母と推し活
母の趣味をどれか一つ挙げるとするならば、真っ先に"推し活"の三文字が頭に浮かぶ。
僕だけではなく、家族や友達も間違いなくそう思うほど、母の人生には途切れることなく推しの存在があった。
学生時代は洋楽にハマり、10代にして友達と海外を飛び回って外国人アーティストの追っかけをしていたそうだ。
そして25歳で結婚して子供を3人産み、立派な主婦になってからも変わらず(むしろ子供が成人してからは一層)推し活に花を咲かせていた。
母は推しによってSNSアカウントを使い分けており、中にはフォロワー1000人を超えるアカウントもあった。
そうして出会った推し仲間達と県外のライブやイベントに参加したり、新潟在住というハンデをものともせず定期的に東京で行われるファン同士の交流会に参加したりなど、一般の主婦にしては本当にアクティブに人生を謳歌していた。
そんな母がタイのイケメン俳優にどハマりし、推し活仲間達と一緒に遥々タイに行こうと数年ぶりのパスポートを取得した矢先、突然身体に不調が現れるようになった。
最初は全身の倦怠感程度だったが、次第に腰回りに痛みが生じ、仕事にも支障が出るようになった。
僕が物心ついた時から風邪一つ引いたところを見たことがないほど健康が取り柄の母だったので、諸々の不調を近くで見ながら内心かなり心配していたが、その状態でも大阪まで行って推し仲間と会ったことを嬉しそうに話してくるので、当時の僕はどこか気楽に考えていた。
母の癌
しばらくしても倦怠感や痛みが良くならないので、これはさすがに何かあるんじゃないかと心配になり、病院嫌いの母を父と僕でなんとか説得して近所のクリニックへ連れて行った。
そこで血液検査をしたところ、γ-GTPやAST・ALTといった肝臓関係の値が基準値を異様に超えてることが判明。
アルコール類は一切口にしないが、お菓子については主食と言えるほど大好きな母なので、どうせ普段の食生活が原因だろうとその時は信じて疑わなかった。
そうしてエコー検査をすることになったが、まさかの直前で機械が故障し、急遽紹介状を持って総合病院へ行くことに。
そこで改めて血液検査、エコーをしたところ、何やら不穏なものが見えたのか、CTとレントゲン、そして肝生検といった大仰な精密検査をする運びとなり、段々と不安が募っていった。
一泊の検査入院を経て、最終的な結果は2日後にお伝えします、と医師から言われる。
結果が出るまでの2日間は本当に気が気でなかった。
気晴らしに母も含め家族で出かけたりもしたが、店先や観光地で苦しそうに歩く母を見ると、どうしても最悪な未来を想像してしまいその度に息が詰まる思いがした。
この2日間は本当にただただ祈るしかなった。
そうして当日。
僕は仕事のため、母と父の2人で検査結果を聞きに病院へ。
祈りも虚しく、そこで「肝内胆管癌ステージ4」という診断を突きつけられた。
そして現実は想像よりもずっと残酷で、すでに癌が色んな臓器に転移しているため手術は出来ず、抗がん剤による延命治療しか手段がないため、余命は半年〜1年とのことだった。
抗がん剤治療については通院だけでも可能であるため、闘病中でも基本的に自宅で過ごすことが出来るのが病院嫌いな母にとってせめてもの救いだった。
医師から直接話を聞いた父はその場で大号泣したらしいが、当の本人である母はまったく泣かなかったそうだ。なんなら「家のことを全て任せて先に逝けてラッキー♫」と言いながら笑っていた。
そんな母を見て、この人が闘病中でも変わらず推し活の日々が過ごせるよう精一杯サポートするのが僕の役目だと強く思った。部屋に隠れて一晩大泣きして、翌日から母の前では絶対に涙は見せないと誓った。
推しバンドとの奇跡
突然の癌宣告を受けた母だが、その一ヶ月後には新潟で行われる推しバンドによるホールツアーと、横浜で行われるタイのイケメン俳優達による初来日フェスというビッグイベントが二つも待ち構えていた。
