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行動の理由は、後から言葉になるのかもしれない

先日、不登校気味の次男が、「給食を食べるのがしんどい…」と言い出した。

好き嫌いが多い次男にとって、給食はちょっとハードルが高く、
「食べなければならない」と思うと、学校に行くこと自体がしんどくい様子。

そこで、「じゃあ、お弁当を持って行く?」と聞いたら、
「それだったらいく!」とのこと。

その日は、3時間目からの登校だったので、連絡帳に事情を書いて、お弁当を持たせて送り出した。


ところが、学校からすぐに電話があり

「お弁当は衛生面などの問題があり、事前に養護教諭・栄養教諭を入れて調整してからでないと持ち込みできません。今日はお弁当は食べられないので、給食の時間の前にお迎えに来てください」

と言われてしまった。

それを聞いた私は、

「え、3時間目からの登校で衛生面の問題なんて起こるわけないじゃん。しかも、息子がお弁当を食べようとしているのは、みんなが給食を食べる教室ではなく、個別指導用の別教室。なんで柔軟な対応ができないの?」

と、カチンと来た。
カチンとはきたけど、その時点で、自分はまだ冷静だと思っていた。


第三者の公平な意見が聞きたいと思い、教育委員会がやっている教育相談窓口に電話し、「こういう対応は普通なのか?」と問い合わせることにした。

担当者は、やや同情的な口調ながらも、「学校としてはそれは普通の対応かもしれないですね…」と、やはり学校の対応を肯定する。


…なぜかイライラが募る。
けんか腰になりかけたその時。


あ、これ、私の気持ちの問題かもしれない

と気づいた。


私は、
「不登校気味の次男が、少しでも学校に楽しく行けるように工夫したい」
と思っていた。

でも、それは学校のルールでは受け入れられない内容だった。
相手は、単純に、手続き上の話として話していた。


私には、そのことが、
「ルールに合わせられないのならば、学校に来なくてもいい」
と言われているように感じてしまった。
ほんとうは、とても悲しかった。

つまり、私は、自分の悲しさをわかってもらうために電話していた。
決して、「第三者に公平な立場で見てもらう」という理由じゃなかったんだ…


これは、ちょっとショックな気づきだった。

なぜなら、私はこれまで、何か行動を起こす時は、

理由(なぜそれをやるのか?)
 ⇓
行動(どうやってやるのか)

という順番で考えていると思っていたから。


ロジカルシンキング講師として、
「結論を言うときには、根拠(理由)を添えましょう」とも言ってきたし、
子ども達にも「なぜやりたくないの?」と理由を求めてきた。

行動できない自分、理解できない自分にも「なぜできないんだろう」「なぜわからないんだろう」と、理由を知ればできるようになると思っていた。


しかし、よく振り返ってみると、実際には、

感覚(やったほうがいい/やるべきだ)
 ⇓
行動(どうやってやるのか)
 ⇓
理由(私にとってこういう意味があったのか=なぜそれをやるのか)

という後付けで理由を思いついていただけなのかもしれない。


電話をしようと思ったときには、「自分が悲しく思っていて、その悲しさをわかってもらいたい」という理由があるなんて、思いもしなかった。

行動してみてはじめて、「自分の行動の理由はこれだったのか」と言語化ができたわけだ。


もしかすると、こういうことは日常でも起きていたのかもしれない。

最初は、小さな違和感として。

・これはおかしい
・これは面倒だ
・このままだとやばい…etc

言葉にならない、「イラっとした」という感覚だったり、「どんよりする」という感覚のときも。

しかし、その感覚が起点になって、「(この不快な感情を避けるために)行動しよう」と考える。

理由は後付け。


たぶん、私は、後付けで思いついた理由を言語化するのが得意な人だった。
だから、

理由
 ⇓
行動

だと思っていた。


私が今まで、こだわっていた「理由があるはずだ」は、ただの私の思い込みだったのかもしれない。

行動してから理由が言語化されている、そしてその言語化スキルが高いので、行動する前に理由を考えられているように感じるだけ。


そう考えると、

理由にこだわらなくも行動できるし、人に理由をもとめすぎなくてもいい。

私はもっと、自由に行動できるのかもしれない。

自分を縛り付けていた、「理由」からの小さな卒業のような出来事だった。

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