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【小説】吹き荒れたる碧 第二部 深淵と奔流

第二部 深淵と奔流


第9章 静かなる再始動

あの「月読の夜」から、 季節は何度かその表情を変えた。
梅雨の湿った空気が肌にまとわりつく日々が過ぎ、 じりじりとアスファルトを焦がすような真夏の太陽が照りつけ、 そして今、九月も半ばを過ぎると、 朝晩の空気にはようやく、秋の気配が微かに 感じられるようになっていた。
あれから、三ヶ月以上の月日が流れたことになる。
俺、結城 櫂ゆうき かいの生活も、 少しだけ変化していた。
コンビニのバイトは、あの夜以来、 当然のことながら戻っていない。
代わりに、市の図書館で、週に三日ほど、 書庫の整理や本の貸し出し業務のアルバイトを始めた。
時給は安いし、単調な作業ではあるが、 静かな場所で、本の匂いに囲まれているのは、 存外に悪くなかった。 何より、深夜の蛍光灯の下で無為な時間を過ごすよりは、 ずっと精神衛生上ましだった。
アパートの部屋も、 以前のような荒れ放題ではなくなった。 劇的に綺麗になったわけではないが、 床に物が散乱していることはなくなり、 読み終えた本はきちんと棚に収まっている。
机の上には、書きかけの原稿とノートが整然と置かれ、 豆から挽いたコーヒーの香りが、 部屋の空気を浄化するように漂っていることも多くなった。
自分自身の内なる「熱」と向き合い、 それを制御するための、やかな試みだった。
衝動的に暴走するのではなく、 日々の生活の中に、小さな秩序を作り出すこと。 それが、今の俺に必要なことのように思えたのだ。
創作は、続けていた。 あの灯台守の物語を。
それは、以前とは明らかに違う様相を呈し始めていた。 水瀬 澪みなせ みおとの出会い、 そしてあの「月読の夜」の出来事を経て、 俺の視点は大きく変わったのだ。
登場人物の感情を直接的に描くのではなく、 その人物を取り巻く風景や、光と影、 沈黙や余白を通して、その内面を暗示しようと 試みるようになった。
それは、澪が語った「水面に映る月」の比喩や、 「距離を置いて見つめる」という言葉が、 俺の中で血肉となった結果なのかもしれない。
進みは遅い。 一行書くのに、何時間もかかることもある。 けれど、以前のような焦燥感は薄れ、 むしろ、言葉の深淵を覗き込むような、 静かで、けれど確かな手応えを感じていた。
だが、心のどこかには、 常に一つの空隙くうげきがあった。 水瀬 澪みなせ みおの不在。
あの日以来、俺はカフェ「月読」から遠ざかっていた。 彼女に会うのが怖かったわけではない。 むしろ、会いたくてたまらなかった。
だが、同時に、あの夜の出来事で、 俺たちの間にあった脆く、けれど特別な繋がりが、 完全に断ち切られてしまったのではないかという 恐れがあったのだ。
そして、もし再会できたとしても、 どんな顔をして、どんな言葉を交わせばいいのか、 わからなかった。
彼女の「静けさ」を尊重すると決めた以上、 以前のように、無邪気に彼女の領域に 踏み込むことは許されない。
それでも、秋の気配が深まるにつれて、 彼女への思いは募る一方だった。
彼女は今、どうしているのだろうか。 あの影…… (戸隠 譲とがくし じょうの名を持つと後に知る)男は、 まだ彼女の周りを嗅ぎまわっているのだろうか。 彼女の心の ブルー は、 少しでも和らいだのだろうか。
ある土曜日の午後、俺は意を決して、 久しぶりに「月読」へと向かった。
玉川上水沿いの遊歩道は、 木々の葉が少しずつ色づき始め、 散策する人々の姿もまばらに見えた。 空は高く澄み渡り、 空気はひんやりとして心地よい。
だが、俺の心臓は、カフェが近づくにつれて、 期待と不安で早鐘を打っていた。
店の前に立ち、深呼吸を一つ。 古びた木の扉に手をかける。 カラン、という懐かしいベルの音。 コーヒーの香り。 そして、静かに流れるジャズピアノ。 全てが、以前と変わらない。
店内を見渡す。 客は数人。 カウンターに座る老人、 窓際のテーブルで話し込む若い女性二人組。
そして……。
俺は息を止めた。
店の奥、いつもの隅の席。 彼女が、いた。 澪が、そこに座っていたのだ。