そしてこの二つのイベントで、思いがけない奇跡が起こる。
まずは推しバンドについて。
そのバンドは僕も母も大好きで、よく2人でライブに行ったりもしていた。
そんな彼らがライブツアーで珍しく新潟に来るというので当選した時は母と2人で大喜びし、ライブの日をずっと心待ちにしていたのだ。
しかし前述のとおり、ライブの1ヶ月前に母は突然の癌宣告を受けることになる。
癌の進行スピードは凄まじく、日に日に悪化する体調に母も弱気になり、ライブ観戦についてはほぼ諦めムードだった。
そこで僕は思い立って、そのバンドのボーカルの方にインスタでDMを送ってみることにした。
初めまして。いつも音楽拝聴しております。
突然のメッセージで大変恐縮ですが、ご一読いただけましたら幸甚です。
私自身〇〇(バンド名)が大好きで、ライブには何度も足を運ばせていただき、その度に何度も救われてきました。いつも感謝しております。
そんな私の影響を受けてか、私の母も〇〇(バンド名)に魅了され、最近では母の方が私よりも足繁くライブに通うほど夢中になりました(新潟在住ですが1人で不慣れな飛行機に乗り福岡遠征をしたと聞いた時は驚きました、、笑)。
そんな母ですが、この度突然の癌宣告を受け、余生も長くないことが分かりました。
以前から楽しみにしていた新潟公演では、FC先行で当選した席で見ることは現状難しいですが、当日は車椅子で楽しく拝聴することを夢見て現在治療に励んでおり、私としても何とか一緒にライブを観たいという思いで精一杯治療をサポートしております。
そこで大変不躾なお願いで誠に恐縮ですが、ライブ前後などのほんの少しの時間でお会いさせていただけないでしょうか?
ご無理なお願いなのは重々承知しておりますが、母にとってこのライブが人生最後になるかもしれないと思うと何としても特別なものにしてあげたいという思いが止まず、不躾なお願いをさせていただいた次第でございます。
ご無理を申しまして大変恐縮ですが、ご検討いただければ幸甚に存じます。何卒よろしくお願いいたします。
貴重なお時間を割き、お読み下さいまして大変ありがとうございました。どうかお体ご自愛くださいませ。ツアーの完走をお祈りしております。
そのボーカルはフォロワーが何十万人もいるような方なので、こんな長文を送ったところで当然見てもらえるわけがないと重々承知していたが、母のためにできる限りのことは全部やりたいという気持ちで一杯だった。
しかし、このDMを送った2日後。
まさかの出来事が起きる。
その日はたまたま母が一時的に入院をしており家にはいなかった。
深夜1時頃、眠りにつこうと電気を消して携帯を手に取るとインスタの通知が何件か来ていることに気付く。
寝ぼけ眼かつ暗闇の中だったので差出人名がよく見えず、「どうせ友達だろう」と軽い気持ちでそのまま寝ようと目を閉じたが、残影で浮かんできたユーザーIDに何となく見覚えがあった。
あれ、ひょっとして...?
速攻で飛び起きて部屋の明かりをつける。
そして恐る恐る携帯を見返すと、その差出人は紛れもなくボーカルの方だった。
丁寧なメッセージありがとう。
お母さん、心配だね。
ちょっと考えさせてください。
新潟公演に来れるかどうかは今の時点ではまだ分からないですか?
リアルに口から心臓が出るかと思った。
早く返信しなくては!
震える手を必死で抑えながら、何とかメッセージを打ち込む。
内容としては、体調が急変しなければライブは大丈夫だろうと主治医から言われていることを伝えた。
するとボーカルの方もすぐに返信をくださった。
そうか!それならよかった
ちょっと皆んなで話してみるね。
ひとまず当日来れることを祈ってます。
でもくれぐれもご無理せずに!
