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昭和レトロ館


Ⅰ 黒電話


 
 昭和二〇年代生まれなので、電話と言えば、黒電話だった。
 生家は四国の山奥にあった。郵便局に行くと、局員が奥の機械に向かって何やら操作していた。電話交換手だったのだろう。

 学校には電話機があった。商店街でも電話機はふつうに見かけた。いずれも黒い電話機だった。

 〇


 村に最初の電話機が入ったのはいつか、覚えていない。村の中央部にある家の玄関に、電話機が鎮座していた。そこは、いわゆる分限者だった。

 村に小高い山があった。頂上にスピーカーが取り付けられていた。村人に電話が入ると、放送で報せた。相手が切らずに待っている場合は、その旨を告げた。

 放送はチャイムならぬ、ペギー葉山『南国土佐を後にして』(作詞・作曲:武政英策)のイントロで始まった。
 この曲は一九五九年(昭和三四)にリリースされ、一年ほどでミリオンセラーになった。記録によれば、同年、全国の電話加入者数は三〇〇万を数えた。故郷を後にして、出稼ぎ者が増加していた時期だった。

 村にペギー葉山の歌声が流れると
「誰かに、どこかから、電話だな」
 と村人は耳をそばだてた。

 ◎


 それ以前、緊急の連絡には電報が使われた。
 電報もまた郵便局で取り扱っていた。配達人が来た家はさぞかし緊張したはずだ。

 やがて緊急の連絡は電報から電話に、主役の座が取って代わる。しかし、急増することはなく、加入者が一千万を突破したのは一九六八年(昭和四三)だった。

 ◉


 黒電話はすっかり過去の遺物になった。
 電話が掛かってきた時のベルにはドキリとさせられた。有無を言わせず、生活空間に割り込んできた。それくらい、絶大な権力を持ったメディアだったのだ。

 反面、ダイアルを回し、元に戻るまでの間がなんとも、まったりしていた。今、あれを経験したら、おそらくまどろっこしくて仕方ないだろう。
 懐かしの黒電話からガラケー、スマホへ。現代人は忙しい時間を生かされている。


Ⅱ ダルマストーブ


 御存じない人は取り敢えず、ダルマさんのようなストーブと考えていただくとよい。ただ、ストーブの性質上、ダルマのように転びやすい物ではなく、しっかりと脚が生えている。
 また、ずんぐりむっくりではなく、ボディはくびれてスマートだ。前方に薪をくべる窓が開き、上部には取り外しのできるふたがされていた。目見当で、直径最大三〇センチ弱、高さ約九〇センチ。鋳物製だった。

 これが一世を風靡し、全国の学校などで暖房器具の定番になっていた時期があった。

 〇


 寒くなってくると、倉庫からダルマストーブを教室に運ぶ。煙突が取り付けられ、煙は窓の外に排出される。何本もの煙突がもくもくと煙を吐く光景は、田舎の学校の冬の風物詩だった。

 燃料は薪が使われた。石炭を燃やそうにも、四国には有力な炭鉱がなかった。
 生徒は自宅から薪を運んだ。薪がない商家の子どもなどは金を出していたようだ。

 ◎


 クラスにはたいていストーブ係がいた。
 薪が床に落ちないように監視したり、燃え尽きそうになれば補給する。これは、ストーブの近くに陣取る男子の担当だった。

 古い木造校舎だった。陽当たりも悪かった。教室の出入り口や隅っこに座った生徒は寒かったに違いない。

 それでも、文句をいう生徒はいなかった。何しろ、家に帰っても、古い家では隙間風が吹き抜け、囲炉裏いろり端には煙出しから雪が吹き込む。寒いのにはすっかり慣れっこになっていた。

 ◉


 ダルマストーブは暖を取るには十分でなかったにしても、もうひとつ大切な役割があった。弁当を温めるのである。

 昭和三〇年代には田舎ではまだ学校給食は普及しておらず、弁当持参だった。
 ストーブが熱せられるのを待ち、各人、ストーブの上に弁当箱を乗せる。専用のカゴがあった。

 弁当箱はアルマイト製だった。腐食しやすい、傷つきやすいなどアルミニウムの弱点を補うため、表面に特殊な加工が施されていた。あの技術がなければ、弁当箱は子どもたちの乱暴な取扱いに音を上げていたことだろう。
 お昼前になると、教室に得も言われぬ香りが漂い始める。香りはたいていお新香が発していた。「香の物」とはよく言ったものだ。

