テクノロジーに支えられた「新職人」とマイクロビジネスの思想 :巨大化への抗拒とマイクロファイナンスのゆくえ
1. 経済規模の拡大がもたらした「仕事の細分化」という病理
アダム・スミスが見出していたように、経済規模の拡大(=G-W-G’過程である金儲け)のためには、「分業」が必須である。他方で、アルフレッド・マーシャルは、分業の進展(より細分化されていくこと)には、市場規模、つまり分業によって生み出される財・サービスの「販路」の拡大が必要だとも喝破している。つまり、分業にとって、販路の大きさが制約条件になるということだ。
近年のグローバル化は、この市場規模の制約を地球規模にまで取り払ってしまった。そのため、巨視的に見ると「仕事の細分化」が圧倒的に許容される経済構造が生み出されてしまったのである。資本と市場が巨大化すればするほど、労働者は生産の全体像から切り離され、歯車としての単調な「作業」を強いられる。
これを逆転させるには、それぞれの事業体がリーチできる市場を制限するのが、本質的な手法ということになる。極端な言い方をすれば、反「楽市」政策、市場分断政策を実施して、市場のセグメント化(細分化)を進める必要があるということだ。同時に、経済制度的に、規模の大きい事業体に対する課税の強化、財・サービスの移動に対するコスト負担の強化などが求められるだろう。新しい「関所」の創設である。特に、資本移動に対するコスト負荷は、喫緊の課題だと思う。
2. 「新職人」の確立とテクノロジーの役割
市場をあえて分断した上で、私たちが目指すべきは、労働において「構想と作業を統合」しつつも、生産性があがる、少なくとも現状維持できるように技術を発展させるということである。
工程を分断することによって、その「狭い」範囲の作業の効率性を求めるのではない。最終製品の作成工程、あるいはサービスの最後の提供までを一人の人間が担当できるようにし、その製造・提供過程全体をどう効率化していくかという方向でのテクノロジーの発展、メソッドの開発を進めていくことが求められるのだろう。
つまり、テクノロジーで支えられた「新職人」という、リスクテイクする自律的な生産者像(労働者像)を確立していくことが必要なのだ。その際、労働を行う「新職人」一人ひとりごとに、異なったスループット(処理能力)を制約する「ボトルネック」があるはずで、そのボトルネックを一つひとつテクノロジーとメソッドで解消していくのである。
同時に、需要者側も自分の欲求に自覚的になって、差異を認識することが必須になる。お仕着せの規制品に我慢する必要はない。ただ、「待つ」ということも楽しめるような精神的余裕が必要になるし、探す楽しみを見出すことが必要になるだろう。
実は、クラウドファンディングや各種のマッチングサービスには、そういった「新職人」と「自覚的な需要者」を結びつける要素があり、テクノロジーは使い方次第という気がしている。
3. マイクロビジネスが直面する「巨大化」の罠
こうした「新職人」による生活密着・地域密着の小規模サービスビジネス、すなわち「マイクロビジネス」を現代日本に定着させようとするとき、避けて通れないのが資金循環の問題である。
短期の景気対策において必要とされる貧困対策や失業対策としての資金還流に関し、既存の巨大な金融機関(銀行、消費者金融)が有効に機能しないことは確かである。だからこそ、ネットを通じて小口の貸し手と借り手をマッチングするソーシャルレンディング(SL)を含む、「マイクロファイナンス」という「魔法の小箱」に対する期待が高まり、その普及・定着が高唱されることも、理由なしとはしない。
しかし、ここにも巨大化を求める資本主義の論理が忍び寄る。過去にも、ソーシャルレンディングを行っていた有名企業の子会社が、金融庁によって業務改善命令が出され、業務を廃止したことがあった。この事件は、マイクロファイナンスがビッグビジネス化することの矛盾を、まさに象徴している。
そもそも、マイクロファイナンスの債権管理は個別性が高く手間がかかるものである。したがって、自由度のあるフランチャイズはともかく、これをビッグビジネスとして実施するという絵姿には、相当な違和感、異質感がある。大銀行と競争関係におかれて、マイクロファイナンス機関が市場から排除されてしまうという事象も、自然体では非常に起こりそうなことだ。マイクロファイナンスという事業自体も、本質的には「マイクロな存在」であるべきなのだ。
4. 資源提供者のインセンティブと持続可能性
では、この「小さな金融」をいかにして持続させるか。まず考えなければならないのは、マイクロファイナンスを実施する機関に労働や資金を提供する「リソース提供者」の動機付け(インセンティブ)の問題である。
一般的な研究では、この点に関し、共感やCSR(企業の社会的責任)で説明しようとする傾向があるが、政策論・システム論としては些か弱いのではないだろうか。アダム・スミスの『道徳感情論』で展開されたような人間の同感(共感)の論理を否定するものではないし、社会運動としての価値はあると思う。しかし、公的権力が人間の頭の中身(善意や道徳心)に直接介入できないし、すべきでないという観点から見れば、精神論だけでは持続可能なシステムになり得ない。
企業の社会活動を評価する「ソーシャル・インデックス」というアプローチもあるが、これはそもそも既存の資本市場インフラという「巨大な仕組み」とのリンクである点が、マイクロファイナンスの本質と「水と油」ではないかという懸念がある。既存の巨大資本市場から調達される資金は、マイクロな経済を支える資本としては適合性がないように思われる。
篤志家(ボランティア)が存在するというだけでは、持続可能性は確保されない。利潤動機(貨幣的利潤動機)以外の、しかし確実に機能する「マイクロな事業の継続に対する動機付け」の在り方を、さらに理論化する必要がある。
5. 結論:「勝ち組」不要論とこれからの政策的介入
もう一つの課題は、利用する側の能力、すなわちマイクロファイナンスによって供給される資金の質に適合したマイクロビジネスの在り方と、その社会への定着である。
こうしたマイクロビジネスは、放置すれば結局、ビッグビジネスに化けるか、あるいはビッグビジネスによって市場から排除されてしまう。そのため、マイクロな常態のままで持続することが極端に難しい。
この問題は、「月3万円の仕事」という信条に代表されるような、多層的で柔軟な職務人生を寛容する社会の在り方、すなわち、特定の組織的保護体(大企業など)からはじき出された人が改めて自律的・自立的に生きる在り方を“再発見する”ことが、現代日本において如何に難しいかという問題と、表裏の関係にある。
「新職人」としてのマイクロビジネスが、マイクロな状態のまま市場というフィールドで生き残ることができ、そのビジネスを複数組み合わせることで、マイクロファイナンスを返済しながら自律して生活していく。つまるところ、それを希望する者が、ビッグビジネスにおけるマッチョな「ビジネス・パーソン」(古くさい言い方では「勝ち組」)になる必要がない社会を常態化させること。これこそが、いま求められているのではないか。
そのためには、競争条件の緩和や、公的需要の発注方式の工夫など、マイクロビジネスを日本で“再発見”するための政策的・国家権力的な介入の具体的有り様を真剣に考えなければならない。近年成立した「労働者協同組合法(ワーカーズコープ法)」のような、組織の大小を競わない新たな法格子の存在が、マイクロファイナンスと共進化すべきマイクロビジネス(新職人)の強力な起爆剤になることを期待したい。