もう本当に、神様と会話をしているような感覚だった。しかもこんなに親切丁寧な返信まで頂けて、人生で初めて"言葉が出ない"という体験を味わった。
足りない語彙力で精一杯の感謝の意を伝え、ひとまずボーカルの方の返信を待つ形となった。
それから2日後、退院した母が家に帰ってくる。
母が退院するまでは一連の件は内緒にしていたので、病気になってから日課になっていた母のマッサージをしている最中にサプライズで打ち明けた。
最初は布団で寝そべりながら話を聞いていた母だったが、途中からガバッと起き上がって、事の顛末を聞き終えた頃には母の目には涙が浮かんでいた。癌宣告を受けてもけろっとしていた母が、この時ばかりは泣いていて、そんな母の姿を僕は人生で初めて見た気がした。
この時点ではまだ会えるかどうかの返信が来ていなかったので、二人して「会えなくても返信もらえただけで十分過ぎるよね...!」と何度も繰り返して、あっという間に夜が過ぎていった。
そしてその日の夜11時過ぎ。眠りにつこうとしたところ、またもや突然にインスタの通知が届く。
おまたせ!
明後日、ライブ終わったらお会いしましょう。
当日受付にてお名前をお伝えください。
◯◯(僕の名前)、でいいかな?
今までの人生で一番変な声が出てたと思う。
脊髄反射でベッドから起き上がり、悲鳴に近い叫び声を上げながら階段を猛ダッシュで駆け下りて母の寝ている部屋に飛び込んだ。
即座にボーカルの方からのメッセージを見せつけると母はたちまち号泣して、「なんて良い人なんだ...」と二人で何度も頷き合った。
あの時DMを送ってよかったと、心の底から思った。
ライブ当日
待ちに待ったライブ当日。
母は朝から体調が優れずひたすら吐き続けていた。
何か物を口に入れるとすぐ吐いてしまうような具合で、二週間ほど前から始まった抗がん剤治療の副作用がよりによってこの日に強く出始めたようだった。
ライブ中何かあったらどうしよう。
メンバー達に会える喜びもあったが、正直頭の中は不安で一杯だった。
処方された吐き気止めがようやく効き始めた15時過ぎ、なんとか吐き気も治まったので僕の運転で会場に向かう。
車内では母の大好きな曲を流しながら、気持ちをライブモードに切り替える。
朝から吐き続けてグッタリしていた母だったが、なんとか気分も上がってきたようで少しだけホッとした。
そうして1時間弱運転し、無事に会場に辿り着いた。
トランクから車椅子を取り出し、そこに母をすっぽりと乗せる。
今日は父がいないので、僕がしっかり支えなくては。身を引き締めて、車椅子のグリップを強く握った。
入場時間まで1時間くらいあったので、母の推し仲間達が会いに来てくださった。
母の病気については事前に知っていたようで、合流するとすぐに母の身体の心配をしてくれる。なんて良い人たちなんだろう。ツアートラックの前で写真を撮り、談笑をしていたらあっという間に入場時間が近づいてきたのでなくなく解散した。ほんの少しの時間だったけれど、推し仲間の方々の優しいお人柄が十分に伝わってきて、こんな素敵な人たちに支えられている母のことが自分ごとのように誇らしく思えた。
僕達は車椅子席での観戦のため、入口のスタッフに声をかけ、誘導されるままに席へと向かう。
そうして案内されたのがサブステージ目の前の神オブ神席。
2メートル先にはステージがある近さだった。
その日、車椅子の方は他にいなかったので、僕達の席だけ明らかに浮いている。VIP待遇さながら。
こんな近さで見たら死んでしまう、とあまりの緊張で震えながら母と2人で20分ほど待っていると、明るかった会場がふっと暗転して、ついに開演のSEが鳴り響いた。
待ちに待ったライブは、もうほんとうに感無量としか言いようがなかった。
走馬灯のような記憶の中で間違いなく一番色濃く残っているのは、演奏の途中でボーカルの方が僕達の目の前まで来て歌ってくれた一幕だった。手を伸ばせば触れるくらいの距離でボーカルの方が歌いながら、ふいに車椅子の母と目を合わせて確かに一瞬うなずいてくれたのだ。この上ない出血大サービスに隣でわんわん号泣する母。
これまで母と色んなバンドのライブに行ってきたが、間違いなくこの日が人生最高のライブになった。
アンコールを含め、あっという間に約2時間30分のライブが終わり退場のアナウンスが流れる。
すると、僕達のところにスタッフの方がすっと近づいてきて「お客さんが全員退場されてからご案内いたします」と恭しく伝えられた。
ライブだけで十分過ぎるほど良い思いをさせてもらったのに、この後会えるなんてそんな贅沢があっていいんですか...?
