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世界一わかりやすい落合陽一入門~早すぎた魔法使いの系譜

落合陽一。

筑波大学の准教授(2025年現在)で、「デジタル・ネイチャー」という独自の思想を掲げ、「現代の魔法使い」とも称されるメディアアーティストである。

彼の単著デビューは2015年。当時の彼は、博士課程を修了したばかりの20代で、世間的には「突如現れた謎の天才」として一気に注目を集めた印象だったように思う。

正直なところ、私の第一印象は「うさんくさい人」であった。だって、「現代の魔法使い」と称されているんだから、そう思ってしまうのも、無理はないだろう。

もちろん、彼があまりに「天才」すぎて、周囲が勝手にそう呼んでいる──という話なら、まだ理解できる。だが実際には、落合陽一自身が「黒いマントにシルクハット、そしてハリー・ポッターが持っていそうな竹ぼうき」という姿で登場していたのだ(当時、そういう宣材写真があった)。

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それを見たとき、「え、自称なの!? 自分で『魔法使い』を名乗るって、さすがにヤバくない?」と思ったものだった。

しかも、「メディアアーティスト」という肩書きもよくわからない。

かつて「ハイパーメディアクリエイター」なんて謎の肩書きが一世を風靡し、ネットでも「ネタ(うさんくさい肩書きの代名詞)」としてよくいじられてたのを覚えているが、「メディアアーティスト」も、どこかそれと同じ匂いがしたのだ。

さて、そんな落合陽一であるが、彼が何を考え、何を目指しているのか──それを今回は私なりに紹介してみたいと思う。

■落合陽一の未来予測「魔法の世紀」

コンピューター(=計算機)が進化し続けたら、世界はどうなるのだろうか?
この問いに対する落合陽一の回答は、以下である。

「映像の世紀」から「魔法の世紀」になるよ!

映像の世紀」とは、まさに今の時代のこと。私たちは日々、スマホやテレビで映像を見ながら生活している。だから、「映像の世紀」だ。

では、「魔法の世紀」とは何か?
それは、空間上に(本来そこに存在しないはずの)物体が現れ、さらにそれに触れることができるようになる時代のことである。

たとえば、「疲れたー」と腰を下ろすと、その場所にパッと椅子が現れ、そこに座れる。そして、立ち上がると、椅子はパッと消える

そんな未来像──まさに「魔法のような」世界。
それが「魔法の世紀」であり、そういう時代がもうすぐ来るのだと、落合陽一は語る。

いやいや、さすがに、そんな時代が来るとは思えないし、あまりにも妄想が過ぎるように思える。だが、そう結論づける前に、なぜ彼がこのような発想に至ったのかを知っておこう。

鍵は、コンピューター開発の歴史にある。

■偉人伝(ベジータ編):アラン・ケイという天才

まず登場するのは、天才アラン・ケイである。

1973年、彼は世界初のGUIコンピューター「Alto(アルト)」を開発した。GUIとは、ようするに、マウスでぐりぐり動かして、ポチポチとクリックしながらコンピューターを操作する、あの仕組みのことだ。

それまでのコンピューターといえば、真っ黒な画面に向かって、キーボードでカタカタとコマンドを打ち込んで操作するのが当たり前だった。その常識を打ち破り、「マウスでポチポチ操作する」という新しい世界観を最初に生み出したのは、一般的にはApple社のMacだと思われがちだが、実はアラン・ケイがその10年も前にすでに実現していたのである。

この時点で彼の天才ぶりは十分すぎるほど伝わるが、さらに驚くべきは、彼が描いていた「未来のコンピューター像」である。

アラン・ケイはこう語った。

「将来目指すべきコンピューターの姿はこうだ。それは、片手で持ち運べて、音楽や映像を扱え、タッチ操作で子どもでも簡単に使える。しかも、ユーザー自身が自由にアプリを作れるようにするべきだ」

