続けられているのは、健康である証かもしれない
最近は、ありがたいことにnoteでの執筆や、元となるstand.fmでの一人語りの配信が継続できています。
意図的に「続けている」というよりも「続いている」という結果を手にできている感覚のほうが近いなと、しみじみ。
その背景として密接に関わるのは、実は「心身の健康」なのではないかと思い、今回も向き合ってみたいと思います。
かつての「整い」は、親しい人との会話だった
すこし前までは、私にとって一番の「整い」とは、親しい友人との夜ごはんや飲み会だったんです。
日々の生活で感じるモヤモヤや葛藤をそのまま聞いてもらいたい時もあれば、ある程度、私の中で整理はできていても「これでいいのかな?」と誰かの意見をもらいたくて、深く話を聞いてもらう。夜を選ぶのは深く語れるから。
そんな時間の過ごし方が、私を支えていたように思います。
けれど最近は、不思議とそういった「深く聞いてもらう」体験を必要としなくなってきたんです。なくてもいいとさえ思えるようになった。
なぜかというと、stand.fmで「話すこと」noteで「書くこと」を通して私の思考を小刻みに吐き出せるようになったから。モヤモヤしたものをいったん外に出して、眺めて、整理する。
それだけで、不思議と気持ちが軽くなります。
感情を手放すための「問いの形」
例えば日々の人間関係の中で感じる違和感や納得できないことがあったとしても、それを「ものづくり」というフィルターを通すことで、すっと問いに変換できるんです。
問いに変えると、それに向けて「どう考えを変えるか」「どう行動を選ぶか」というフェーズに進める。あわよくばものづくりが入ってきて何かに昇華できると熱量はそのままに成仏できるような。
すこしロジカルですが、PDCAのような形でモヤモヤに取り組んでいるとも言えます。すべての問いがすっきり解決するわけではないですが、一度吐き出すことで「これは自分の思考です」と客観的に扱えるようになる。
出したアウトプットに対して、良し悪しを判断したり、試してみたり、失敗したり── そうやって他人事として振り返る余白ができるんですよね。
すると「信じられない私」から、「見つめられる私」に変わっていけるんですよね。この整理があることで、私の中に安心感が生まれているのを感じます。
このサイクル自体が、私にとっての「自己リカバリーの習慣」と呼べるのかもしれません。
整える手段を持つことは、安心感につながる
一方で、以前のように「誰かに深く聞いてもらうこと」に依存していた状態を振り返ると、それはそれで危うさもあったなと思います。
対面で感情のままに話して、すべてを肯定されると、ものすごく満たされた気になる。けれどその満足感に依存してしまうと、「誰かに聞いてもらわないと安心できない」状態になってしまう。
誰かがいてはじめて私が健康でいられる。それは私だけで整理する手段がないということなんですよね。
もちろん、ひとりで整理することがいつも正解なわけではありません。行き詰まったときには、また誰かに頼る場面が必要になるとも思います。
けれど、自分自身でモヤモヤを見つめ、問いに変え、小さくでも行動に落とすことができる。その「整える手段を自分が持っている」という実感は、大きな安心につながっているなと思います。
健康になる方法を、自分で選べるように
感情というのは、対面の「話す」という行為と結びついたときに、爆発的に大きくなりがちです。
それが悪いというわけではありませんが、私の場合は、どうやら一人で淡々と整理していくほうが性に合っているようです。
とはいえ、これはあくまで「今、うまくいっているからそう思える」というだけの話でもあって。この先、自分ひとりで乗り越えられない何かにぶつかれば、きっとまた誰かに深く話を聞いてもらう必要も出てくるでしょう。
けれど、昔と違うのは選べる状態であること。私ひとりでもリカバリーできるし、頼ることもできる。
この安心感を手放したくないからこそ、このnoteを書いているといっても過言ではないのかもしれません。では。
音声でもお楽しみいただけます。

