宇宙一わかりやすい「令和人文主義」入門~じつは第二のルネサンスだった!
<前回記事:世界一わかりやすい「令和人文主義」入門>
前回は、「令和人文主義」というムーヴメントを、
“AIを駆使しながら、知を無邪気に楽しみつつ再編していく若者たちの活動”
と捉え、それを「新時代のルネサンス(=令和時代の人文主義)」として位置づけた。
今回は、この話をもう少し深掘りしてみたい。
■そもそもルネサンス人文主義とは何か
人文主義といえば、まず思い浮かぶのはルネサンスである。その時代に何が起きたのかを、簡単に説明しておこう。
当時のヨーロッパでは、知識(書物)は教会と、ごく一部のエリート学者(多くは教会と結びついた人々)に事実上独占されていた。そうした書物は、庶民の話し言葉とはまったく異なるラテン語などで書かれており、訓練された専門家以外には読むことすらできない世界だった。
しかし、やがて時代が変わる。
それまで富裕層といえば土地を持つ領主様だったが、人口の増加とともに都市が発展し、市場や貿易で大儲けする者たちが現れ始める。つまり、「ビジネスと金融の成功」で、のし上がってきた新しい富裕層が登場したのである。
彼らは金持ちで人生も順風満帆、少なくとも生活に困っているわけではなかった。だが、「高貴な血筋」があるわけではなく、所詮は「成り上がり者」である。
では、そんな彼らが求めるものは何か。
それは、やっぱり「教養」である。
「わし、金持ってるだけじゃないもんねー! すっごく教養とか、なんか、そういうの、あるもんねー!」
「わあ、ナリアガーリさん、博識でスゴい! よーし、我が家も、大金を支払ってでも、教養、身につけちゃうぞー」
こうして、金持ちをパトロンとする「人文学者」という在野の職業知識人たちが現れることになる。彼らは各地を巡り、蔵書を集め、古いテキストを読み直し、知を再編成していった。
基本的に、彼ら人文学者同士は仲が良かった。もちろん例外はあり、イヤなやつもいただろう。だが、当時はネットどころか鉄道もない時代である。蔵書(知識)は世界中にバラバラに散らばっている。だからこそ、彼らは手紙を使って情報交換し、互いに協力し合う必要があった。
「この本のこの部分の解釈、これで合ってるかな?」
「いいと思うよ。あ、そういえば探してた写本、こっちの修道院で見つかったよ」
「マジで? 助かったわー!」
彼らは、限られた大学のポストを奪い合っているわけではなく、それぞれ自分の雇い主(お客)を喜ばせることが目的である。その意味で、互いに協力し合うことは、きわめて合理的な選択だったのである。
そして、彼ら人文学者たちの活動は、最終的には庶民の話し言葉への翻訳へとつながり、活版印刷によって広く世間に流通していくことになる。
まとめると──
“特に生活に困っていない人たちのために、仲間同士で協力しながら、仲良く知を再編していく”
──これが、ざっくり言えばルネサンス人文主義という「知のブーム」の正体である。
当時の人文学者たちは、もちろん動機として「社会を良くしよう」といった大義名分も心にあったかもしれない。だが、それ以上に、単純に「知に触れられること」そのものの喜びを味わっていたに違いない。
ようするに、こんな感じだ。

つまり──

──である。
■令和人文主義は「第二のルネサンス」
さて、ルネサンス人文主義を踏まえると、令和人文主義(=若手の人文インフルエンサーたちが起こしつつある、あるいはこれから起こすムーヴメント)は、じつに似た状況にあると言える。
まず、令和以前の「知」を考えてみよう。学問的な知は膨大で、しかも細かく専門分化しており、多くは専門家だけがアクセスできるかたちで、事実上「物理的に独占」されていた。本や論文を追いかけるだけで人生が終わるレベルである。
そこにAIが現れる。そして、それを当たり前の道具として使いこなせる世代──いわばAIネイティブ世代と、「金はあるけど、もっと知的な娯楽&ドヤれる教養がほしい」と感じているビジネスパーソンたちがいることで、化学変化が起こる。
すなわち──
“AIを駆使できる若手の人文インフルエンサーたちが、膨大な専門知を高速でかき集めて再編し、金持ちビジネスパーソンを喜ばせるような知的コンテンツを、次々と量産して大人気になる”
──という光景が現れるのである。

これは、さながらルネサンスを彷彿とさせる光景と言ってよいだろう。
かつて人文学者たちが古典を掘り起こし、パトロンのために知を再編してみせたように、いまやAIを武器にした若手たちが、現代のパトロン=ビジネスパーソンのために知を組み替えてみせているのである。
令和人文主義とは、まさに第二のルネサンスである。
その名のとおり、「令和時代の人文主義」なのだ。
■ないがしろにされるアカデミック
しかしである。こうなると、アカデミックの人たちは、たまったものではない。なぜなら、新時代の若手人文インフルエンサーたちは、ろくにコストを払っていないように「見える」からだ。
こちらは何十年も青春を犠牲にし、外国語を学び、原典にあたり、厳しい先輩たちの指導に耐え抜いて、ようやく数本の論文を世に出した、というのに。あいつらはと言えば、AIをかませながら専門外の知識を縦横無尽にかき集め、あっさりと、みんなからチヤホヤされる知的コンテンツを量産していくのである。
こんなもの、フリーライド以外の何物でもない。オレたちが人生をかけて積み上げてきたテキストが、AIのインプットになり、人文インフルエンサーたちに気軽に消費されていくのだ。許せるわけがない。
(補足)ただし、有名大学の教授クラスになると、この状況に対しても意外と寛容なのではないかと思われる。これは、とある「日本で一番売れているファスト教養作家」から聞いた話であり、彼の体験談による“よもやま話”として聞いてほしい。
彼いわく、パーティなどで偉い先生(いわゆる権威ある学者)にお会いすると、こちらが恐縮するどころか、むしろ「ちやほや」されることが多いらしい。しかも、その先生が偉ければ偉いほど、びっくりするくらいフレンドリー。
「わたし、〇〇さんの本のファンなんですよ~」
「〇〇さんが、文系を盛り上げてくれて助かってますよ~」
そんなことを言われるたびに、本人は内心パニックである。「いやいや、勘弁してください。自分なんか、先生のご著書を参考に、それを何百倍にも薄めて書いてるだけのゴミです。本当にすみません!」と、毎回ひたすら平謝りしているそうだ。
いっぽうで、まだ大学のポストを得ていない人、結局ポストを得られなかった人、あるいはパッとしない大学の教員たちからは、まったく逆の反応が返ってくることが多い。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
