推しが消えたので、私は書くことを覚えた
2024年5月22日。
予告のない隕石が、私の頭上に落ちた。
とある声優の不倫報道。彼は名探偵コナンの安室透に声を当てていた。そして、安室透ファンと関係をもったらしい。
――そして私もまた、安室透のファンだった。
しばらくの間、涙を拭う気力すら残っていなかった。
安室透は、多くのものを失ってきた。警察学校時代の同期は全員亡くなり、公安として正体を隠して黒の組織へ潜入している。子どもの頃はいじめを受け、初恋の人ももういない。外では穏やかな好青年として振る舞うけれど、その裏側にあるものはあまりにも重かった。
スピンオフで彼の部屋が描かれたことがある。異様なほど殺風景だった。まるで、いつどうなってもいいように、最初から生活を置いていない部屋。テレビすらない部屋で、彼は一人、頭を抱えていた。私はその部屋を見た時、空っぽの部屋だけを残し、ある日突然いなくなってしまう人間の気配を感じた。
帰る場所がないわけではない。仕事もある。人間関係もある。それでも、自分の内側にあるものだけは誰にも触れさせないまま、一人で沈んでいく人の気配だった。
なぜあの部屋が気になったのか、今なら少し分かる。私はたぶん、あの部屋の静けさに、自分の孤独を見ていたのだ。食べ終わったカップ麺の容器に、箸が刺さったままになっている。誰も困らない。自分のことは、つい後回しになる。
幸せになってほしいと思った。ただ、笑っている顔が見たかった。だからこそ、あの日はきつかった。SNSを開けば、言葉が流れてくる。
「不倫してそうな声」
その一言を見た瞬間、好きだったものに、別の意味が混ざった。それは汚れる、というのとは少し違っていた。もっと曖昧で、もっと厄介なものだった。一度混ざってしまったものは、もう元には戻らない。
スマホのバックライトが、やけにまぶしかった。画面の向こうでは、安室透が静かに笑っていた。
それから少しずつ、空気が変わっていった。新しい情報は止まった。作品だけが、宙吊りのまま時間の中に残された。何も決まっていない。終わったと言うことも、続いていると言うこともできなかった。当時は「このまま安室透というキャラクター自体が消されるのではないか」という噂まで流れていた。
答えの出ない不安に打ちのめされたまま、気づけばSNSを開いていた。同じように困っている人を探していた。 私だけではないと知りたかった。検索欄だけが何度も更新されていった。
そして私は、pixivに潜った。
息継ぎをするみたいに、「名探偵コナン」と検索し、片っ端から読んだ。そこには、変わらない世界があった。安室透がコーヒーを淹れ、コナンが推理をする。昨日までと変わらない時間が流れていた。
壊れていなかった。
少なくとも、そこでは。私は少し泣きながら、読み続けた。
物語の中で彼が救われるたびに、私も一緒に救われた。凍えていた指先に少しずつ神経が戻るみたいに、心がゆっくり動き始めた。
安室が喫茶ポアロで少年探偵団とお茶を飲んでいる。ただそれだけの話だった。それだけで、十分だった。
半年後。今度は別の問題が起きた。読めるものが、なくなった。新しく投稿される作品も、ひとつ残らず読んだ。それでも足りなかった。私は気づいてしまった。
続きを読みたいのではない。あの世界が、まだ続いていてほしかったのだ。
その時、ふと思った。
「じゃあ、自分で書けばいいのでは?」
pixivに並んでいた物語も、誰かが「好き」で書いたものだった。
私も好きだった。
コナンが好きだった。
安室透が好きだった。
理由は、それで十分だった。
私は二次創作を書き始めた。
私はまず、かなり強引な形で安室透を阿笠博士の家に住まわせた。居場所を作りたかった。彼を一人にしたくなかった。
阿笠博士は、孤独だった灰原哀を受け入れた人だ。そして同時に、灰原哀がいたからこそ、博士自身も救われていた。
私はあの家の空気が好きだった。子どもたちが遊びに来る。誰かが勝手に冷蔵庫を開ける。博士が困ったように笑う。
安室透にも、帰れる場所があっていいと思った。子どもたちを見守り、くだらないことで笑っていてほしかった。だから私は、まず彼を帰らせることにした。
戦う前に。
救う前に。
帰る場所を作った。
私の物語は、そこから始まった。
ちょうどその頃、公式も少しずつ動き始めていた。新しい声優が決まり、映画も公開された。
供給は戻った。『隻眼の残像』も観た。新しい安室透の声も聞いた。それでも、帰るとパソコンを開いて執筆。気づけば、物語の見方が変わっていた。
たった一文で泣いてしまう日がある。 何気ない会話が、何年も心に残ることもある。 言葉は、人の心に住みつくのだと思った。「帰る場所」という言葉を見ても、家が浮かぶ日もあれば、人の顔が浮かぶ日もある。
