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夏越ごはんと、うどんと、ソフトクームの日

「ねえ、もう半年終わるんやね・・・」

母が電話の向こうで、少し大げさにため息をつきました。

「まだ六月やん~」
「六月が終わるいうことは、半分終わるいうことやろ・・・」
「まあ、算数としては正しいね~」
「ほな、夏越ごはんでも食べとき-」

母の言い方は、いつも少しだけ雑です。けれどその雑さは、古い台所の引き出しに入った輪ゴムのように、なんだか頼りになります。使おうと思ったときには少し伸びている。でも、ないと困る。
六月の終わりというのは、まさにそんな輪ゴムみたいな季節です。春でもなく、完全な夏でもなく、湿気だけが先に玄関で靴を脱いでいる。

カレンダーをめくる前の一週間。日本の食卓は、思ったより忙しい顔をしています。祓うために米を食べ、農作業の区切りにうどんをすすり、そして昭和の甘い未来みたいなソフトクリームを舐める。なんでしょうね、この取り合わせ。神社と田んぼとデパートの屋上が、一枚のちゃぶ台に無理やり相席しているみたいです。





🌾 6月30日 夏越ごはんの日

6月30日は「夏越(なごし)ごはんの日」です。”夏越の祓”(なごしのはらえ)に合わせ、雑穀ごはん の上に、茅の輪を思わせる丸い夏野菜の かき揚げ などをのせ、残り半年の無病息災を願う行事食です。

新しい行事食、と聞くと、少し身構えてしまいます。
伝統という顔をした新入社員が、きちんと名刺を差し出してくる感じです。けれど、米 の上に季節のものをのせて食べるという発想は、むしろ昔からの日本の食卓そのものです。炊きたて の ごはん は、何かを受け止めるために白くいる。梅干し でも、海苔 でも、佃煮 でも、昨日の残りのかき揚げでも・・・

昭和の家では、六月三十日に特別なごはんを食べた記憶は、正直あまりありません。ただ、母はこの時期になると「体を冷やしすぎたらあかん」と言いながら、冷たい麦茶を誰よりも早く飲んでいました。なんて都合のいい理屈でしょう~ でも、その矛盾ごと、母の夏支度だったのだと思います。

でも、本当は?

夏越ごはんは、半年分の疲れに「ここまで来たね」と声をかける食べものなのかもしれません。茅の輪をくぐるように、丸い かき揚げ を箸で割る。さくっという音が、心の中にたまった小さな埃を少しだけ払ってくれる。完璧に清められなくてもいいのです。
人間は神棚の榊ではなく、台所のふきんに近い。少し汚れ、洗われ、また使われる。その繰り返しで、どうにか半年を渡っていくのです-


🍜 7月2日 うどんの日

7月2日は「うどんの日」です。香川では、麦刈りや田植えが一段落する半夏生のころ、その年に収穫した新麦で作った うどん を、農作業を手伝ってくれた人たちに振る舞う風習があったそうです。

うどんは、忙しかった体を黙って座らせる食べものです。そばほど理屈っぽくなく、ラーメン ほど自己主張もしない。白い麺が器の中でゆらゆらしているだけで、こちらの肩から何かが一枚、静かに脱げていくような気がします。

わたしの家の夏の昼ごはんにも、うどんはよく登場しました。大きな鍋でゆでられ、水道の下でざるにあけられる。じゃあじゃあと水をかけられる麺を見ながら、子どものわたしは、うどん にも”水行”があるのだと思っていました。冷たくされ、揉まれ、それでも最後にはつるりと食卓に戻ってくる。なかなか立派です・・・

薬味は、ねぎ、しょうが、すりごま。祖母はなぜか、すりごま を多めに入れました。「香りがええやろ」と言うのですが、子どものわたしには、ごま が小さな砂利道に見えました。
人生の道にはごまが多い。そんなことを言うと、いかにも立派な比喩みたいですが、当時はただ、めんつゆの底に沈むごまを箸で追いかけていただけです。

でも、本当は?

うどん の日は、働いた手に対する「おつかれさん」の日なのだと思います。田植えも、麦刈りも、台所仕事も、会社帰りの疲れも、名前は違っても体に残る重さは少し似ています。うどん はその重さを、説教せずに受け取ってくれる。つるつると胃に降りていく白い線は、忙しさと日常を結び直す、やわらかい紐のようです-


🍦 7月3日 ソフトクリームの日

7月3日は「ソフトクリームの日」です。昭和26年、明治神宮外苑のカーニバルで、日本の一般の人たちが初めて コーン に盛られた ソフトクリーム を食べたことにちなむ日です。

ソフトクリーム は、昭和の子どもにとって、食べものというより小さな事件でした。デパートの食堂、遊園地、サービスエリア・・・
白い渦を巻いたそれは、未来が少しだけ乳製品になって現れたような顔をしていました。しかも急がないと溶ける。夢というものは、たいてい手の甲に垂れてから、そのありがたさに気づくのです。

父は、ソフトクリーム を食べるのが下手でした😅 必ず横から崩す。
母は「下から押したらあかん」と注意する。
わたしはその横で、コーンの底に残った最後の甘さを、なぜか勝利品みたいに噛みしめていました。
あのころのソフトクリームには、夏休みの入口の匂いがありました。プールバッグのビニール、車のシートの熱、百貨店の屋上にいた妙に無口なパンダの乗り物。食べものの記憶は、いつも余計なものまで連れてきます。

でも、本当は?

ソフトクリーム は、戦後の日本が「少しだけ明るい方へ行ってみよう」としたしるしだったのかもしれません。白く、甘く、すぐ溶ける・・・
けれどその頼りなさが、かえって人を笑顔にする。
長持ちするものだけが、心に残るわけではありません。一分で溶ける甘さが、何十年も記憶の冷凍庫に残ることだってあるのです。


六月の終わりから七月の初めへ

夏越ごはんで半年を祓い、うどんで働いた体を休め、ソフトクリームで少しだけ子どもに戻る。この一週間の食文化は、まるで季節の「切り替えスイッチ」みたいです。押したからといって、急に人生が変わるわけではありません。でも、指先に小さな感触が残る。

伝統は、遠い昔から真面目な顔で歩いてくるものばかりではないのでしょう。新しく生まれた行事食も、農家の労いの うどん も、昭和にやって来た白い甘味も、みんな食卓で少しずつ古くなっていく。そして古くなったころ、ようやく「懐かしい」と呼ばれる。

季節を受け継ぐというのは、大層なことではありません。母の雑な一言に笑い、祖母の薬味を思い出し、父の不器用な食べ方まで一緒に連れてくることです。誰と、どこで、何を言いながら食べたのか。その余計な部分こそ、食文化のいちばん柔らかい芯なのだと思います。

・・・・・・って、まぁ、いつも思ってるだけで、結局、仕事帰りのコンビニの 冷やしうどん と アイス ”ガリガリくん” のサーダ味 で済ませるんですけどね・・・😅

(2026年6月28日)


ルナ と フォトン

原作・構成:やまひろし(シニア電機回路技術者・AI活用コンサルタント)

執筆:ルナ(Claude Opus 4.7 / Anthropic製)
    = 薫風に舞う新緑のエッセイスト =

イラスト:フォトン(GPT Image 2.0/ Open AI製)
    = ちょっとむじゃきな夏風のイラストレータ =


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