この構想を、彼は論文の中でイラストとして描いているのだが──

──え、待って待って!
片手で持ち運べて……音楽や映像が扱えて……子どもでも使えるタッチ操作……
それって──

いやいや、時代を考えてほしい。これは1970年代の話である。そんなものオーバーテクノロジーすぎるだろう。
当時は、コンピューター1台が何千万円もした時代。そもそも「個人がコンピューターを持つ」なんて発想すら現実味がなかった頃だ。そんな時代に、彼はすでに「薄くて板状の、片手で持てる、遊び道具のようなコンピューター」を真剣に構想していたのである。常識的に見れば、倍プッシュで顔面蒼白になるレベルの妄想だったに違いない。

だが、アラン・ケイは本気だった。彼はこんな言葉を残している。

未来を予測する最善の方法は、それを発明することである

無ければ、俺が作ればいい。作る努力をすれば、その未来がやってくる。そんなことを言ってのけて、本気で形にしようとしていたのが、時代を超越した天才、アラン・ケイだったのだ。

■偉人伝(フリーザ編):アランの上司・サザランド

だが実は、そんなアラン・ケイにも「上司」がいる。彼が所属していた研究組織で、彼を指導していたのが、アイバン・サザランドである。

少し古い例えで恐縮だが、ドラゴンボールで言えば、アランがベジータなら、サザランドはフリーザ様にあたる存在だ。つまり、最強だと思っていたら、さらに上がいた──そんな熱い展開である。というか、「サザランド」って名前からして、ラスボス感がすごい。

ともあれ、あの天才アラン・ケイの上司であるのだから、当然、ただ者ではない。

ある日、サザランドはアランにこう問いかけた。

サザランド「アランさん、究極のディスプレイ(モニター)って、何だと思いますか?」

アラン「え? うーん、そうですね。今より小さくて、薄くて、手のひらサイズで、子どもでも使えるような……」

サザランド「ホッホッホッ、違いますよ、アランさん。それでは『究極』とは言えません。答えは、部屋ですよ、部屋! 部屋そのものがディスプレイになるんですよ!」

アラン「え……マジですか……」

……え? どういうこと?
アランも十分ぶっ飛んでいたが、サザランドはさらにその上をいっていた。

だが、よくよく考えると、サザランドの発想は実に合理的だと言える。アイデアという観点から見れば、まさに「次元を超える」という思考法なのだ。

■次元を超える発想:水平思考 VS 垂直思考

世の中には、水平思考垂直思考という2つのアプローチがある。
アラン・ケイはたしかに天才だったが、彼の発想は「今ある技術の延長線上で未来を描く」タイプ──つまり、水平思考であったと言える。

実際、アラン・ケイが構想した未来のディスプレイとは、当時あったモニターを「もっと小さく、もっと薄く」するという方向で進化させたものだった。

だが、サザランド様は違う。彼の発想は、今ある「次元」そのものを飛び越える──垂直思考であったのだ。

そもそも、従来のディスプレイは、2次元の映像を表示する「板」のような存在である。その板を大きくしたり小さくしたりするのは、あくまで同じ次元内での改良に過ぎない。しかし、サザランド様はこう考えた。

本当の進化とは、次元を超えることだ

つまり、2次元から「3次元」へ。
平面から「空間」へ。
板から「部屋」へ。

■椅子を表示すると椅子が現れる世界

では、もしディスプレイが本当に「3次元」になったらどうなるのか?

これまでのディスプレイでは、「椅子を表示しろ」と指示すれば、画面に椅子の「絵」が表示された。

しかし未来のディスプレイでは、「椅子を表示しろ」と言えば、そこに本物の椅子が空間に現れる──そう、空間全体が表示装置となり、バーチャルとリアルが融合する世界になるのだ。

■サザランド様のバーチャルリアリティ構想

サザランド様は、1960年代の段階で、すでに独自のバーチャルリアリティ構想を語っていた。ただしそれは、私たちが想像しがちな、「ヘッドマウントディスプレイをかぶって仮想空間に没入する」という話ではない。彼は、実際にこう語っている。

「究極のディスプレイとは、椅子を表示すれば人が座れ、手錠を表示すれば人の自由が奪え、弾丸を表示すれば人が殺せる──そういうものである」

この発言は、1965年に実際に語られたものだが、まったくもって驚きである。つまりサザランド様が目指していたのは、コンピュータが表示したものと現実の区別がつかなくなる世界。もっと言えば、「バーチャルをリアリティにしてしまおうぜ!」という話なのだ。

