【HAMON】 カルテ02-No.01 「観測するセカイ」|連載小説|心理サスペンス|ラノベ|ライトノベル
――水無瀬 澪
大学の講義が終わって、校門を出たところで、ふと空を見上げた。

空が広い。
春の終わりに近い午後。
風はまだ少し冷たいのに、陽射しだけが先に夏を連れてきている。
私の記憶が戻ってから、二つの変化があった。
ひとつは、感覚が鋭くなったこと。
これまでのように論理と観察力で思考を読むよりも先に、
なんとなくで相手の心の動きが分かってしまう。
そしてもう一つ。
私は今まで、どうして気づかなかったのだろう。
視界の端で、黒い点が動いた。
……蠅?
いや、違う。
羽音がしない。
黒いシルエットが空を横切る。
太陽の光を受けて、レンズのようなものが一瞬だけ光った。
蠅の形をした、超小型ドローン。

私の周囲には、それが三種類飛んでいる。
よく見ると、それは街のあちこちにいた。
人の上にも、建物の影にも。
あの人の周りにも。
そして、あの人の周りにも。
この世界は、誰かに監視されている。
……いや。
もしかすると、観測されている。
……気のせいだろうか。
一機だけ、こちらを見ている気がした。
そんなことを考えながら歩いていると、遠くから子どもたちの声が聞こえた。
「いけー!」
「そこ、パス!」
笑い声に混ざって、ボールが蹴られる乾いた音がする。
私は無意識に足を止めた。
声のする方を見る。
公園の小さなグラウンド。
そこに、見覚えのある背中があった。
スーツ姿。
ジャケットは脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっている。
ネクタイは緩く、髪は少し乱れている。
背中だけで分かった。
……鷹宮先生だ。

「……え」
思わず声が漏れた。
鷹宮先生は、小学生くらいの子どもたちに混ざってサッカーをしていた。
しかも、普通に上手い。
子どもが本気で追いかけても追いつけないくらい余裕があるのに、
抜き去る瞬間だけはきちんと手加減している。
勝つより、楽しませる方に重心がある。
「おっさん、ずるい!」
「ずるくねぇよ。お前らが遅いだけだ」
そう言いながら、鷹宮先生は笑った。
「ほら、来い。今のシュート決めてみろ」
子どもにボールを渡して、わざと少しだけ距離を空ける。
その笑顔は、いつもの軽さとは少し違う。
妙に、無邪気だった。
私はその場に立ったまま、どうしたらいいか分からなくなる。
声をかけるべきか。
見なかったことにして帰るべきか。
迷っているうちに、ボールがこちらへ転がってきた。
足元で止まる。
同時に、子どもたちの視線が集まる。
「お姉ちゃん、返して!」
その声に反射でボールを蹴り返そうとして――
私は、一瞬だけ動けなかった。
こんなふうに、誰かに当たり前に頼まれること。
それが、少し怖かった。
誰かに頼られることに、まだ私は慣れていない。
けれど次の瞬間、足が前に出ていた。
軽くボールを蹴る。
転がる角度は少し甘かったけれど、
子どもが走って追いつける速度だった。
「ナイス!」
鷹宮先生がこちらに向かって、指を立てる。
その瞬間、胸の奥に、ひどく小さな熱が灯った。
「水無瀬さん?」
声をかけられて振り向く。
そこに立っていたのは、黒瀬さんだった。

公園の入口に、黒い車が止まっている。
いつからそこにあったのか分からない。
黒塗りのセダン。
窓は暗く、静かに存在を主張している。
黒瀬さんは、いつもの無駄のない姿勢で軽く会釈した。
「お迎えです。鷹宮先生」
鷹宮先生はボールを止め、肩で息をしながら振り返る。
「もう少し」
「“もう少し”が二十分続いています」
黒瀬さんの声は淡々としていた。
鷹宮先生は、わざとらしく空を仰ぐ。
「うるせぇな。お前は“楽しさ”って概念知らねぇのか」
「知っています。仕事が終わった後に」
「堅い男だなぁ」
そう言いながらも、鷹宮先生は素直に歩き出した。
車に向かう途中、私の横を通り過ぎるときに笑う。
「お嬢ちゃん、混ざってたな。いい動きしてたぞ」
私はうまく返事ができず、小さく会釈するだけだった。
黒瀬さんがドアを開け、鷹宮先生が乗り込む。
その動きは、まるで決められた手順みたいだった。
黒瀬さんが私を見る。
「……水無瀬さん。よろしければ途中まで送ります」
私は迷った。
でも今日の私は、なぜか迷いが短い。
「……お願いします」
車内は静かだった。

