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のぞみ十三号車の沈黙



二〇二三年十月十三日、のぞみ十三号車。
誰も見ていないのではない。誰も、見たことにしていた。


目次

第一部 走り出す密室
 第一章 白い獣、東京を離れる
 第二章 十三号車座席表
 第三章 発車十二分の礼儀
間章 若林すみれ、発車前
間章 松永千鶴子の編み目
 第四章 トンネルの短い夜
 第五章 誰も見なかったもの
 第六章 トイレ待ちの列
 第七章 座席を替える親子
 第八章 名古屋までの沈黙
 第九章 十三号車を降ろすな
第二部 解体される時間
 第十章 アリバイという群衆
 第十一章 死者たちの共通点
間章 白雨台の雨音
 第十二章 灰色のカーディガン
 第十三章 監視カメラの白い余白
 第十四章 証言が崩れていく
 第十五章 顔を見ていない人々
 第十六章 機器記録が発見時刻を壊す
 第十七章 十三号車再現
第三部 沈黙の犯人
 第十八章 藤堂一平聴取 一
 第十九章 白雨台の証言
 第二十章 列車の中の群衆心理
 第二十一章 時間の密室
 第二十二章 最も平凡な一言
 第二十三章 藤堂一平聴取 二
 第二十四章 残された資料
 第二十五章 起訴前夜
後日譚 裁かれる時間
付章 若林すみれ、もう一度見る
終章 もう一つの十三号車