 みんな貧しかった。
 家庭によっては、米に押し麦を混ぜて炊いていることがあった。大したおかずが入っていなくても、温かい弁当は子どもたちの空きっ腹を満たしてくれた。

 ダルマストーブはアルマイトの弁当箱とセットで、多くの人々の記憶に刻まれてきた。


Ⅲ 蓄音機



 それは単なる箱だった。黒く、手前には持ち運びのための取っ手が付いていた。
 およそ四〇センチ四方、高さは一〇センチあまりだったように記憶している。

 箱を開けると、レコードを置く回転盤が目に入る。真ん中に小さな丸い金属が突出し、レコード中心部の穴がピタッとはまる仕組みだ。
 狭い空間にレコード針のついた丸い金属、音を伝える金属製のくねくねした筒と音を出すラッパが収まっていた。
 箱の底部には音を増幅させる装置があったものと推測される。分解したわけではないので、内部の詳細は不明だ。

 レコード針の付いた部分は重かった。それを慎重にレコード盤に置く。よくよく注意しないと耳障りな音を立てた。
 動力源はゼンマイだった。箱の外側に穴が開いていて、初めにハンドルを差し込んで回した。レコードを聴いていると、次第にスローテンポになる。急いでハンドルを回さなければ、レコードは停止した。

 〇


 レコードは後にSP(Standard Playing record)盤と言われたもので、重くて厚みがあった。何度も何度もかけられ、針もこまめには交換しなかったのか、雑音が混じっていた。

 自宅には一〇枚くらいのレコードがあった。
 少女時代の美空ひばり(一九三七~一九八九)、デビュー当時の田端義夫(一九一九~二〇一三)の二枚は異色だった。田端義夫はマドロス帽をかぶり、ギターを持っていた。トレードマークになったものだ。
 
 後のレコードは浪曲だった。父親のお気に入りだったものと思われる。

 ◎


 蓄音機をいつ購入したのかは定かでない。おそらく昭和一〇年代、当時としてはぜいたく品だったはずだ。
 高校時代、レコードプレーヤーが欲しい、と父親に言ったことがあった。
「あれは高いぞ」
 父親はいつになく渋い顔をした。

 もうすっかり大衆品になっていたのに、蓄音機は高価な買い物という意識が頭から離れなかったようだ。
   
 ◉


 レコード盤は木の箱に入っていた。蓄音機と同じく、箱には持ち運び用の取っ手が付いていた。
 次兄によれば
「山の向こうの小さな村に、オヤジがレコードを聴かせに行ってた」
 ということだった。
 誰だったかは、兄も知らない。思い入れのある人物だったことだけは確かだ。確認したくても、父は鬼籍に入った。その村にはもう住人はいない。

 生家もまた廃屋になっている。屋敷は崩れ、人を寄せ付けていない。
 蓄音機とレコード盤はあれからどうなったのだろう。
「こんなことなら、持ち出しておくべきだった」
 ボヤくと、美空ひばりに笑われそうだ。
 ♪あとの祭りよ


Ⅳ 真空管ラジオ



 物心ついた頃から家にラジオがあった。
 真空管ラジオだった。真空管がむき出しになっていた。真空管が並ぶさまは、いつか写真で見た工場地帯を連想させた。

 前面にチューナーがあって、選局した。ほかにボリュームを調整するツマミがあった。

 スピーカーは大きな木の箱に入っていた。ラジオ本体とスピーカーでかなりのスペースを取り、我が家では居間の押し入れに置いていた。

 真空管を何本も使っていたため、ラジオは熱を発した。
 冬は心地よい暖房具ながら、夏は距離を置いた。

 〇


 選局と言っても、NHKと確か民放が一局しか入らなかった。
 山奥なので電波状態は悪く、微妙なチューニングに苦労した。

 聴く番組も限られていた。
 熱中したのは『少年№1』だった。関谷ひさしの描いた本格的レース漫画を原作とし、それこそ毎回、手に汗を握ってラジオにかじりついた。
 オープニングがふるっていた。
「出ました。出ました。グングン出ました。ゼッケン1番は少年№1です」
 憧れをかきたてた。ゼッケンの意味も分からないまま、暗唱していた。

