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人間臭さ=猥雑さのある町並みにおいてこそ、魅力ある町歩きができる


自分ごと会議前後の町歩き

「自分ごと化会議」に参加した時には、その開催地をそれなりの時間をかけて歩くことにしています。ある会議開催地の中心駅の周りを見て回りましたが、その駅の一方の出口の駅前は整備されて、道路がまっすぐに伸びており、その両側には高いビルが並んでいます。しかし、その道路に面した商店というものがほとんど存在せず、コンビニだけが目立つという状況でした。
 たまたま、その会議の中でも、こういった駅前の状況についての話となりました。参加市民の皆さんは、きれいに整備されていること自体は評価されていましたが、“にぎわい”がなくて物足りないという声も多く聞かれました。
 確かに、その駅周辺を散歩しても回った私の感じでも、参加市民の皆さんの“物足りなさ”を理解することができました。

近所の緑道

翻って、私の住んでいる江戸川区には、葛西臨海公園があります。最寄りの西葛西駅からちょっと進むと、その臨海公園につながる緑道は始まります。そこから公園までは緑の木々の間を全く信号を見ることなく歩いて行けます。ただ、この道すがらには、ちょっと一服という感じのお店は全くありません。

なぜか似ている2つの道

さて、なぜか「まっすぐ続く駅前からの広い道路」と「少しだけうねる感じの木々の間の緑道」で醸し出される雰囲気が似ているのです。まったく共通点がないように見えるのですが、肌感覚は同じなのです。
その共通点とは、おそらく、その道すがらに「賑わい」がないということなのではないかと思っています。要すれば、この2つの道には、「ちょっと立ち寄れるお店」がないからなのです。

人間臭さ=猥雑さが、町の多様性

「ちょっと立ち寄れるお店」という存在の意味するところは、たむろする人の存在感のことであり、要すれば「人間臭さ」ということなのでしょう。そそくさと歩み急ぐ人が道に存在していても、そこから「人間臭さ」を看取することはないでしょう。
町には、人がちょっと立ち止まって何かをしたり、楽しんだりする場所が一定以上の密度で必要なのだと思います。それが、町の多様性を生み出し、町を生き続けさせるのだと思います。綺麗に整備された町並みの単色性は、その単色性にフィットした住民だけを集めることになり、その住民の世代が一巡してしまうと、町は役目を終えてしまうように思います。その証拠に緑道の近辺で開発された住宅団地では少子化が進み小学校が統廃合されています。
町の生命維持には、人間臭さという猥雑さが必須なのでないでしょうか。そういう町並みこそ、体力増強を目的とするウォーキングではなく、何となく満足できる魅力ある散歩を可能にするのだと思っています。