90歳母の「面白くない」から始まった奇跡:ブログで繋がる親子の絆
2020年、コロナ禍で母から突きつけられた「あんたといても、ちっとも面白くないんよ」という言葉は、まるで心臓をナイフで刺されたように、私の心を深く傷つけた。その言葉が響いたのは、単なる言葉の重みではなく、これまで当たり前だと思っていた母との愛情という名の絆が、音を立てて崩れていくのを目の当たりにしたからだった。
定年退職後のストレス、外出自粛による閉塞感、そして何よりも、すれ違うばかりの毎日に、私たちは憎しみさえ感じ始めていた。しかし、そんな絶望的な状況から、90歳の母と私が始めた、あるブログが、私たちを奇跡的な絆で結び直してくれたのだ。

【1】「面白くない」の一言が引き金:コロナ禍で深まる親子の溝
きっかけは私の定年退職だった。
2020年春、コロナ禍の外出自粛は、私たち親子の関係に暗い影を落とした。定年退職後のストレスと、日常の些細な衝突が重なり、私たちは憎み合う寸前まで追い詰められていた。
母と二人の生活で、毎日顔を合わせれば、小さな喧嘩が絶えない。
食事の味付けが、濃い薄いから始まり、テレビの音量が大きすぎる、エアコンの温度が高い低いといったことまで、次第にお互いの存在が目障りに感じるように。それぞれの自室にこもる時間が増え、ますますコミュニケーション不足に陥っていた。

「あんた、今日のご飯、柔らかすぎらい?水っぽい気がする」母の何気ない一言に、私はカチンときてしまった。「お母さんはいつもそう。硬めが好きだって知ってるけど、私はこれでいいのよ」そんな些細なことから、言い争いが始まるのだ。まるで小さな火種が、あっという間に燃え広がる炎のように。私には母の言葉が、私を全否定しているように聞こえた。
そんな毎日が続いたある日、母がポツリと「あんたといても、ちっとも面白くないんよ」と呟いた。本当は、優しくなだめるべきだったのだろう。でも、私は「私だって、癒されないのよ」と、つい口走ってしまったのだ。その日から、まるで、氷の壁が私たちの間に築かれたようだった。
このままでは、冬の毎日が続くと思い、数週間後、私から提案した。「お母さん、一緒にブログを書こうよ!」と。
私は、テレビ局で制作の仕事をしていて、毎日、情報を見つけ発信していた。リタイヤで突然仕事が無くなり、何かを発信したいという欲求が抑えきれずにいたのだ。
【2】「絶対に嫌!」からの奇跡:90歳母の心を溶かした娘の情熱
このままでは、母との関係は修復不可能かもしれない。何かを変えなければ。そう焦っていた時、ふとテレビ局時代に培った情報発信のスキルを活かすことを思いついた。そうだ、ブログを始めてみよう。私の発信力に、母の俳句を加えれば、オリジナリティのあるブログになるはずだ。
ただ俳句をのせるのではなく、イラストと俳句のコラボ作品が個性的でいいだろう。そんな考えが浮かんだ時、父が亡くなってから、母が毎日書いている絵日記を思い出し、「イラストはお母さんに描いてもらおう」そう決めたのだ。
母のイラストは、その日の出来事をトピックスとして描いているものだった。決して上手くないけれど、味があって、癒されるので、何とか母を説得して、ブログを一緒にやりたいと思ったのだ。


母は、初めは「絶対に嫌よ」と拒んでいた。「俳句なら詠んでもいいけど、イラストは自信がないけん、絶対に嫌よ」母は首を縦に振らなかった。俳句歴40年。母にとって俳句は、長年培ってきた自信の証。しかし、イラストは全くの未経験。「私には無理なんよ」の一点張りだった。
「私は、イラストなんか勉強してないし、人に見せるために描いてないしね」と頑なだったが、私が諦めずに説得を続けると、ついに「…それじゃあ、やってみようかしら」と、重い口を開いてくれたのだ。その言葉を聞いた瞬間、私は心の中でガッツポーズをした。
母はきっと、SNSへの危惧、そして何よりも、「こんな年になって、新しいことを始めるなんて…」という恐れ、そして自分のイラストの力不足に、大きな不安を抱えていたのだろう。しかし、その時、母が勇気を持って一緒にブログを書こうと決めたことが、今の私たちの幸せに繋がっている。きっと母は、娘の生きがいづくりのために、引き受けてくれたのだ。
あの時、断られていたら、私たちは、今も、相変わらず冷戦の日々を送っていたに違いない。