 また、大相撲も毎場所、楽しみにしていた。栃錦・若乃花の「栃若時代」だった。両雄の熱戦をハラハラしながら聴きいっていた。

 ◎


 いい思い出だけではない。
 何げなく耳にしたニュースだった。
「××村の中学生△△△△君が学校の帰り、工事現場で拾った雷管で遊んでいたところ、暴発して手に負傷を負いました」
 いとこにほかならなかった。小さく声をあげると、そばにいた母親が気付いた。
 母親は血相を変えて見舞いに行った。雷管とはダイナマイトの起爆装置である。いとこは指を吹き飛ばされていた。

 どこにでも危険が転がっていた。経済成長を急ぐあまり、安全管理はないがしろにされていた。

 ◉


 長兄が機械に詳しかった。ラジオの調子が悪くなると、修理を試みたりもしていた。
 そのうち、トランジスタラジオを購入し、山仕事の折には携帯していた。
 兄と山仕事に行き、夏の甲子園の決勝戦を聴いた覚えがある。優勝したのは高知高校だったので、昭和三九年(一九六四)のことだ。中学一年の夏休み。遊びたい盛りだった。

 ソニーがトランジスタラジオを発売したのが昭和三〇年(一九五五)。トランジスタによって、ラジオは自由に持ち運べる手軽なメディアとなり、真空管ラジオは急速に姿を消していく。汗みずくで、スピーカーに齧りつき栃若の熱戦に耳を傾けていた少年。彼も、齢七〇をオーバーした。


Ⅴ 白黒テレビ


 
 テレビで最初に視聴した番組はプロレス中継だった。
 そのテレビは、村の分限者の家にあった。画面は白黒だった。プロレス中継の時間になると、大人も子供も、その家に集まってくる。

 同じ頃、都会の街角でもプロレス中継に熱中する群衆がいたことを、後に知った。「街頭テレビ」である。四国の片田舎ではあっても、都会と感動を共有していたことになる。

 プロレスには興奮した。
 力道山が空手チョップを振るう。いつも最初は劣勢だった。我慢を重ね、最後は外国人レスラーをなぎ倒す。
 多くの外国人レスラーが鬼畜きちくに見えた。なにしろ、レフェリーの目を盗んで反則を繰り返す。茶の間では悪役だけでなく、気の毒なことに、レフェリーにも罵声《ばせい》が飛んでいた。

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 学校の図書室にもテレビが入った。
 外装は重厚な木製だった。扉を開けると画面が現れた。生徒の手が届かない高い場所に置かれていた。

 父親も流行に敏感だった。
 比較的早い時期にテレビを買ってきた。
(さあ、家でプロレス観戦できるぞ)
 そう思ったのか、かすかに笑みがこぼれていた。

 当時のテレビはブラウン管方式であり、後方に出っ張っていた。四本の足が付き、さながら家族と対面しているようだった。手厚くもてなし、押し入れに特等席を設けて座らせていた。薄情にも、真空管ラジオはすっかり忘れられてしまった。

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 我が家にも近所の子供たちが集まってきた。
 人気があったのはプロレスのほか相撲中継だった。
 ドラマではNHK『バス通り裏』が記憶に残っている。帯ドラマだった。十朱幸代、岩下志麻、田中邦衛、米倉斉加年など今日からすれば実に豪華出演者だった。
(都会の人はこんな生活をしてるんだ)
 のぞき見している気分だった。演技が自然だったのだろう。

 アメリカのドラマ『名犬ラッシー』『ライフルマン』『逃亡者』あたりもファンになった。
 毎回、ラッシーはさわやかな感動を届けてくれ、ライフルマンには痛快な気分にさせられた。
『逃亡者』は、身に覚えのない妻殺しの罪で死刑判決を受けた医師が移送中に逃亡、警部の執拗な追跡を逃れながら真犯人を探すという物語だった。主人公リチャード・キンブルはデビット・ジャンセンのはまり役だった。吹き替えの睦五朗の声と共にいつまでも忘れることができない。

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 日本でテレビ放送が始まったのは昭和二八年(一九五三)のことだった。
 同年、国産第一号の白黒テレビがシャープから発売された。いつでも放送しているわけではなく、休止時間帯にはテストパターンと言われる試験電波が流されていた。

 七年後にカラーテレビの本放送が始まり、昭和四五年(一九七〇)白黒テレビとカラーテレビの出荷台数が逆転。約一〇年後には白黒テレビの生産は打ち切られた。
 三〇年足らずの生涯ではあれ、戦後の昭和史に大きな足跡を残した白黒テレビだった。