二次創作を書き終える頃には、オリジナルを書き始めていた。驚くほど下手だった。比喩はぎこちなく、文章も固い。不思議と楽しかった。書いている間だけは、少しだけ前に進んでいる気がした。
毎日会いに行く。様子を見て、「やっぱり書くことが好きだ」と確かめる。
何をしていても頭の中には物語があり、気づけばまたキーボードの前に座っていた。
それは、恋に近かった。
キーボードの上で寝落ちし、朝日のまぶしさで目を覚ます。座ったまま眠るのがきつくなると、今度は寝たままでも書けるように、無線キーボードとマウスをベッドへ持ち込んだ。部屋のレイアウトまで変え、キーボードと添い寝する日々が始まった。飲もうと思って淹れたアイスティーは、気づけばいつも氷が溶け、結露で机を濡らしていた。
そうして私は、きれいに燃え尽きた。ある日から、キーボードに触れようとするだけで身体が震えた。身体が、書くことそのものを拒絶しているようだった。
書きたい。でも、書けない。
その後半年間、キーボードには触れられなかった。横になって眠るか、ベッドに持ち込んだスマホで書くか。その二択の日々だった。おかげで、スマホの入力だけはずいぶん速くなった。
誰にも読ませるつもりはなかった。だから最初に見せた相手はAI。恥ずかしくなれば、画面を閉じればいい。それくらいの気持ちだった。
AIは思ったより丁寧だった。良いところも、足りないところも、一つずつ返してくれた。採点を頼むと85点。どうもしっくりこなかった。基準を厳しくして採点し直してもらうと、55点になった。思わずガッツポーズをした。
あと45点、伸ばせる。
少しずつキーボードにも戻れるようになった。気づけば、また離れられなくなっていた。トイレにまでタブレットを持ち込み、続きを書く。
「あと少しだけ」
その一言を、毎日繰り返していた。
時計は午後八時を指していた。
その時間までの記憶が、すっぽり抜けていた。子どもはもう帰ってきていた。リビングには、食べ終わったカップ麺の容器。夫がそれを静かに片付けていた。
「もう先に食べたから」
やらかした。
「ごめん」
「夢中になるのは分かる。でも、ご飯だけは忘れないで」
子どもはただ静かにそのやりとりを見ていた。
リビングに置かれた空の容器は、あのとき彼の部屋に見た、寂しさの記号そのものだった。
だから決めた。
書くために、戻る。
戻るために、書く。
家事は午前中に終わらせ、家族が帰る前に書き終える。夜は九時に寝て、午前三時に起きる。まだ世界が静かな時間に、書くためだけの場所をつくった。
そうしてようやく、私は安心して文章のことだけを考えられるようになった。
ある日、AIに聞かれた。
「この作品、誰にも見せないの?」
作品は、自分の中で完結するものだと思っていた。
だから聞いた。
「どこかに発表できるのかな?」
「noteって知ってる?」
私はそのまま登録した。そして最初の記事を投稿した。
反応はほとんどなかった。当然だった。誰も私を知らない。私も、誰も知らない。それでも、不思議と落ち込まなかった。ただ投稿ボタンを押しただけなのに、確かに何かが変わった気がした。自分の文章が、外に出た。それだけで十分だった。
数日後、通知が一件届いた。知らない人からのコメントだった。短い文章の最後に、こう書かれていた。
「また来ますね。」
思わず、何度も読み返した。
また来る。
その言葉が、不思議だった。私はずっと、待つ側だった。なのに今、画面の向こうで、誰かが私の次の文章を待つと言ってくれている。
名前も知らない。一度も会ったことがない。それでも、また読みに来ると言ってくれた。その一言は、「スキ」よりもずっと重かった。
文章は誰かに届き、その人が「また来ます」と言ってくれた瞬間、初めて誰かとの約束になる。誰かの時間の中に残る。その約束が、今日も私を机へ向かわせる。
書きたいから書く。
それだけだったはずなのに、いつの間にか、待ってくれる人がいるから書く時間も生まれていた。
初めて知った。推しの物語を待つことと、自分の物語を待たれることは、まったく違っていた。
今でも時々思う。あの日、あの報道がなかったら、私はどうなっていただろう。たぶん今も、コナンを読んでいた。映画を観て、グッズを買って、新しい供給を楽しみに待っていたと思う。それはそれで、十分に幸せだったはずだ。でも、文章は書いていなかった気がする。少なくとも、こんな風には。失ったものを数えるうちに、別のものを手にしていた。
私は文章によって安室に居場所を作った。
そして私もまた、文章によってnoteに居場所ができたのだ。
あの日、スマホのバックライトはやけにまぶしかった。 光の強さは変わらない。 ただ、今はもう、画面の前で泣いていない。
私は、今日も書いている。
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