【3】90歳からの再出発:ブログが母に与えた情熱と人生の輝き
ブログを始めるという決意が、母の中に眠っていた創作への情熱を呼び覚ました。私もSNSのことはよく分かっていなかったので、半年間ほどは助走期間として、毎日SNSに上げないブログを書きながら、ノウハウを学んでいた。
トレーニング期間に、多くの人に愛されるブログにしようと、試行錯誤した。毎日の食事のメニューを撮影して説明を加えたり、教訓めいたことを書いたりもした。しかし、それでは自分たちの個性が出ない。どこか違うと思いながら、色々なパターンを考え、最終的に落ち着いたのが、私のエッセイと母のイラストと俳句のコラボ作品を載せることだった。
エッセイは日常の小さな出来事を捉えて書き、母の創作は季節の変化をイラストで表現し、それに合わせて俳句を詠むことにした。
そのイラストと俳句のコラボ作品は、本当に母らしいものになったので、母の近作を見てください。
【母のイラストと俳句のコラボ作品】



ブログ発信の助走期間からずっと、母は人に見せても恥ずかしくない、自分が納得できるイラストを描こうと、懸命な努力を重ねていた。そこから、母の日常は一変した。それまで熱中していた韓流ドラマを見る時間も惜しみ、イラストを描くために、まるで情報ハンターのように情報に敏感になった。
新聞、テレビ、雑誌、チラシと様々なものに目を通し、描くモチーフを探していた。桜が満開になった、お堀の白鳥が水浴びをしてる、菖蒲園の花が咲き始めた。そんな情報を知ると、すぐにイラストに描いていた。「情報を集めるんは、楽しいんよ」と、笑顔を見せた。
日記はクレパスを使って描いていたが、あまり力を入れなくてもスラスラと描ける筆ペンに、持ち変えて挑んでいた。
途中からは、カラーの筆ペンも、使うようになり、制作のバリエーションが一気に広がっていた。
それに加え、ヨーロッパの印象派や日本の浮世絵画家の図録を横に置き、毎日何枚も模写をしていた。その懸命な努力を見て、私は母の姿に娘ながら、心を打たれ尊敬のまなざしで見ていた。母の創作者としての顔を知ったからだった。


当然、そこまで頑張っている母の作品はみるみる上達し、その進化は目覚ましいものがあった。
「お母さん、凄いね」というと、「人様に見てもらうんじゃけん、中途半端なもんは出せんわい」と目に気合が入っていた。
90歳を過ぎても、こんなにも情熱を燃やせるのかと、感銘を受けた。
二人でブログを発信するようになって、母の日常は激変し、毎日早朝からイラストを描くようになり、それが母のルーティンとなった。
私も、毎日エッセイを書いて、自分の創作活動に力を入れた。
ブログを立ち上げる時、SNSのことを何も知らなかった私に、その分野に詳しいライターが教えてくれ、2020年10月9日にやっと二人のブログを始めることができた。
その時、二人でスマホやパソコンの画面を見て、大はしゃぎした。久しぶりに二人で、ビールで乾杯し、母にとって、この上なく忘れられない日となった。もちろん、私も震える手で、投稿ボタンを押したあの日のことは忘れない。
私たちのブログは5年間の間に、少しずつ投稿スタイルを変えてきた。初めはブログの中に、新聞のように様々な情報を盛り込んでいたが、今は毎日4つの投稿を時間を分けて出すことにしている。午前中は私が書く親子の日常を切り取ったようなエッセイと、母のイラストと俳句のコラボ作品を投稿して、私の音声で解説している。
夕方以降は、親子の一日を振りかえる「フリートーク」と、母の表情とその日描いたイラストを撮影した写真に、コメントを添えた「つぶやき」を投稿している。


うれしいことに、私たち親子の熱烈なファンがいて、みなさん投稿を楽しみにしてくれている、誕生日などの特別な日には、メッセージも寄せてくれるのだ。スキを示すハートマークが2700を超える記事もある。母はいつも「ありがたいね」と言っている。
親子二人三脚のブログなので、毎日相談しながら進めている。そうすることで、新しいコミュニケーションが生まれるのだ。「今日は、お母さん、イラストと俳句のコラボ作品は何にする?」と尋ねると、『今どうしようかと悩んでいるんだけど、この時期に、いい季語、何があるかな』などと言いながら、創作について日々話し合っている。まるで仕事仲間のように。
夜には二人のブログのアクセス数や、コメントなどを語り合い、「今日はお母さんに、メッセージが来てるよ、頑張ってくださいって、良かったね」と伝えると、『本当に有難いね、それは岐阜の人、いっつも心配してくれて、嬉しいわい』などと言って、会話が深まっていく。二人にやっと春が訪れた。