Ⅵ 提灯ちょうちん



 時代劇になくてはならない小道具、それは何をおいても、提灯であろう。
 捕物に出てくる御用提灯、夜の町を往来する武家や庶民の足元を照らす手提げ提灯などは最高に場面を盛り上げる。

 提灯には名状しがたい存在感がある。
 今日でも神社やお寺をはじめ、居酒屋などの商店、さらにはお祭りでもすっかりお馴染みだ。形は大小様々ながら、光源にはほとんど電気が用いられている。もはや、伝統的な照明器具ではなくなった。

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 小学校の低学年の頃にはまだ、家に提灯があった。
 夜の外出には提灯が欠かせなかった。自然の明かりと言えば、月や星の明かりくらい。隣家とは百メートル以上離れ、門灯や街灯などはなかった。懐中電灯もまだ普及していない。

 提灯は和紙製のため、柔和な光を放つ。しかも、丈夫で長持ちした。まことに頼りになる夜道の案内役だった。

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 村の西側に高い山がそびえていた。中腹に小さな村があった。その村の子どもたちは中学生になると、三時間前後かけて町の学校に通わなければならなかった。

 冬は日の出が遅い。七時でも夜は明け切らない。学校は八時に始まる。五時には家を出なければならない。子どもたちの手には提灯があった。
 空が白み始めると、提灯を吹き消し、道端の木の枝にかけておく。下校時にはだいたい同じ場所で日が暮れるので、提灯に灯を点けて山道を急ぐのが常だった。

 以上は知り合いの女性から聞いた話だ。
 あまりの遠さに、彼女は学校を休むことが多かった。
「卒業アルバムには載っているのに、ふだん、あまり顔を見たことがなかった」
 と同級生が述懐していた。

 担任が家庭訪問し、以来、彼女の遅刻・欠席をとがめなくなったというエピソードが残っている。遅刻・欠席は担任の公認だったのだ。
 当地に限った話ではない。「提灯通学」した児童生徒は数え切れないはずだ。

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 昼なお暗いではなく、夜なお明るい生活に慣れた都会人は、夜の闇の深さに思いを致すことができなくなっている。

 三〇年以上前、帰省して姉の嫁ぎ先を訪ねたことがあった。
 すっかり日が暮れていた。細く険しい山道だった。ドライバーに申し訳なくて、途中でタクシーを降りた。テールライトが見えなくなったとたん、恐怖に襲われた。あたりは真っ暗だった。もとより、懐中電灯など持っていない。

 なんとか姉の家にたどりつくも、そんなうかつなことを話せなかった。便利な生活に慣れ、闇への備えがおろそかになっていた。


Ⅶ 蝿取りリボン



 生家は農家、いわゆる「百姓」だった。
 台所に隣接し、味噌みそ醤油しょうゆをつくる部屋もあった。我が家では「味噌部屋」と呼んでいた。ここは夏涼しく、冬温かかった。

 トイレは母屋にひとつ、少し離れた場所にもひとつ設けられていた。母屋のトイレは小用だった。ともに汲み取り式なので、必ず巨大な便槽があった。
 たいていの農家では牛も飼っており、近くに牛舎があった。

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 こんな環境だったせいか、よく蝿が発生した。
 そこで重宝されたのが、蝿取り紙、蝿取りリボンだった。蝿は味噌部屋や台所、居間を好むので、食卓の上に蝿取り紙を置いたり、天井から蝿取りリボンをぶらさげたりしていた。多くの蝿が捕獲され、みじめな姿をさらしていたことは忘れがたい。

 難儀なことに時には、人間も蝿取りリボンに頭を接触させた。強力な接着剤が使用されていたため、髪の毛から離すのに一苦労した人も多いはずだ。それに、蠅も一緒にくっついているのだから、気持ちのいいものではない。

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 蝿に悩まされてきたのは人間だけでない。身近なところでは、牛も被害者である。牛はよくシッポを振って蝿を追い払っていた。
 牛のシッポにヒントを得たのか、人間は蝿叩きを考案し、長く必須アイテムになっていた。しかし、蠅叩きはいかにも残酷だった。俳人・小林一茶(一七六三~一八二八)に
  やれ打つな 蝿が手をすり 足をする
 と、嘆じさせたほどだった。