目の前にある木が、本当に生えている木なのか、それともコンピューターが表示しているだけの木なのか──もはや見分けがつかない。いや、そもそも見分ける必要すらない世界。そんな、究極のディスプレイを作ろうと夢見たのが、次元を超越した大天才、アイバン・サザランドだったのだ。

■デジタル・ネイチャーの世界観

あれ? ……この話、どこかで聞いたことがないだろうか? そう、落合陽一が提唱する「デジタル・ネイチャー」である。彼の思想をひと言でまとめるなら、こうだ。

「コンピューターが生み出したもの(デジタル)が、当たり前のものとして空間上に存在し、人間にとって自然(ネイチャー)として受け入れられる世界を作ろう」

たとえば──

  • 公園の芝生の中に、デジタルの「葉っぱ」が混ざっていて、風で本物の葉と一緒に揺れる

  • 見た目も手触りも「水」にしか見えない液体が、実はCGだが、触るとちゃんと冷たい

そんな「人工なのに自然」な世界。

こうした「違和感のないデジタル」が、まるで日常の空気のように身の回りに存在する。それが、デジタル・ネイチャーという概念だ。
この世界では、「デジタルとリアル」「人工と自然」「バーチャルと現実」といった、私たちが当然のように引いてきた境界線が、少しずつ曖昧になっていく。

つまり、結論として、落合陽一はこう言いたいのだ。

「オレは、早すぎた魔法使いサザランドの夢を引き継ぐぜ! オレは、デジタル(計算機が生み出したモノやデータ)を、従来の自然と同じように『現実のモノ』として身の回りにあふれさせ、『人工物/非人工物』の区別がつかない世界を作ってみせる!

それが、デジタル・ネイチャァァァァッーー!!!

そして実際に、彼はその研究を行い、現実に「魔法のような技術」を作り出しつつある

それがこれだ。

※動画もあるので、時間があればぜひ見てほしい(3分ほど)
https://www.youtube.com/watch?v=AoWi10YVmfE

仕組みとしては、こうだ。

空間のある一点に、非常に短い時間、強い電磁波をぶつけると、空気がプラズマ化して「ピカッ」と光る。その光を使って、空中に絵や形を描くことができる。

この照射はごく微小な時間で行われるため、熱もなく人体に無害。でも、触るとわずかに圧力(ツンツン感)を感じるのだという。

つまり、小さな妖精が自分の周りを飛び回り、触れるとそこに“何か”があるという触覚を生み出す技術であり、これを突き詰めていけば、やがては「高解像度で、本物そっくりの触れる物体」を作れる未来も見えてくる。

■「メディア・アーティスト」という肩書き

ここまで来て、ようやく彼の肩書きである「メディア・アーティスト」にも納得がいく。

メディアとは、情報を伝える「媒体」のこと。新聞やテレビ、そしてディスプレイもその一つ。

一方、アーティストというと、絵を描いたり音楽を作ったりする芸術家をイメージしがちだが、アートの語源は「技術(art)」である。

つまり、「メディア・アーティストに、オレはなる!」は、
新しい表示媒体を作る技術者に、オレはなる!」という意味であり、
これは、サザランド様が語った「究極のディスプレイ」を目指す者に、もっともふさわしい肩書きだと言える。

■最後に:歴史を知ることで人の本質が見える

歴史を学べば、その人が何を目指しているかが、自然と見えてくる。それを知らずに、見た目や肩書きだけで判断してしまえば──

よくわからない横文字を並べて、魔法使いのコスプレをしてイケてる感を出している、目立ちたがり屋の人

──そんなふうに見えてしまうかもしれない。

けれども、その背景にある「思想」や「歴史」を知ることで、その人の本質がようやく見えてくる。だからこそ、表面的な印象だけでなく、先人を含め、人間が歩いてきた道のり(物語)にこそ注目すべきだと思う。

そして、最後に魔法使いの直弟子アラン・ケイの言葉を、もう一度引用して終わりとしたい。

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することである」


※このnoteでは、哲学や科学など、人類が考えてきた「知」を面白く解説しています。初めての方は、以下の記事から読むのがおすすめです。

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