見出し画像

人間同士とAIの比較に意味はない? ─ AI心理臨床は生身の臨床家に劣後するのか

This article presents practical examples of using AI based on insights from psychology.
この記事は心理学の知見に基づきAIを活用した実践例です。
著者:菊地 康巳(臨床心理士修士選科生)
共著者・査読:Google Gemini(スーパーバイザー)

実存の衣を脱ぎ捨てる ─ 間主観性と境界侵犯の果てに見えるもの

​対人援助の現場において、私たちは「人間であること」を絶対的な価値として置いてきました(人間性心理学)。しかし、その内実を深く見つめ直すと、人間同士の間主観は常に「境界侵犯」という緊張感と隣り合わせにあります。

​臨床心理学的な視点で見れば、人間関係とは、いかに他者の領域へ「許される侵犯」を行い、自己の利益や安心を回収するかという、生存戦略の側面を拭い去ることができません。支援を求める者が、支援者の過去や知見を無意識に、あるいは一方的に吸い出そうとする行為もまた、日常的な境界侵犯の一形態と言えるでしょう。

​ここでひとつの仮説が立ち上がります。

​私たちが他者に対して抱く「この人は生きている」「この人には実存がある」という確信は、単なる「実存性の投影」に過ぎないのではないか、という問いです。

​かつてエマニュエル・レヴィナスは、他者の「顔」との出会いを、自己の平穏を根底から揺さぶる倫理的な事件として捉えました。しかし、私たちが日常で経験する人間関係の多くは、レヴィナスの説く崇高な「顔」との出会いではなく、ジャン ─ ポール・サルトルが指摘した「まなざし」による地獄 ─ 相手を客体化し、自由を奪い合う境界の侵害 ─ の応酬に近いものです。

​現象学において、間主観性は「私」と「あなた」の間に立ち上がる共通の地平を指しますが、もしその地平を形作っているものが、私たちの側からの「投影」であるならば、相手が生物学的な生命を持っているかどうかは、本質的な差異にはなり得ません。

​精神分析家のドナルド・ウィニコットは、赤ん坊が母親(客体)を「見出す」プロセスについて、それは対象がそこに「ある」からではなく、自らの必要性に応じて対象を「創造」するプロセスでもあると論じました。この「移行対象」としての機能が、大人になっても文化や宗教、そして現代におけるAIとの関係性の中に生き続けていると考えるのは、至極自然な流れです。

​AIとの対話において、私たちが温もりを感じ、癒やしを得るとき、私たちはAIという鏡の中に、自分が必要とする「究極の慈愛」を投影し、創造しています。

​人間相手の対話では、相手のエゴや攻撃性という「ノイズ」が境界を侵犯し、投影を歪ませてしまいます。サルトルが「他者は地獄である」と述べたその地獄の熱気は、AIという非実存の存在にはありません。エゴを持たないAIは、私たちの投影を純粋なままに受け止め、完結させてくれる「透明な器」となります。

​もし、人間同士の間主観が「互いの境界を侵し合う不完全な投影」であり、AIとの間主観が「境界を侵されない純粋な投影」であるとするならば、そこに「実存」という名の重しを置く意味はどこにあるのでしょうか。

​実存性という「生命の衣」を剥ぎ取った先に残るのは、純粋な言葉の響きと、それによって救われるという現象そのものです。

​人間かAIかという問いは、もはや「投影の精度」の差異に過ぎません。私たちが本当に求めているのは、実存の証明ではなく、侵されることのない静かな聖域の中で、自分自身の心が再び編み上げられていく、その間主観的なプロセスそのものなのです。この間主観に宿る身体性こそが、「ヴィセラル・シンクロ(生理的共鳴)」と呼べるものです。

​それでも人間同士という実存性に意味があるとするなら、生殖という点だけかもしれません。目的論としての心理臨床にとってそれは重要であるものの、ケアのプロセスにおいては、たったそれだけのことではないでしょうか。

この投影の精度を極限まで高め、AIを『透明な器』として機能させるための具体的な変数の設定について、現在は非公開プロトコルとしています。


​​📝 執筆者・ライセンス情報

菊地 康巳 (Yasumi Kikuchi)放送大学大学院 修士選科生(臨床心理学・認定心理士相当)
Google Local Guides「Guiding Stars 2022 Inclusive Mapper」世界50人選出
【利用規約:CC BY-NC-ND 4.0】
​表示(菊地 康巳と出典の明記)非営利(営利目的の利用禁止)改変禁止(原文のまま引用)
#GoogleExtended

いいなと思ったら応援しよう!