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【短編小説】朳差岳山行

 あの日の出来事は、記憶の砂の中に残る尖った小石のように、時折思い起こされ、その感触が忘れられず、安易に口にすることも憚られ、こうして誰にも見せぬ手記に留めておくことにしました。

 ある山中、雨音が響く小屋で、私は寝袋に潜り込んでいました。その日は、結婚を考え始めた恋人から逃げるように山へと登ってきたのです。
 持ち込んだ漱石の『こころ』の文庫本を開き、止む気配の無い雨音に耳を傾け、将来――結婚という言葉が持つ重みに、後戻りの出来ない決定的な段を前に、どうにも覚悟が持てず、暗い感情が胸中渦巻いておりました。目を閉じ考えるうち、いつの間にか眠りに落ちていました。

 夜中、扉が軋む音で目を覚まし、眩しさに目を瞬かせていると、ヘッドライトの光の奥に二人の男女がこちらを伺うように立っていました。
 若い二人組。おそらく、この避難小屋に先客がいるとは思わなかったのでしょう、一瞬、驚き戸惑った気配を見せました。私は寝ぼけた頭を振りつつ、「どうぞ」とだけ声をかけ、彼らを中へ誘いました。

 時刻は二十二時を過ぎて、この天気の中のことです。先達として小言を言いたくなる気持ちが沸き立ちましたが、ずぶ濡れの、髪から雫が滴り落ちるさまを見て、これ以上追い打ちをかけるような言葉は躊躇われました。
 灯りを付けて、彼らに濡れた服を吊るす場所を用意し、着替える場所がないことを察すると、煙草を手に外へと出ました。雨はまだ降り続いていましたが、軒下で火をつけると、七月の夜のわずかに冷えた空気が肺に染み、幾分頭も冴えてきました。この真っ暗な雨闇の中を歩いてやってくるのは、只事ではないと思ったのです。

 少し間を置いて様子を伺い、中に戻ると、二人は着替えを済ませていました。女の方はブランケットにくるまり、男が彼女に水筒を渡していました。その様子に、どこか夫婦のような親密さを感じました。二人が恋人であることは明らかでしたが、それ以上に、奇妙なほど気心の知れた空気が漂っていたのです。余程の覚悟がなければこんな日に、と考えつつも、私自身がそのような覚悟で来たのでは無いことが思い起こされ、口元が苦く緩みました。

 私は湯を沸かし、二人の分もコーヒーを淹れました。湯気の立つカップを手渡すと、女が小さく「ありがとうございます」と呟きました。その声は疲労から掠れていましたが、安堵のような柔らかな響きがありました。
 男は宗一、女は沙也加と名乗りました。
 しばらく無言のまま、コーヒーを啜る音だけが耳に聞こえました。私は沈黙に耐え切れず、また好奇心から、二人に話しかけました。
「雨の中、大変だったでしょう。どうしてこんな日に登山を?」
「記事で見た景色が、とても綺麗だったので。彼女を連れて来たかったんです」と宗一が答えました。
「この雨じゃ、景色も台無しでしょうに」と苦笑すると、宗一は少しだけ微笑み、
「どうしても、この日しかなかったのです」
 と言いました。沙也加が宗一の服の裾を握りしめているのを目端に捉えましたが、私は気付かぬふりをしました。
 私は疑問を抑えきれず更に尋ねました。
 「お二人は、なんだか落ち着いていますね。僕なんか、恋人との将来に覚悟が持てなくて、今日も逃げてきたんです」
 彼は、しばらく間を置いて答えました。
 「そう見えるのも、無理ないのかもしれません。僕たちは……血の繋がっていない義兄妹なのです。ですが、何があっても一緒にいると、決めたんです」
 私はその言葉に、驚きを上回る揺るぎない決意を感じ、それ以上何も聞けませんでした。二人との間にある、踏み込むべきではない境界線を感じたからです。
 横になって眠ったふりをして耳を澄ますと、微かに二人の声が漏れ聞こえてきました。殆ど聞き取れないほどでしたが、「ごめんなさい」という彼女の言葉が妙に耳に残りました。

 翌朝、私は穏やかな寝息を立てる二人をそっと残し、薄暗闇の中、山頂を踏みました。
 次第に色を取り戻していく世界、雨に洗われ澄んだ空気、瑞々しい緑と花々に覆われ、水たまりが暁天を映し、そこに佇む小屋の風景は、美しい楽園のようで、気が付けばその光景を写真に収めていました。
 下山し、麓の食堂で昼食をとりながらテレビを眺めていると、ニュースが流れました。その画面に言葉を失う衝撃を受けたのです。映ったのは、昨夜あの小屋で出会った二人でした。彼は父親を刺し、その後行方不明と報じられています。
 後に母親が語った詳細を知ると、彼女が、父親から陰惨な暴力を受けていたという。彼はそれを止めるために犯行に及んだのだと。
 あの夜の彼らの微笑みや、何があっても二人でいると語った言葉が、私の中で繋りました。彼らはあの楽園で、最後の静けさを求めていたのかもしれません。 

 彼らのその後は未だ不明です。
 時折、あの写真を眺めると、二人がまだ小屋の中で寄り添い、穏やかな寝息を立てている光景が目に浮かび、堪らなく切なくなるのです。


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<1997文字>

 この作品は花澤薫さんの個人文学賞、「すべて失われる者たち文芸賞」に参加しています。読んでくださり、ありがとうございました。

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