あまりの緊張と恐れ多さで、正直生きた心地がしないまま母と2人でじっと待つ。
そしてスタッフの方から再び声がかかる。
「こちらへどうぞ」と案内されたのは、楽屋スペースへと繋がる扉の目の前だった。
この扉の先に彼らがいる...!心臓が張り裂けそうな思いで母と一緒に待つ。
そして5分後。ついにその扉が開かれた。
扉の向こう側から、メンバーのみなさんが手を振りながらこちらに向かって歩いてくる光景がさっそく目に飛び込んできて、あまりの神々しさに僕と母は言葉を失ってその場で固まる。
まずはお礼を言わなくては! 口をぱくぱくさせながら真っ白になった頭で必死に言葉を探していると、まさかのボーカルの方から「えっお母さん若くないですか!? 本当にお母さん?」と笑顔で話しかけてくださった。
この時点で母は大号泣。
場が一気に和んで、それからは車椅子の母を取り囲みながらメンバーの皆様とお話をさせていただいた。
ベースの方は、僕の目をまっすぐ見ながら「DM見たよ」と言ってくださり、ギターの方はわざわざ楽屋からピックを持って来てくださったようで母はそれを手渡しで受け取っていた。そしてドラムの方はその一部始終を仏のような温かい眼差しで見守ってくださっていた。
10分ほど色んな話をさせてもらった後、母と僕の2人分のサインを書いていただき、メンバーの皆様と写真まで撮らせていただいた。
コロナ禍もあり握手については半ば諦めていたので、こちらからは何も言わないでいたところ、なんとボーカルの方から「ちゃんと消毒すれば大丈夫だから!」と言ってくださり、最後にメンバーの皆様と握手もさせていただいた。細くて長い指先なのに握ると手のひらがしっかりと分厚くて、そしてビックリするくらい温かい手だったのを今でも鮮明に覚えている。
握手を終えて、最後に出来る限りの感謝を伝えると、「グッズいっぱい買ってくれればいいから!」と笑いながら言ってくださり、和やかな雰囲気でお別れをした。
後日、母は自身の闘病日記にて「確実にこの日は癌が消えてたと思う」と綴っていた。
メンバーとの写真に映る母は、癌なんか全く感じさせないほど幸せそうに笑っていた。
推し俳優との奇跡
前述のライブの一週間後、母は横浜で開催されるタイの俳優達による大規模フェスに参加するべく、家族の同伴で新潟から横浜へ向かっていた。
推しの初来日イベントらしく、癌になる前から母はこの日をずっと楽しみにしていたのだ。
いくつかある母の推し活アカウントのうち、このタイ関係が一番フォロワーが多く、その界隈の中で母はある意味有名人だったようで、どこかの国の王女様さながら、本当に大勢の方が車椅子の母を見舞いに来てくれた。
その推し仲間の一人が、まさかのサプライズを用意してくれていたのだ。
スマホで見せてくれたのはなんと、母の推しによる自撮りの応援メッセージ動画だった。
「Hello, ◯◯(母の名前)さん〜!
