映画みたいな写真が撮りたい・撮られたい
これは、今日10月29日にインスタのストーリーを更新しながら考えたことを、記録として残しておく備忘録である。
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私は別の名義で、10年ほどコスプレを趣味としてきた。
写真を撮られることが昔から好きだ。
どんな写真にするか想像を膨らませていく時間も、
撮影当日の緊張と高揚も、
仕上がった写真を眺めながらニヤニヤしてしまう瞬間も、
すべてが好きだった。
けれど最近になって、「撮る側」と「撮られる側」の両方でポートレート撮影を始めるにあたって、
モヤモヤすることが増えた。
今まではただ「撮られること」が楽しかったのに、
なぜか今回はその楽しさだけでは終われない。
もっと考えなければならない気がしている。
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被写体としての私は、これまで回数は多くないものの何度かポートレート撮影を経験してきた。
「いわゆるポートレート写真」というものが、この世には確かに存在しているように思う。
背景はシンプルで、被写体の顔がどんと中央にある。
笑顔か、真顔か、もしくはその中間。
雑誌にもSNSにも溢れているような、均一的な写真。記念写真みたい。
私は、それを撮りたい・撮られたいとは思わなかった。
過去のポートレート写真を見返すと、
表情が平板で、目に奥行きがない。
撮られているのは確かに私なのに、
まるで他人のようだ。
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不思議なのは、
コスプレ撮影やスタジオ撮影のときは、そんな違和感を感じたことがないこと。
衣装を着て、キャラクターの世界に入り込んで、
ひとつひとつの仕草を考えて撮影に臨む。
そういうときの写真は、生きている。
でも「ポートレート」と名のつく撮影になると、
途端に表現がチープになる。
同じ私なのに、どうしてだろうと首をかしげていた。
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そんなことをぐるぐる急に考えてしまった今日、
映画を作っている話を聞いた友人との話がふと頭をよぎった。
彼が話していた「シーンの意味」や「登場人物の動機」という言葉を思い出したとき、
やっと腑に落ちた。
——映画を撮るように、写真を撮りたい。
これが、今日ようやく言語化できた私の答えである。
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私に足りなかったのは「ストーリー性」と「キャラクター性」だった。
コスプレ撮影ではそれを10年間も続けてきたはずなのに、いつの間にか置いてきてしまっていた。
写真を見るだけで背景が想像できたり、
ひとつのカットに物語を感じたり、
そんな作品を私はずっと撮ってきたのに。
ポートレートという言葉に引っ張られて、
「私」をただそのまま出そうとしすぎていたのだろう。
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思い返せば、とても満足できた撮影もあった。
そのときは事前にしっかりテーマを決め、
資料をまとめて撮影に臨んだ。
衣装や構図だけでなく、コンセプトまでを細かく想定していた。
あれがうまくいったのは、偶然ではなかったのだと今になって気づく。
物語とキャラクター性を与えた瞬間、私はそこに「在る」ことができたのだ。
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そこからいろいろと調べはじめ、
ChatGPTに壁打ちなんかもしながら考えを整理していくうちに、
ようやく言葉に辿り着いた。
どうやら私が目指している表現は、
「コンセプチュアルポートレート」や「コンセプチュアルアート」と呼ばれるものらしい。
言葉が見つかるというのは、本当に嬉しい瞬間だ。
指針ができる。
何を調べればいいのかがわかる。
知識は、強さだ。
「なんとなくやりたいこと」だったものが、
「私はこれをやりたい」という確かな輪郭を持つ。
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いま、私はワクワクに満ちている。
撮りたいし、撮られたい。
セルフポートレートへのチャレンジもようやくできるかもしれない。
どんな場所で撮ろうか、
どんな物語を込めようか、
どんな人間になろうか、
そんなことばかり今日は考えている。
10年続けたコスプレが、
まさか次の表現につながるなんて思ってもみなかった。
でも、やっぱり全部つながっているのだ。
撮られることが好きな私も、
撮ることを始めた今の私も、
同じ一本の線の上にいる。
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映画みたいな写真が撮りたい。
ワンシーンを切り取ったような、
語らなくても物語が立ち上がるような写真。
静かな一枚の中に「もしも」「なぜ」「これから」が潜んでいるような、
そんな世界を作りたい。
まだうまくいくかどうかはわからない。
でも今は、それを考える時間そのものが楽しくて仕方ない。
ああ、なんて幸せなんだろうか。
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