 蠅叩きにしても、蝿取り紙、蝿取りリボンにしても、視覚的な衝撃の差はあれ、蝿退治の道具にかわりはなかった。一茶の気持ちが和らぐことはなかっただろう。

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 このシリーズに蝿取りリボンを取り上げ、複雑な心境である。というのも、自前の味噌や醤油が影を潜めたことに加え、下水道が整備され、ゴミの回収が進むなどして、蝿の発生する余地がなくなったからである。清潔にはなった。ただ、これを手放しで喜んでいいかどうか。

 腸内フローラに代表されるように、種々の生命体がバランスをとって生存する中、最適な環境が保たれているのではないか。多くの研究例が示すとおり、蝿には罪もあれば功もある。蠅も住まないような環境が果たして健全な自然の姿か。蠅叩き、蝿取りリボンの時代も、まんざらではなかったのだ。


Ⅷ 七輪しちりん&渋うちわコンビ



 七輪と渋うちわは一昔前まで、どこの家庭にもあった。
 取り扱いは簡単だった。七輪に木炭を入れて、(火)付け木から火が移ったのを確認し、後は下部の通気口をひたすら渋うちわで煽ぐ。火が勢いを増してくると、その上に鍋、薬缶やかんをかける。また、金網を乗せ、食べ物を並べて焼いた。

 記憶に残っているのは餅、トウモロコシ、切り干しイモなど。炭火には遠赤外線の特殊な効能があり、薪などで焼いたのとは一味も二味も違った。

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 七輪は自由に持ち運べることから、台所、居間、庭など、使用するのに場所を選ばなかった。まさに生活必需品だった。
 七輪の外側が極端に熱くならず、居間などでも使用できたのは、特殊な珪藻土けいそうどを原材料としていることによる。珪藻土は吸水・吸湿性と断熱性に優れ、建築材料をはじめ広範囲に利用されている。

 一方の渋うちわは竹と和紙、そして柿の渋を用いている。柿渋を塗ることにより、丈夫さを倍加したわけだ。ふつうのうちわより大きく、握る部分も太い竹が使われていた。

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 渋うちわには通常、墨で絵が描かれていた。
定番は、ぎょろっと目を剥いた達磨大師だった。その迫力は、幼児が正視できないほど怖いものだった。

 地域によっては、渋うちわは貧乏神の小道具だったとされる。
 貧乏神は渋うちわを持って現れ、煽いでますますその家を貧しくさせる、ということだ。
 とかなんとか言われながらも、渋うちわは民衆と苦労を共にしてきた。

 ◉

 
  はたらけど
  はたらけどなほ わが生活くらし楽にならざり
  ぢつと手を見る    (『一握の砂』より)

 石川啄木(一八八六~一九一二)もまた貧乏神に居座られた一人だったのかもしれない。

 時は令和、貧乏神が現れたくても、ほとんどの七輪やかまどが引退し、渋うちわの出番も少なくなった。にもかかわらず、貧富の差が拡大する一方だ。どうやら、貧乏神は新手の強力なアイテムを見つけ出した可能性がある。


Ⅸ かまど&羽釜ペア



 改築前の生家は、昔話に出てくるようなかやぶき屋根だった。居間には囲炉裏、奥に炊事場があった。キッチンである。ここを「かまや」と呼んでいた。
 改築後、家はずいぶん様変わりした。その中で、大して変わらない場所があった。かまやだった。そこには竈、別名「へっつい」が設けられ、お釜でご飯を炊いていた。おそらく、竈がある部屋だから、かまやと呼んでいたのだろう。

 大家族だったため、竈はそれこそ大車輪の活躍をしていた。
 ところが、ある時からぷつりと火が消えた。ガス釜が購入されたのである。プロパンガスだった。さらに電気釜、炊飯器が普及し、労せずしてご飯が炊ける時代を迎えた。

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 竈の内側は土や石によって固められ、手前には薪をくべる焚き口、奥には煙を戸外に導くための排煙口が開いていた。
 竈でご飯を炊く時に用いられたのが、羽釜である。
 羽釜は底が丸く、中ほどにスカートのような羽根が出ていた。羽根があったことから、羽釜と命名されたのだろう。羽根には持ち運び用の取っ手が付いていた。釜の上部はやや狭くなり、必ず木製のふたがあった。