いつも◯◯さんを応援しています。」
インスタのフォロワーが400万人を超えるほどの世界的アイドルが、iPhoneで自撮りをしながら母の名前を呼んでいる。しかも、ひとつひとつ丁寧な日本語で話しかけてくださっていた。
その後はタイ語で、
「早く良くなってくださいね。
僕はいつも応援しています。
快方に向かうことを願っています。
また会いましょう。」
と親身な言葉を送ってくださった。
この動画は母の推し仲間があらゆる手段を使って実現したもので、母の推し俳優とそのマネージャーは母の病気のことを知ってすぐに快諾してくれたそうだ。
家族みんなでこの動画を擦り切れるほど見て、そのあと爆速でインスタをフォローした。
2023年6月8日。
癌宣告を受けてから約1年が経とうとしていたその日に、例の推しバンドのライブDVDが届いた。
僕と母が行ったツアーのファイナル公演が収録されたDVDだ。
母と夕飯を食べ終えた後に、リビングで一緒に見ることにした。
あの時の感動を母と思い出しながら見始めること30分。ふと、隣にいる母の瞼が何度か長い時間閉じていることに気付く。
「眠いの?」と尋ねると、その度に母はゆっくりと目を開け「眠くないよ」と答えるが、その様子はどこか感情を失っているようで、その時点で何となく違和感を覚えた。
本人は眠くないと言い張るが、明日また一緒に見ればいいだろうと思い、DVDを途中で停止し、その日は母を寝かせることにした。
結局、それが母と観た最期のライブになってしまった。
翌朝。
母はあまり眠れなかったようで、朝からかなり調子が悪そうに見えた。
そしていつもと明らかに違ったのは、会話があまり上手く出来なくなっていたことだった。
喋ることは出来るが、何となく感情がこもっていないような感じで、そして時々同じことを何度も繰り返し喋っていた。
癌になってからこんな症状が出たのは初めてだったので父と僕はたまらなく心配になり、父が急遽仕事を休んで母を病院へ連れて行くことになった。
出勤する直前まで母の肩をマッサージしていた時、唐突に母がボソッと「そろそろかな」と呟いた。
その言葉を聞いて、僕は否定することができなかった。
何も言えずに母の肩を軽く叩くと、いつものように「いってらっしゃい」と母は小さく笑った。
言葉にしたくない何かの予兆を感じながら、重い足取りで職場に向かった。
ほぼ何も手につかない状態で午前中の仕事を終わらせ、休憩時間にスマホを手に取ると、病院にいる父から何件か着信が入っていたことにようやく気付く。
折り返し電話をすると、電話口の父の声は震えていた。
父は震える声で主治医から言われた言葉を僕に伝えてくれた。結論として、母は"明日亡くなってもおかしくない状態"とのことだった。
会社を早退し、急いで病院に向かう。
病室に着くと、日常と何ら変わりのない様子の母がいて少し驚いた。危篤状態を想像していたが、ベッドに座って普通に父と会話をしていたのだ。ただ、朝感じたような会話の違和感はいまだに続いていた。
いかにも明日亡くなるような人間には到底見えなかったが、主治医によると母の状態は肝性脳症と言われるもので、癌によって肝臓がほとんど機能しておらず、それにより毒素が分解できずに脳にまで毒が回ってるので会話もおぼつかなく、すでに手の施しようがない状況とのことだった。
そんな母だったが、変なところで頭が冴えていた。母以外の患者も一時的に運ばれている広めの部屋だったので近くに看護師さんたちも何人かいたが、それに気付いた母が突然「みなさん、私のために残ってくださってるんですよね? あの、ほんと無理なさらないでください!」と急に笑顔を振りまいたのだ。危篤患者からの謎の気遣いに思わず吹き出す看護師さんたち。それを見て私たち家族もみんなで笑った。
その日の夜は、コロナの関係で面会不能な病棟で母は一晩過ごすことになったので、みんなで母を見送って病院を後にした。母が今夜持ち堪えれば、次の日からは面会可能な病棟に移してくれるとのことだった。
そうしてほとんど眠れずに迎えた翌朝。