それから、母のイラストの進化が止まらず、娘の私から見ても、かなりの上達ぶりに、私が「お母さん、人は何歳からでも好きなことが見つかれば進化することを伝えるために、個展を開こう」というと、母の顔がきりりと引き締まり、『それは、嬉しいね』と言った。私は、母の人生に花を咲かせるためにも個展を絶対成功させなければと思った。
【4】93歳の夢、ついに開花!:個展開催までの感動と涙の軌跡
念願の個展開催に向けて、親子の絆はさらに強くなった。
全てが初めてのことだったので、本当に大変だったが、とにかく母の個展に多くの方に来ていただこうと無我夢中だった。母は、緊張と同時にわくわくしていた。
会場は、母が行きやすく、多くの人に来てもらえる場所で、バリアフリーであることが大原則。母がシルバーカーで移動できる場所を何か所も下見した。無理かもしれないと思いながら、当たって砕けろでお願いした地元のデパート「松山三越」が私たちの趣旨に賛同して下さって、催事場を借りることができて、一安心した。
展示方法には最も頭を悩ませた。展示用の額を100点近く購入するのは大変だったので、原画を印刷して、特殊パネルに貼る方法を教えてもらい、作業はコピー会社に依頼した。成功させるために、何度も何度も打ち合わせを重ねた。
いよいよ、展示作品の選別だ。会場のスペースが決まっているので、厳選する必要があった。ちょうど個展の時に母が93歳なるので、93点展示することにした。
それまでの作品が15000点もあったので、その中から93点を選ぶのは大変だった。母は、自分の作品すべてに愛情を注ぎ、本当は全部飾りたいと思っていたようだった。
二人で何十回も見直して、母の意向を優先しながら、作品を並べた時に、バランスがいい物を選び抜いた。

作品を選んでからは、展示スペースを決めた。自宅の壁を展示ボードに見立てて、仮に貼ってみながら、サイズを見たり、展示する順番を決めたり、何十時間もかかったが、母にとってはそれも大きな張り合いになったと思う。

ポスターやチラシも制作して、いよいよメディアに取材に来てもらうためのPR活動をした。私がそれまで、テレビ局で取材をしていたことが大いに生かされた。開催日を9月12日からにして、敬老の日を挟んでいたことで多くのメディアが取材に来てくれた。
私は、取材依頼書を各社に持って回り、イラスト展の概要を一生懸命プレゼンして、取材に来て欲しいとお願いした。担当者はきっと、私の熱意に驚いていたと思う。
NHK、テレビ愛媛、愛媛新聞、毎日新聞、そしてフリーペーパーの取材もあって、母は一躍、時の人となった。イラストを描くシーンを撮影されたり制作の苦労話を聞かれたり、好きな食事のメニューまで質問されて、「ステーキが好物です」って楽しそうに答えていた。「私なんかがテレビに出たら、みんな驚くよね。93歳なんじゃけん」と言いながら、平常心で受け答えしていた母には驚かされた。

【2023年9月12日「ばあば夢のイラスト展」開幕】


イラスト展当日、母は会場に入ってすぐ、これまでに見せたことが無いような誇らしい顔をして、「ありがとう、こんなに素晴らしい個展が開催出来て、私は夢を見ているみたいじゃわい、日記を書きよっただけじゃったのに、こんな幸せが訪れるとは」と、涙ぐんだ。母の子どものような感受性豊かな反応に、私も思わず涙を流した。





マスメディアの放送効果もあって、個展には予想をはるかに上回る1000人もの方たちが来てくださった。
母の絵は、まるで春の陽だまりのように、見る人の心を明るく照らしてくれるので、個展会場には、やさしい空気が流れ、訪れた人たちの、楽しい笑い声や、微笑ましい会話が各所から聞こえていた。ある若い女性は、母の絵を見て、「90代のイラストには見えないです。ポップで若々しい、大好きです!私も、こんな風に年を重ねたい!」と、涙ながらに語ってくれた。私は母の努力が報われたことを確信した。
70代の男性は、「私もこれからまた新しい趣味を見つけますよ。おばあちゃんから、物凄く元気をもらいました!人生は、何歳からでも楽しめるんですね!」と、母に握手を求めてくれた。母は「私は90歳からイラスト始めたんじゃけん、あなたなら、まだまだ何でも始められますよ」と肩を叩きながら励ましていた。私は、母のエネルギーが人に伝わった瞬間を見た気がした。
たくさんの皆さんから話しかけられ、賞賛の言葉をもらって、母はこれまでの人生で、一番輝く、花のような笑顔を見せていた。

