【no name story】case9「天国から届いた返事」 |短編小説|ラノベ|ショートショート
母が亡くなってから、部屋の時間だけが止まったようだった。
床には脱ぎっぱなしの服が散らばり、流しには洗っていないマグカップが残っていた。仕事には行っていた。人と話せば、それなりに笑えていたのだと思う。けれど家に帰ると、何もかもが少しずつどうでもよくなった。

朝がいちばん苦手だった。目が覚めた瞬間、もう母のいない朝を生きていることを思い出すからだ。
それに、僕は母にちゃんと謝れなかった。
体調を気づかう電話を、忙しいからと素っ気なく切ったことがある。あのとき少しだけ黙って、それでも母はいつものように笑っていた。
生きているうちなら、一言で済んだのだ。ごめんね、と。でも僕は、その一言を後回しにしたまま、母を見送ってしまった。
せめて手紙なら書けるかもしれないと思ったのは、入院してしばらく経った頃だった。けれど便箋の上に並んだのは、仕事のことや天気のことばかりで、最後に小さく「この前はごめん」と書くのが精一杯だった。
返事は来なかった。
届かなかったのか、体調が悪かったのか。そう思うしかないまま、母は春の終わりに亡くなった。
その日も、同じような朝だった。
惰性でポストを開けると、広告と請求書に混じって、一通だけ古びた白い封筒が入っていた。少し黄ばんだその封筒の表には、見覚えのある字で僕の名前が書かれていた。

母の字だった。
消印は、母が亡くなるひと月ほど前の日付だった。
震える指で封を切る。中には一枚の便箋が入っていた。
「お手紙ありがとう。返事が遅くなってごめんね。」
その一行を読んだだけで、視界が滲んだ。
「忙しいのに書いてくれてうれしかったです。あなたは昔から、不器用だけどやさしい子だから、ちゃんと分かっています。」
僕がうまく謝れないことを、母はきっと、ずっと前から知っていたのだと思う。
謝れなかったと思っていた。間に合わなかったと思っていた。でも、違った。
下手くそな一言でも、ちゃんと届いていたのだ。
崩れそうになっていた僕にとって、あの手紙は、遅れて届いた返事というより、ようやく触れられた母の手のようだった。
僕は久しぶりにカーテンを開けた。窓の外には、昨夜の雨がまだ細く残っていて、朝の光の中で静かに光っていた。

終わり。
#小説
#短編小説
#創作
#母
#ショートショート
#ラノベ
#ライトノベル

よかったら、気軽にコメント
残してもらえたら嬉しいです。