病院から電話があり、母の呼吸が危ないので今すぐ病室に来てほしいと急に告げられる。
顔も洗わずに家を飛び出し、家族みんなで病院へ向かった。
病室での情景は昨日のことのように鮮明に覚えている。
病室に着くと、ベッドで仰向けになっている母の姿が目に飛び込んできた。
口を大きく開けて、いつ止まってもおかしくないほどゆっくりとした呼吸を、途切れ途切れに、そしてひとつひとつ全身で一生懸命している。
僕たちのことが見えていたかどうかは分からないが、視線は天井を向いていた。
今にも消えそうなほど小さな火を取り囲むように、家族みんなで泣きじゃくりながら声をかけ続ける。
「最高の母だったよ...!」
「向こうでも元気でね」
「今まで本当にありがとう、ありがとうね」
するとその時、母の目から一筋の涙が流れた。
家族みんながその涙にはっと気づいて間も無く、母は最期に全身で大きく息を吸ったのち、ピッタリと呼吸を止めた。
2023年6月10日午前10時18分。
遠く晴れ渡った空に母は旅立っていった。
母の最後の一呼吸まで見届けられたことは、送る側にとってこの上ない幸せだったと思う。
病室で亡くなってからすぐに、母の体は我が家に運ばれた。家が大好きだった母にとって、こんなに早く帰って来れたのはさぞ嬉しかっただろう。家で最期を迎えられなかったとはいえ、本当にギリギリまで自宅療養が出来たわけだ。
そうしてすぐに葬儀屋が家に来て色んな段取りを行い、通夜は2日後、葬儀はその翌日に決まった。
喪主である父は感傷に浸る暇もないくらい忙しそうにしていたが、僕も職場や友人への連絡等で時間を使い、気付いたらあっという間に深夜になっていた。
もう何もやる気力は残っていなかったが、一つだけ絶対にこの日にしようと決めていたことがあった。
それは、例のボーカルの方に感謝を伝えることだった。
ご無沙汰しております。
母の件については本当にお世話になりました。
本日の朝、母が安らかに息を引き取りました。
先日ライブDVDが届き、母と一緒に半分まで観たところで母が眠そうにしていたので、また明日一緒に見ようねと話した次の日に容態が急変してしまい、そのまま自宅には帰れず最後を迎えました。
大好きな〇〇(バンド名)のライブ映像を一緒に見れたことが母との最後の思い出となり、このようなタイミングになったことに何かの運命的なものを勝手に感じております(※DVDは発売延期により、当初の予定より1ヶ月遅れで届いていた)。
朝方に私達家族が病室に駆けつけるまで母が頑張れたのも、枕元に置かせていただいたメンバー様とのお写真が少なからず励みになったのだと確信しております。最後の最後まで、あの時の思い出は母にとって生きる活力でした。
これからは僕が母の分まで〇〇(バンド名)を応援させていただきます!〇〇様の温かいお言葉に母を含め私自身も本当に救われました。この経験は一生忘れません。
改めて本当にありがとうございました。〇〇様もどうかお体ご自愛なさってください。
上記のメッセージをインスタで送ったところ、数時間後に既読がついたが、しばらく待っても返信はこなかった。
感謝を伝えられるだけでも十分過ぎると思っていたので、既読がついたことに心の底から感謝の気持ちしかなかった。そもそも一般人のメッセージに既読がつくだけでも奇跡だ。
しかし、次の日の深夜2時52分に、まさかのお返事をいただく。
この度はご愁傷様でした。
お母さん頑張ったね
伝わってくるよ
あの時お会いすることができて本当に良かった
とても強い方だなと感じたのを覚えています
お母さんが観た最後のアーティストになることができて光栄です
天国で続きを観てほしいね
〇〇(僕の名前)君、
今は自分の気持ちに正直になれたらいいね
何かあったら言ってください
もうここまできたら友達みたいなもんだから
夜分遅くにごめんね
もうすぐ朝が来るけど、
よく考えたら本当に幸せなことだよね
お互い人生を全うしましょう
ではまた
