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『ブルーに生まれついて』愛よりもトランペットを選んだ男は、血を流しながら吹き続けた── ジャズに蝕まれた天才の、美しすぎる破滅【ネタバレあり】

好きです、この映画。とても。

観ている時間は幸せで、だけど切なくて、脳の奥まで浸されていく感覚がある。心地よいのに苦い。甘いのに痛い。ジャズという音楽が持っている矛盾が、そのまま映画になったような作品だった。


あらすじ(ネタバレなし)

1960年代。ジャズ界の頂点に立ったトランペッター、チェット・ベイカーは、ドラッグのトラブルで暴行を受け、歯を失う。トランペッターにとって歯を失うとは、声を失うのと同じだ。

イーサン・ホーク演じるチェットは、義歯をはめ、血を流しながら、もう一度あの音を取り戻そうとする。恋人ジェーンとの関係、業界の冷たさ、そして何より自分自身の弱さとの戦い。──これは「復活」の物語に見えて、実はもっと残酷な問いを突きつけてくる映画だ。


イーサン・ホークという奇跡

この映画の話をするなら、まずイーサン・ホークの話をしなければならない。

とんでもないはまり役だった。

愛嬌のあるヒモ男を演じさせたら、彼の右に出る者はいない。あのどうしようもなく放っておけない感じ。誰かに寄りかかって生きているのに、不思議と憎めない。むしろ目が離せなくなる。それ故に愛され、それ故に人を傷つけもする。

上目遣いがたまらない。

何かを決断する前に、ギュッと目を瞑る。あの一瞬に、チェット・ベイカーという人間のすべてが詰まっている。弱さも、ずるさも、それでも音楽を手放せない業のようなものも。仕草ひとつ、表情ひとつから感情が読み取れたり、読み取れなかったりする。あの翻弄されるような感覚に、こちらも息が詰まる。

そして──歌声。

まさに天使の歌声、というしかない。耳に心地よくて、物悲しくて、お涙頂戴の話じゃないはずなのに、なぜか涙が出てきた。ずっと聴いていたい。極上の歌声。イーサン・ホークがあの声を出しているという事実だけで、この映画を観る価値がある。


歯を失うということ

トランペットは唇で吹く楽器だ。歯がなければ、唇を支えるものがない。息が漏れる。音が割れる。

チェット・ベイカーにとって歯を失うとは、「自分」を失うことだった。

映画の中盤、義歯をはめて初めてトランペットに唇を当てるシーンがある。音が出ない。唇から血が滲む。それでもチェットは吹こうとする。あのシーンの痛みは、とても直接的だ。目を逸らしたくなるのに、目が離せない。

「才能」は精神や努力といった抽象的なものじゃなく、もっと生々しい肉体の上に成り立っている。歯という、こんなにも脆いものの上に。だから肉体が壊れたとき、才能も一緒に壊れた。

私たちは「才能は消えない」と信じたい。でもこの映画は、そんな慰めを許してくれない。


チェット・ベイカーは「愛」を手放した

この映画の核心は、ここにある。

チェットは、はじめて手にした本当の愛よりも、音楽を選んだ。ジェーンという、彼を本気で愛してくれた人がいた。それでも、チェットはジャズを選んだ。

彼にとってジャズはヘロインのようなものだったのか。それとも「病気」だったのか。あるいは、いたって素面で、プレイヤーとしてしか生きられないことを知っていたのか。

答えは映画の中にも出てこない。出てこないけど、あのラストの演奏を聴けば、言葉なんかいらなくなる。

トランペットを吹いていないとき、チェットはほとんど透明人間だ。ドラッグに溺れ、人を裏切り、約束を破る。でもトランペットを手に取った瞬間、すべてが変わる。あの音が出た瞬間だけ、彼は「チェット・ベイカー」になる。

音楽だけが彼を「彼」にする。こんなに残酷で、こんなに美しいことがあるだろうか。


ジャズはプレイヤーを蝕む

この映画を観終わって、ひとつの問いが残った。

ジャズはプレイヤーを削って蝕む音楽なのか。だからこそ美しいのだろうか。

チェット・ベイカー。ビル・エヴァンス。チャーリー・パーカー。ジャズの歴史には、音楽に蝕まれて壊れていった天才たちがいる。まるでジャズという音楽そのものが、演奏者の命を燃料にして燃えているかのように。

この映画は、その構造を美化も否定もしない。ただ、ひとりのトランペッターが唇を押し当てるシーンを映すだけだ。血が滲んでいるかもしれない。痛いのかもしれない。でもあの音が鳴った瞬間、映画館の空気が変わる。

あの瞬間のためだけに、この映画はある。


おわりに

「ブルーに生まれついて」──このタイトルが、すべてを言い表している。

ブルーは悲しみの色だ。ジャズの色だ。チェット・ベイカーの音の色だ。彼は生まれたときからブルーだった。そしてブルーのまま、吹き続けた。

この映画を観終わったあと、チェット・ベイカーの「I Fall in Love Too Easily」を聴いた。あの声が、映画の前とは違って聴こえた。壊れかけの楽器から漏れ出る、最後の一音のように。

ジャズはプレイヤーを蝕む。だからこそ美しい。

そしてイーサン・ホークは、その美しさと残酷さを、仕草ひとつで体現してみせた。ヒモでジャズを嗜むイカしたグラサン男。でもその奥に、どうしようもない孤独と、音楽への狂おしいほどの愛を隠している。そんなチェット・ベイカーを、イーサン以外の誰が演じられただろう。

存分にイーサン・ホークとジャズを堪能できる、極上の97分。お腹いっぱいです。


作品情報: ブルーに生まれついて / Born to Be Blue (2015) / ロバート・バドロー監督 / イーサン・ホーク、カルメン・イジョゴ / 97分

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