外の光が窓のガラスで柔らぐ。
さっきまでの笑い声が遠い。
鷹宮先生は後部座席で足を組み、機嫌よさそうに外を眺めている。
「それにしても、お嬢ちゃん。ほんと変わったよな」
「変わった、って……」
「コウのとこ来て、もう三ヶ月くらいか?」
私は少しだけ考えて、うなずいた。
「……はい。たぶん、それくらいです」
鷹宮先生は小さく笑う。
「悪い意味じゃねぇよ」
少しだけ間を置いて、続けた。
「ちゃんと――
“人間側”に来たって感じだ」
人間側。
その言葉が、胸の奥に小さく残る。
少しの沈黙のあと、私は思い出したように聞いた。
「……そういえば。先生のところに、コウと、朝倉さんがインターンで来ていた話、聞いたことがなくて」
鷹宮先生は楽しそうに笑う。
「お、聞きたい?なら俺が話すわ」
黒瀬さんは前を向いたまま、何も言わない。
でも車内の空気が、わずかに変わった気がした。
-回想

コウと初めて会った時のことは、正直よく覚えていない。
覚えているのは、朝倉くんの方だ。
あいつは……骨格標本みたいな笑顔をしてた。
自然すぎるのに、生きてる感じが薄い。
“怖い”って印象だけが、なぜか強く残ってる。
最初のうちは思った。
こいつはこの世界に向いてる。
感情を面に出さず、冷静で、淡々としていて。
相談者の話を聞きながらも、どこか距離がある。
余計なところで揺れない。
それが出来るのは才能だ。
でも、日を追うごとに俺の印象は変わっていった。
変わったのは、コウの方だ。
朝倉くんとは対照的に、コウは……いい意味で感情移入しすぎる。
つまり、消耗しやすい。
普通なら、どこかで折れる。
なのにあいつは折れなかった。
一向に疲れを見せないどころか、何時間でも俺のカウンセリングに立ち会い続けた。
あの頃、田中も佐藤も優秀だった。
でもコウは違う。
異質な図太さがあった。
“感情で動く奴”のくせに、潰れない。
そして卒業の時、コウが言った。
「事務所を出します」
無理だろ、と思った。
でも朝倉くんが言ったんだ。
「じゃあ、あたしはサポートに回るかなぁ」
……あれには驚いた。
でも、不思議と止める気にはならなかった。
あれから、もう五年か。
鷹宮先生は小さく笑った。
「お嬢ちゃん。コウはな、昔からよく泣いて、馬鹿みたいに鈍感だったよ」
私は思わず笑いそうになる。
でもそれが本当なら――
私は今まで、その鈍感さを誤解していたのかもしれない。
「朝倉さんは?」
私が聞くと、鷹宮先生はわざとらしく首を傾げた。
「んー。どうだったかな。忘れちゃったよ」
嘘だ、と直感で分かった。
忘れていない。
ただ、言いたくないだけだ。
車は静かに減速し、事務所の前で止まった。
「着きました」
黒瀬さんの声。
私はドアノブに手をかける。
「……ありがとうございました」
外へ出ると、春の光が少し柔らかくなっていた。
階段を上がりながら、ふと空を見上げる。
帰り道に見た空と、同じ空。
でも、なぜか少し違って見えた。
ある晴れた日のこと。
けれどきっと、ここから。
風が吹く。
水面が、ほんの少し揺れた。

その下で――
何かが、静かに動き始めている。
次回に続く
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