52 小婢まさと「鶴の子」
(明治三十三年一月)
二十四日。宮川漁男来りて、松村任三氏の牻牛兒苗辨を借す。初め予いわゆる現の證攄を福岡に得て謂へらく。是れ牻牛兒苗なりと。今此文を見てその非なるを知る。乃ち左に其概要を抄す。
「ゲラニウム」Geranium 屬にたちまち草あり、俗に現の證據と云ふ。拉甸(ラテン)名は希臘(ギリシャ)語geranos 鶴より出つ。英Cranesbill 佛Bec-de-grue獨 Storchschnabel 等の語皆同じ。)我異名はばいくわさう(草譜)ほとけばな(本草薬名備考和訓鈔)ほつけばな(木曾本草綱目啓蒙卷十三)ほつけさう(用薬須知續編八)べにばな(岩倉本啓十三)ちごくさ(土州本啓十三)ちきりさう(用薬八)ちもぐさ(枚方本草紀聞十七)れんげさう(大和本草九)ねこあし(仙臺本啓十三)うめがえさう(古名録十四)ふうろさう(百花培養考)ふうれい(江州本啓十三)うゆのうめ(越後本啓十三)さくらがは(地錦抄附録二)みつばぐさ(本薬)みこしぐさ(長州本啓十三)等なり。漢名は植物名實圖考巻二十三載する所の紫地楡ありて、これと屬を同うす。牻牛兒苗は我おらんだふうろにして「エロヂウム」Erodium屬なり。牛扁は或は「アコニツム」Aconitum屬の伶人草に充つれども、當否未だ詳ならず。並に現の證據と殊なり。
夜雨。
小倉衛戍病院の二等薬剤官・宮川漁男が来て、松村任三の著書「牻牛兒苗(ボウギュウジビョウ)辨」を借りた。以前、福岡に行った時、いわゆるゲンノショウコを見つけてこれは「フウロソウ」だと思ったが、この本を読んでそれは違っていることが分かった。その「牻牛兒苗辨」の記述を詳しくまとめています。
松村任三(1856~1928年)は水戸藩松岡領、今の茨城県北部の高萩市下手綱に生まれました。幼少のころから、漢学、武芸に励み、15歳の時、今の東京大学の前身であった大学南校に入学。
1877年(明治10年)、東京帝国大学付属小石川植物園に勤務し、矢田部良吉教授の助手となり、植物学研究の道に入り、植物採集の旅を繰り返すようになります。

小石川植物園は、東京大学の植物学の研究・教育実習施設です。正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園といい、日本でもっとも古い植物園です。面積は約16 万㎡(約4 万9千坪)で、園内にはツバキ園やツツジ園、梅林やカエデ並木、シダ園、針葉樹林や温室、日本庭園(国指定の重要文化財)に加え、研究室や植物標本庫(植物標本は約70 万点)、図書室(植物学関連図書の蔵書は約2万冊)のある本館、薬園保存園、分類標本園があります。小石川植物園は、国の名勝および史跡に指定されています。(HP)

1883年、助教授となった任三は翌年『日本植物名彙』など植物分類学研究上貴重な本を著す。さらに、1885年末にドイツへ留学、植物分類学・解剖学の研究を深め、1891年には、理学博士、1897年に東京帝国大学附属小石川植物園の初代園長となる。
1912年には、生涯の大著である『帝国植物名鑑顕花部後編』を著し、名実ともに植物学の権威者となった。学名にマツムラの名を冠した植物は数多く見られる。
現在、東京大学植物標本室には約170万点の標本があり、その中には、松村任三が学名を付けた標本なども見られます。これらの標本は、総合研究博物館と小石川植物園に分蔵されています。
植物学者牧野富太郎の生涯を描いたNHK朝ドラ「らんまん」の徳永教授のモデルといわれています。


げんのしょうこ (現の証拠)は学名(Geranium thunbergii (G.nepalense subsp. thunbergii, G.nepalensis f.roseum)日本名 ゲンノショウコ科名(日本名) フウロソウ科 日本語別名 ミコシグサ(神輿草)、フウロソウ(風露草)、タチマチグサ、ツルウメソウ、ウメヅル、ベンジョクソウ、イシャイラズ(イシャコロシ・イシャタオシ・イシャナカセ)、コウボウグサなどと呼ばれています。
跡見学園女子大学の「跡見群芳譜」には「藥草ニシテ乾葉ヲ煎ジ下痢止ノ藥トシ有名ナリ、而シテ直ニ効アリト唱ヘ現の證據ノ稱アリ、又其果實ノ彈開セル狀みこし(輿)ノ屋根ニ似タルトテ其名アリ。世間之レヲふうろさう(風露草ト書ス、漢名ニ非ズ)ト呼ブハ非ナリ、是レハ伊吹風露ノ一名ナリ」(『牧野日本植物図鑑』)。なお、伊吹風露はヒダフウロ(イブキフウロ・サクラザキフウロソウ) 。猫足草の名は、葉の形から。」とあります。
西洋の近代医学が盛んになった明治に入ってもゲンノショウコの効能はまだまだ注目されていました。ドクダミやセンブリとともに日本を代表する三大民間薬として、現代まで不動の地位を保っています。
二十五日。北風寒きこと甚し。午後雪ふる。金邊煉瓦製造所職員梅埼伊之助といふもの來りて、寒具を貽る。前に財嚢を失ひし人なり。夜に至りて雪歇まず。
二十六日。終日風雪。そのさま北國と同じからず。風の一堆の暗雲を送り來るとき、雪花翻り落ちて、天の一偶(ママ)には却りて日光の青空より洩れ出づるを見る。九州の雪は冬の夕立なりともいふべきにや。
25日。北風が吹きとても寒い。午後、雪が降る。金邊煉瓦製造所の職員・梅埼伊之助という人が来て、寒具というのを持ってきたとあります。寒具という言葉は今はあまり使いませんが、貝原益軒の養生訓に「諸菓、寒具(ひがし)など、炙り食へば害なし」という言葉があり、寒具(かんぐ)というのは干菓子のこと、冬至から数えて105日目からの3日間、火を避ける「寒食(かんじき)」の際に食べる習慣がありました。
以前、鷗外さんが財布を拾って警察に届けたことがありましたが、落とし主がその時のお礼に訪れたのです。梅埼さんは金邊煉瓦製造所職員とあります。北九州地方では門司区猿喰に新田開発で有名な石原宗祐の子孫が煉瓦製造所を作っていましたが、北九州市小倉南区と香春町の境にある金辺峠あたりにも、当時、煉瓦製造所があったとみられます。

