仲麻呂と対立し、764年に武力衝突(恵美押勝の乱)が発生。これに勝利し、仲麻呂を討ち取りました。
道鏡の重用と宇佐八幡宮神託事件:病気の際に看病を受けた僧・道鏡(どうきょう)を寵愛し、太政大臣禅師などの最高位を与えて政治を任せました。さらに道鏡を天皇にしようとする神託(お告げ)が下りましたが、和気清麻呂の調査によって退けられ、政治と仏教が過度に関わる転換期となった。
持統天皇第41代天皇(在位:690年 - 697年)。飛鳥時代の女帝。夫の天武天皇の遺志を継いで中央集権国家の体制を固めました。日本初の本格的な都「藤原京」の造営や、初の全国的な戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」の作成などを行い、日本の律令制度の基礎を築いた人物。
日本初の本格的な都「藤原京」の造営
それまでの都は天皇が代わるたびに移されていましたが、持統天皇は694年、中国の都に倣った条坊制を持つ、長く使える本格的な都城である藤原京(現在の奈良県橿原市など)へ遷都しました。
戸籍の整備と法制度の確立
天武天皇が定めた「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行し、戸籍(庚寅年籍)を作成して天皇が人民や土地を直接支配する仕組みを作りました。これがのちの「大宝律令」の制定へと繋がっていきます。
孫への譲位
697年に成長した軽皇子(後の文武天皇)に位を譲りました。これは日本の歴史において初めて行われた「祖母から孫へ」の皇位継承でした。
