ホンモノ大人は、にしんそばを食べる【十杯目 松葉・京都】
さて、いよいよ松葉さんの出番である。
にしんそばファンのみなさま、お待たせしました。
にしんそばと言えば松葉。
松葉と言えばにしんそば。
この等式に異論を挟む者は、少なくともボクの周囲にはいない。
にしんそばファンからすれば、もはやひとつの宗教に近い。
いや、宗教というよりも、もう少し具体的に言えば——
釈尊である。
ボクのような未熟なにしんそば信徒にとって、松葉はブッダだ。
そしていつの日か、その教えを正しく理解し、にしんを静かに汁へと沈めることができるようになったとき、ボクもまた舎利子のように悟りへ近づくのだろう。たぶん。
ではなぜ、松葉はそこまでの存在なのか。
話は明治15年、1882年までさかのぼる。
にしんそばを発案したのは、「松葉」2代目の松野与三吉さん。
当時、京都の貴重なタンパク源であった身欠きにしんを、どうにか蕎麦と合わせられないかと考えた末に生まれたのが、この一杯だ。
ちなみに「身欠き」とは、
にしんの腹側を切り落とした加工法に由来する言葉。
身を欠く、と書いて身欠き。
この時点ですでに、どこか修行の気配がある。
そして、ここからが重要である。
ボクが勝手に「松葉スタイル」と呼んでいる作法
にしんを、そばに潜らせる。
初めて見ると、少しだけ戸惑う。
主役であるはずのにしんを、なぜあえて沈めるのか。
しかし、ここに深い意味がある。
にしんは、ただ乗せるものではない。
溶け込ませるものなのだ。
甘辛く煮込まれた脂と旨味が、静かに出汁へと広がる。
京風の上品なつゆが、少しずつ変化していく。
にしんがつゆに溶け、
つゆがにしんを受け入れる。
この一体感。
これはもう、味覚の中の「色即是空」である。
さらに、にしんは温まることで柔らかくなる。
最初は少し固さを残していた身が、
つゆの中でゆっくりとほどけていく。
そして気づけば、蕎麦と区別がつかないほどに馴染んでいる。
形はあるのに、境界はない。
ここでもやはり、どこか般若心経的な世界観が顔を出す。
しかも、にしんは熱を保つ。
最後まで、あたたかい。
これもまた、ありがたい。
こうして考えると、このスタイルは単なる見た目ではない。
非常に理にかなっている。
だからこそ不思議なのは、
なぜ他の店がこの作法を徹底しないのか、という点だ。
悟りへの道は、意外と共有されないものなのかもしれない。
上品な出汁と、にしんの甘み。
春でも、夏でも、秋でも、冬でもいい。
ふとしたときに食べたくなる。
そして食べるたびに思う。
ああ、この味がわかるようになったんだな、と。
少しだけ、大人になった気がする。
にしんそばは、旨い。
それ以上の説明は、たぶんいらない。