涙でぼやける文章を必死に読んだ。なんて素敵で温かい言葉なんだろう。こればっかりは母に見せることが出来ないので、母の分までしっかりと言葉を受け止めるつもりで、擦り切れるほど何度も読み返した。
そして翌朝、このDMを紙に印刷して母の棺に入れる準備をしていた時、他にも何か入れてあげようと家中を物色していたところ、母がよく使っていた収納バッグから見覚えのない青い封筒を何枚か発見した。
ドラえもんのイラストが描かれているその封筒は全部で4通あり、それは母を抜いた家族の人数と一致していた。ご丁寧に家族一人一人の宛名が手書きで記されている。どうやら僕達に内緒で、母なりの遺書をしたためていたようだ。
封筒の裏面には「5月15日」と記載されていた。つまり亡くなる1ヶ月ほど前に書かれていたことになる。ちょうどその前日の5月14日が母の日だったので、ランチにパスタを奢って喜んでいた母の姿を思い出す。まさか次の日にこんな手紙を書いていたなんてまったく想像していなくて、息が止まる思いがした。
僕宛の手紙にはこう記されていた。
〇〇(僕の名前)へ
入院中に〇〇(例のボーカルの愛称)にDMしてくれて会わせてくれたこと、本当にありがとう。
〇〇(僕の名前)のDMを開いてくれた奇跡、いたずらDMじゃないと思ってくれた誠意のあふれる文面、そして会うことをスタッフに相談して実現したこと。
あの日は何から何まで奇跡づくめの日だったね。
私はあまりにも嬉しくて、写真やサインだけじゃなくて、DMのやり取りも全部友達に見せたよ。
メンバーに会えたのも嬉しいけど、本当はここまで私のことを思ってくれたのが一番嬉しかった。
見せた友達はみんな〇〇(僕の名前)の優しさに涙してました。
仕事で疲れて帰ってきても背中や足をもんでくれたり、いつも体調を気遣ってくれてたね。
結婚式や孫の顔も見てみたかったけど、欲を出すとキリがないので、あの世から見守ってるね。
素敵な家庭を築いてね。
家族に向けられた母の手紙はどれも温かく、そしてどこまでも母らしい文章で綴られていた。
家族みんなで泣きながら手紙の返事を書き、それを母の枕元に添えて、母は自宅から出棺した。
葬儀の会場では、母が好きだった音楽を読経の時間以外ずっと流していた。
病気になる前から自分の葬式で流して欲しい音楽の話をよくしていたので、改めて母らしい葬儀になったと思う。
式場では何曲かリピートしていたが、棺に別れ花を入れる際には例のバンドの曲が流れた。あの瞬間が無音だったら到底耐えられなかったと思う。何度も聴いたあの歌声と歌詞が、優しく背中を押してくれた。
葬儀を終え、火葬場にて最後のお別れをした。
奇しくもこの日は、父と母の31回目の結婚記念日だった。
後日、母のSNSアカウントにて訃報を伝えると想像以上に沢山のお悔やみをいただいた。
コメントやDMはゆうに100件を超え、母とのエピソードを事細かに話してくださる方も大勢いらっしゃり、本当に愛されていたんだなと誇らしく感じた。
56歳といういささか短い生涯だったが、充実という他ない時間を過ごしていたと改めて思う。
母の死を通じてまず思ったのは、やはり人生にはいつ何が起こるか分からないということ。10歳下の嫁に先立たれた父にとってはそのことがより一層重く感じられていると思う。
そして、親の死というのは子供の人生や考え方を変えるほど大きなエネルギーを持っているものだと感じる。
良い意味で、もう私だけの人生ではなくなったのだ。これからは母の分の縁もいただいて、しっかりと人生を全うしようと誓った。
もちろん今は癌が憎いけど、事件や事故で亡くなるのとは違い、癌という病気はある程度死への準備が出来る。
この1年間は間違いなく宝物のような日々だった。
こうして書いてみると、まだまだ他にも書きたいことが山ほど浮かんでくるが、キリがないのでこの辺で。
母さん、ここまで頑張ってくれて本当にお疲れ様。
やっと楽になれて、今頃思う存分推し活できてるかな。
カフェとかライブにも二人で沢山行って、年の離れた親友のような付き合いができて本当に幸せでしたよ。
そっちに行ったら、また色んなところに出かけましょうね。