母が大切にしているイラストと俳句のコラボ作品、『人誰も逝く日を知らず曼珠沙華』の句の前で涙を流している人を見て、母ももらい泣きしていた。母は自分の作品に感動してくれていることに、創作者としての喜びを感じているようだった。


私も母も、そして東京から駆けつけてくれた、妹の家族にとっても、この「ばあば夢のイラスト展」の開催は忘れられない出来事になった。
そして、訪れてくれた人たちも「人は幾つからでも好きなことが見つかれば、進化できる」という母のメッセージを受け取ってくれたと思う。
母にとって個展の開催は、何よりも素晴らしい人生の宝物になった。
「ブログを始めて良かったわい、こんな素敵なプレゼントをもらって、私は幸せもんじゃ、ありがとう!」と言って、母は私の手をしっかり握りしめてくれた。私たちは暫くの間、イラスト展の余韻に浸っていた。
【5】個展がもたらした奇跡:95歳母と娘の新たな挑戦
個展開催は、その後の嬉しい出来事へと繋がった。
実はそのイラスト展を見た来場者の一人が、地元の愛媛新聞に私たちのことを書いて投稿してくださったのだ。「おばあちゃんのイラストが素晴らしく、また親子二人三脚でやっていることに心を打たれた」と。
その新聞記事に私がお礼の意味で再び投稿した記事が採用されて、親子で子どものように飛び跳ねて喜び合った。二人の胸に桜が満開になったような幸せが訪れた。
それから、私自身がエッセイを書くことに目覚めて、新聞投稿を重ねていると、ある日、新聞社から嬉しいお知らせが舞い込んできた。「ぜひコラムを書いてください」という依頼だった。「新聞社から電話があったの、毎週金曜日に、コラムを書くことになったよ」と、母に伝えると、母は自分のこと以上に喜んで、大きな拍手を送ってくれた。
そんな姿を見て、我慢していた私も思わず涙ぐんだ。書くことを認められたような気がしたからだ。その時、親子の心が、一つになった。母は私が打ち込めるものが見つかったことが、何よりうれしかったようだった。

私は母のイラストのように、多くの人を笑顔にするコラムを書くのが目標だ。新聞のコラムでは、テレビ局時代にアナウンサーやデレクターとして経験した、愛媛県内各地の取材の裏話はもちろん、43年の仕事人生で学んだ人生哲学やアナウンサーあるあるや、ハウツー的なことを、私なりに楽しく分かりやすく書いている。
先日は、かつて取材で訪ねた事がある、瀬戸内海に浮かぶ愛媛県と広島県の県境が走る無人島「瓢箪島」で出合った、哲学者のような顔をしたヤギのことを書いた。それが好評で、「いつも珍しい情報をありがとう」「また、来週も楽しみにしていますよ」と読者や知人からメッセージをもらっている。
母とのブログ発信が、私にも幸せな時間をプレゼントしてくれた。
【6】100歳まで描き続ける!母と娘、未来への絆と誓い
私たちは今、お互いを尊敬し、支え合いながら、日々ブログ制作を楽しんでいる。母は100歳までイラストを描き続けたいと意欲満々だ。

もしあの時、母がブログを書くことを断っていたら、今の私たちは存在しなかっただろう。
人生の選択は、その時その時、一瞬一瞬が未来を形作っていくのだと、改めて感じている。
私は母に感謝しかない。あの決断があったから、今、私たちは仲良く同士のように繋がっている。2020年のコロナ禍にいた親子が嘘のようだ。私と母は、ブログを始めたことで、新しい関係を手にすることができたのだ。
これからも、母との絆を大切にし、ブログを通じて、多くの人に勇気と希望を届けたい。そして、母が100歳を迎える時には、より進化した母の作品を多くの人に見てもらって、母の人生を祝福したいと思っている。
私たちに幸せを運んでくれたnoteと、応援してくださる皆様に心から感謝します。「ありがとうございます。」
最後に、母がお気に入りのイラストをご紹介して終わりにします。







95歳の母と私が紡ぐ物語は、まだまだ続きます。これからも、私たちのブログで、日々の出来事や、感動、そして笑顔をお届けしていきます。応援どうぞよろしくお願いします!そして、もしあなたが今、何かにつまづいているなら、ぜひ私たちのブログを訪れてみてください。きっと勇気と希望が湧いてくるはずです。
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