26日。一日中風雪。その様子は北国の風雪とは違い、風が大きい塊の雲を送り出してくるとき、雪が花のようにひらひらと落ちて、空の一隅に日光が青空よりのぞかせる。九州の雪はまるで冬の夕立のようだ。この辺りの表現は、さすが文学者ですね。
二十七日。雪晴る。小婢まさ操行修まらす、夜出でゝ曉に歸る。その人に語れるを聞くに、まさは大阪の鍛冶の子なり。年十三四の比、向槌打つ少年と通じて奔る。少年下疳を患ふ。まさ染毒して横痃を發す。此より諸方に流寓して、遂に九州に來ぬと云ふ。親に情夫あり。行橋の人にして杉野氏なり。
見習士官となりて小倉に在りと稱すと雖、その信なりや否やを知らず。或は云く。杉野某の父は行橋に住して、第宅頗る輪奐の美あり。而れども曾て事に坐して獄に下りしことありと。まさは裁縫すること能はず、又炊爨(すいさん)すること能はず。巧慧譎點、妄語口を衝いて出づ。眞個に畏る可し。是日これを遣り歸す。
27日。小女まさの素行が良くならない、夜は出かけて夜明けに帰ってくる。まさが人に語ったことを聞くと、まさは大阪の鍛冶屋の子で、13,14の頃、鍛冶場で二人が向かい合って打つとき、立って前方から打つ向かい槌の少年、奉公人と通じて出奔、少年は性病にかかり、まさも病気をうつされて股の付け根のリンパ節が腫れる横痃(よこね)で炎症を起こした。それから流れ流れてついに九州に来た。
親に愛人があり、行橋の人で杉野という。見習士官となって小倉にいるというが、本当かうそかわからない。
また、杉野某の父親は行橋に住んでいて、邸宅はものすごく大きく美しい。「輪奐の美」とは建物の広大で壮麗な美しさのこと。しかし、かつてある事件にかかわり、連座して投獄されたことがあると。まさは裁縫や炊事仕事はできないが、悪知恵や嘘は口を突いて出る。本当に恐ろしい子だ。この日、まさに暇を出した・
二十八日。日曜日に當る。霙ふる。
二十九日。始て一たび霽る。
三十日。孝明天皇祭の爲めに放衙す。朝倉知薬剤官の妻來り訪ふ。土産の果子を貽る。鶴の子と云ふ。落雁の製に似て卵形なり。色皆白し。晩山根武亮來りて、肥前名護屋城址の園を遺る。
三十一日。好天氣なり。
28日。日曜日、みぞれ降る。
29日。ようやくいったん晴れる。
30日。孝明天皇祭のため役所は休み。朝倉知薬剤官の妻、来訪。土産に菓子をもらった。鶴の子という。落雁に似て卵形。色はみな白い。
夜、参謀の山根武亮が来て、肥前名護屋城址の図を置いて行った。
31日。好天。
鶴の子は小倉藩の時代から続く「鶴の子」という落雁です。江戸時代にはすでにサクッとした落雁に白あんの入った「鶴の子」が小倉小笠原家の茶の湯の御用菓子として好まれていました。大きさも、茶菓子としては丁度良い大きさで、中には少量の白あんが入り、中が僅かに透けて見えるほどの薄い和紙で一つ一つ包まれていました。味は少々米の粉の匂いが残る、江戸の昔の味わいそのままに、伝統の味と形を守ってきた、貴重なお菓子でした。

「鶴の子」を製造していたのは「福田屋」と、長崎街道の起点の常盤橋の東にあった久志記(くしき)。
「くしき商店」は京町一丁目にありましたが2007年に江戸時代からの歴史を閉じています。現在は両店とも閉店、湖月堂さんが注文で販売しております。
「小倉市誌」に福田屋さんのことが載っていました。
「福田屋」 祖福島孫右衛門道定、細川氏入国築城の時、東紺屋町東角に土地を拝領、居を構う。菓子用達にて羊羹鶴子を製す。
#松村任三 #ゲンノショウコ #小石川植物園 #牧野富太郎 #らんまん #九州の雪 #石原煉瓦 #金辺峠 #小婢まさ #孝明天皇祭 #行橋市 #鶴の子 #名護屋城
※参考 小倉市誌 跡見群芳譜 Facebook