 まことによくできた構造だった。
 家にあったのは鉄製の羽釜だった。底が丸いことにより、薪の熱をまんべんなく伝え、ムラなく炊き上げる。さらに熱を逃がさず、長く温かいご飯を食べることができた。特に底についたコゲの香ばしさ、歯ざわりは羽釜ならではだった。
 ともあれ、すくうのも簡単、洗うのも簡単、底知れぬ生活の知恵が詰まった逸品である。

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 竈でご飯を炊くにはコツがあった。
 初めチョロチョロ 中パッパ 赤子泣いても 蓋とるな
 これが鉄則だった。
 初めはチョロチョロと弱火、途中、パッパと強火にする。この時、吹きこぼれても絶対に蓋を取ってはいけない。吹きこぼれる様子を赤ちゃんの涙に例えたところに、説得力がある。

 では、炊きあがるのをどう判断するか。羽釜の中の水気がなくなってくると、蓋から出てくる蒸気が透明になり、赤ちゃんの涙が止まる。つまり、泣き止む。ここで薪を引き出さないと黒こげにしてしまう。

 


 学生時代、京都の保津川に行って仲間とキャンプしたことがあった。朝遅く目覚めると、近くに若い男女のグループ。すでに火を起こし、飯盒はんごう炊飯を始めていた。

 こちらも食事の準備にかかった。炊きあがり、羽釜以上と定評のある飯盒メシに舌鼓を打っている時だった。
 グループの代表らしき人物が近づいてきた。
「あのう、飯盒は何時間くらい炊けばいいのですか」
 悪い予感がして、見に行った。
 焦げてバリバリ音を立てている班もあれば、やっと湯気が出始めた班もあった。
 半世紀あまり前の出来事である。家庭の電化が進み、水加減も火加減も知らない世代が主流になりつつあった。


Ⅹ 蚊帳かや


 蚊帳は日本の夏を代表する生活用品だった。蚊や小さな夏の虫から身を護り、快適に寝るために不可欠だった。

 とにかく、昔は夏になると、蚊が大量に発生した。
 生活排水は垂れ流しの状態だった。家の周囲には水たまりができ、ボウフラが湧いた。
 ボウフラは成虫になり、空中を飛び交う。そして、小さな羽音を立てて人間に近づき、止まって血を吸う。

 〇

 蚊は安眠妨害にとどまらず、日本脳炎やマラリアなど、いろいろな病気を媒介することから、有害虫もいいとこだった。
 しかし、日本の夏は蒸し暑く、蚊の侵入を防ぐために部屋を閉め切るわけにはいかない。蚊帳は日本の風土から生まれるべくして生まれたアイデア商品といえよう。

 四角くて大きなテントみたいだった。テントとの違いは薄くて目の粗い布が用いられ、風をよく通したことだ。
 さらにテントは地面に固定するのに対し、蚊帳は上の部分に吊り輪が付いていて四方からぶら下げて使った。

 ◎

 生家のまわりは田んぼ、畑だった。蚊もいれば、トンボやバッタ、イナゴ、田んぼにはヘビやカエル、ドジョウ、タニシなどの姿もあった。
 シーズンになると、泉や田んぼの上をホタルが乱舞する。なかには家に迷い込むホタルもいた。蚊帳に横たわり、居ながらにして蛍狩りを楽しんだものだ。

 昔なつかしい蚊帳も、いつの頃からかお蔵入りしてしまった。もはや戸を開け放して蚊帳など吊るのは不用心だし、そもそも蚊が少なくなった。生活排水の処理が進み、蚊の発生源が絶たれたことは確かながら、実は、それ以前に農村では決定的な自然環境の変化が起きていた。

 

 農薬は、のどかな農村風景を一瞬にして変えた。
 今にして思えば、アメリカの生物学者、レイチェル・カーソン(Rachel  Carson 一九〇七~一九六四)が一九六二年に著した『沈黙の春』(Silent Spring)の冒頭そのままだった。多くの生物があるいは死に絶え、あるいは居場所を追われたのである。

「これは強力だ!」
 長兄が驚嘆していた。
 毒々しい名称の殺虫剤だった。
 殺虫剤や除草剤は、長く害虫に悩まされ、草取りなど苛酷な労働を強いられてきた農家にとっては、救世主だったわけだ。しかし、代償は計り知れなかった。

 蚊帳にホタル——日本にはこんな時代もあったことを、記録にとどめておこう。