第一部 走り出す密室

第一章 白い獣、東京を離れる

二〇二三年十月十三日、金曜日。普通車のワゴン販売がこの秋で終わると告げられてから、若林すみれは、ひとつひとつの通路を前より丁寧に押すようになっていた。終わるものは、終わるとわかった瞬間から、音の輪郭が変わる。車輪の小さな軋みも、紙コップの蓋が触れ合う音も、別れの前の咳払いのように聞こえた。
東京駅十八番線に滑り込んできた「のぞみ」は、入線したというより、息を殺した巨大な獣がホームに腹を寄せたように見えた。
午後五時四十六分。夕方と夜の境目が、ホームの屋根の下でまだらに固まっている。蛍光灯の白、行先表示の赤、弁当売場の暖色、発車標の青。色という色が、人々の背中に薄く貼りつき、振り返るたびに剥がれ落ちる。
列車の扉が開くと、待っていた人々は一斉に動き出した。だがその動きは決して走るものではない。日本の駅では、急いでいる人間ほど、急いでいないふりをする。スーツケースの車輪だけが正直だった。硬い床を叩く小さな連打が、ホームの下へ、線路へ、車輪へ、さらに遠い都市へと転がっていく。
矢吹遼は、十三号車の乗車位置に立っていた。
右手には黒いガーメントバッグ、左手には古びた革鞄。鞄の中には喪服と、読まれる予定のない文庫本と、父の法事の案内状が入っている。案内状は、叔母が送りつけてきたものだった。来るでしょう、と一言添えられていた。来てくださいではなかった。あなたは来るべき人間だ、という、親族だけが使う優しい命令だった。
矢吹は刑事だった。警視庁捜査一課。人の死を日常にしてしまう職場にいて、にもかかわらず父の死だけは、日常の棚に置けずにいた。
父とは長く口をきいていなかった。最後に交わした言葉は、電話越しの「忙しい」だった。父が言ったのか、自分が言ったのか、矢吹はもう正確に思い出せない。ただ、その二文字だけが、舌の裏に剥がれ残っている。忙しい。人を遠ざけるには便利すぎる、薄くて硬い札。
列が進む。
矢吹は車内に入った。
十三号車は、ほぼ満席だった。座席の青い布地、白いヘッドレストカバー、網棚に押し込まれた土産袋とコート。通路には、まだ人の流れが詰まっている。指定席の車内は、全員が自分の番号を持っているのに、最初の数分だけは無秩序になる。自分の席を探す人、網棚の空きを見上げる人、窓側へ入りたいのに通路側の乗客が気づかない人。すみません、失礼します、ここですね、あ、逆でした。小さな謝罪が、空調の風に揉まれて乾いていく。
矢吹の席は十八番D。車両後方の通路側だった。
腰を下ろすと、膝と前席の背が近い。身長のある矢吹には、新幹線の席はいつも、許されているようで許されていない檻だった。足を組むには狭く、眠るには明るく、考えるには人が多すぎる。
彼はガーメントバッグを網棚に上げ、革鞄を足元に置いた。喪服の重みが、見えないところから頭上にかかってくる。
ふと前方を見る。
七番C席に、灰色のカーディガンを着た男がいた。四十代後半から五十代前半。小さな旅行鞄を網棚に持ち上げたあと、隣の老婦人の紙袋が傾きかけたのを支えた。婦人が頭を下げると、男は困ったように笑った。大げさではない。相手が礼を言いすぎないように、自分の親切まで小さくする笑い方だった。
九番A席には、眼鏡をかけた男が座っていた。紺のスーツ、膝の上のノートパソコン、窓側に追い込まれた肩。パソコンの画面には表計算の罫線が並んでいる。男は閉じるタイミングを逃していた。出張帰りの会社員は、仕事を終えたあとも仕事の姿勢から抜け出せない。
画面の端には、送信前のメールウィンドウが半分だけ覗いていた。件名は空欄。本文には二行ほど文字があり、西崎はそれを見られまいとするように、表計算ソフトを前面へ戻した。矢吹はそこまで見たのに、仕事熱心な男だと思っただけだった。
十二番E席には、文庫本を開いた女。イヤホンをして、窓の外ではなく、窓に映る自分の横顔の向こうを見ている。髪は肩の少し下、コートは濃い緑。ページをめくる指に、色の薄いネイルが光った。
文庫本の下には、赤字の入ったゲラの束が差し込まれていた。綾瀬はそれを一度だけ鞄の奥へしまい、指先でファスナーを閉じた。閉じたものの中にも、まだ終わっていない言葉がある。矢吹はそのとき、それをただの仕事の資料だと思った。
十五番B席には、大学生らしい青年がいた。フードつきのパーカーに、膨らんだリュック。寝不足の顔をしている。新幹線に乗る前から、すでにどこかへ遅刻しているような顔だった。
青年はスマートフォンに短い文を打った。着いたら電話する。そこまで入力して、親指が止まる。少し迷い、文を消し、画面を伏せた。誰かへ届けるはずだった言葉が、まだ送られないまま膝の上で眠った。
十六番C席には、小柄な婦人が座っていた。ベージュのコートを膝にたたみ、細い棒針を持っている。編み物をする人間は、移動の中に小さな部屋を作る。彼女の指先だけが、車内のざわめきから独立した速度で動いていた。
矢吹はそこまで見て、視線を窓に戻した。
普通の人間しかいない。
その感想は、あとになって彼を苦しめることになる。普通という言葉は、事件の前には安らぎであり、事件の後には凶器になる。
発車ベルが鳴った。
ホームの人影が緩くほどけ、扉が閉まる。瞬間、車内の音が少し変わった。外と内を隔てるゴムの密着音。空調の唸りが一段濃くなり、人々がそれぞれの小さな個室を作り始める。イヤホンを差す。弁当の包みを開く。背もたれを少し倒す。パソコンを開く。眠る。眠るふりをする。
列車が動き出した。
東京駅のホームが、窓の外で縦縞になって流れていく。柱、広告、駅員の白手袋、向かいのホームの赤い靴、発車標、柱、広告。すべてが同じ幅の記憶になって後ろへ去った。
新幹線の車内では、沈黙が音を立てている。
車輪の振動。空調の低い息。紙コップの蓋が外される音。ペットボトルのキャップをひねる音。隣席の鼻息。誰かのスマートフォンから漏れる短い通知音。弁当のプラスチック蓋が、敗北した甲虫の羽のように折れる音。
人は近すぎる他人を見ない。
膝が触れそうな距離に座っていても、目は合わせない。相手の顔を見ることは、相手の生活へ踏み込むことだからだ。満席に近い車両ほど、その礼儀は徹底される。互いに見ないことで、全員が自分の輪郭を守っている。
矢吹は目を閉じた。
法事に行く。ただそれだけだ。今日だけは刑事でなくてもいい。自分にそう言い聞かせると、言葉は胸の奥で小さく砕けた。
十三号車は速度を増す。
東京が後ろへ消え、品川の灯が流れ、新横浜までの短い時間が、乗客たちを匿名の集団へと変えていく。
そのとき十三号車では、まだ誰にも名前をつけられない小さなずれが始まっていた。

第二章 十三号車座席表

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