季節に合わせてか、今日は薄手の生成きなり色のニットに、 濃紺のロングスカートを身につけていた。 髪は、以前と同じように艶やかな黒。 窓からの柔らかな秋の日差しが、 彼女の横顔を優しく照らしている。
手元には、やはり分厚い本が開かれていたが、 視線は窓の外、色づき始めた街路樹に向けられているようだった。
三ヶ月ぶりに対面した彼女は、 以前とほとんど変わらないように見えた。 相変わらずの静謐さ、 近寄りがたいほどの透明感。
けれど、どこか違う。 以前感じた、張り詰めたような脆さが、 少しだけ和らいでいるような…… いや、それは俺の願望が生み出した錯覚かもしれない。
心臓が、ドクン、ドクンと音を立てているのがわかる。 だが、同時に、不思議なほどの冷静さも保っていた。
ここで焦ってはいけない。 彼女の静寂を、尊重しなければ。
俺は、彼女から少し離れたカウンター席に、 静かに腰を下ろした。
「……いらっしゃい」 月見 宗つきみ そうさん(店主を、俺はそう呼んでいた)が、 いつものように低い声で言った。 「久しぶりだね」
「……ご無沙汰してます」
「いつものかい」
「はい、お願いします」
月見つきみさんは黙って頷き、 コーヒーの準備を始めた。 豆を挽く音、お湯が沸く音。 それらの日常的な音が、今の俺には、 まるで儀式の一部のように厳かに聞こえた。
俺は、カウンター越しに、 静かに彼女の様子を窺った。
彼女はまだ窓の外を見ている。 俺が入ってきたことに気づいているのか、いないのか。 表情からは読み取れない。
ただ、その姿がそこにあるというだけで、 このカフェの空気が、密度を増し、 特別なものに変わるのを感じた。
やがて、コーヒーが目の前に置かれた。 立ち上る湯気と香り。 カップを手に取り、一口含む。 深い苦味と、秋の空気のように澄んだ後味。 心が、少しずつ落ち着いていく。
その時、ふと、彼女がこちらに視線を向けたのがわかった。 俺は、慌てずに、ゆっくりと顔を上げた。 彼女の蒼い瞳と、視線が交錯する。
時が、止まったような気がした。
彼女の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。 だが、以前のような、全てを拒絶するような 硬さは感じられない。 ただ、静かにこちらを見つめている。 その視線は、まるで、久しぶりに再会した古い知人に 注がれるような、どこかニュートラルな色合いを 帯びていた。
俺は、どうすべきか迷った。 何か言うべきか? それとも、ただ黙って会釈だけするべきか?
逡巡する俺より先に、 彼女が、ほんのわずかに、 口元だけで微笑んだように見えた。 そして、小さく、ほとんど音にならないほどの会釈をした。
俺もまた、ぎこちなく会釈を返した。 それだけだった。
けれど、その短い、言葉のないやり取りだけで、 俺たちの間にあった氷壁が、 ほんの少しだけ、溶け始めたような気がした。
完全に消え去ったわけではない。 けれど、もう以前のような、 触れたら砕け散ってしまいそうなほどの緊張感は、 そこにはなかった。
彼女はすぐに視線を窓の外に戻し、 再び静かな思索の世界へと沈んでいった。
俺もまた、自分のコーヒーへと意識を戻す。 だが、心の中には、温かい波紋が静かに広がっていた。
彼女は、俺を拒絶しなかった。
それだけの事実が、 乾いた心に染み渡る湧き水のように、 俺を潤してくれた。
その後、一時間ほど、俺はカフェで過ごした。 その間、彼女と再び言葉を交わすことはなかった。
ただ、時折、ページをめくる音や、 彼女がカップを置くかすかな音、 そして俺がキーボードを (今日は図書館の仕事ではなく、 自分の創作のために持ち込んでいた)叩く音が、 店内に静かに響くだけだった。
だが、その沈黙は、心地よかった。 それは、互いの存在を認め合い、 尊重し合っているからこそ生まれる、 穏やかで、満たされた沈黙だった。
俺は、自分のラップトップに向かい、 灯台守の物語の続きを書き始めた。 言葉が、以前よりも自然に、 淀みなく流れ出してくるのを感じる。 それは、彼女が近くにいるという、 ただそれだけの事実がもたらす、 不思議な力なのかもしれない。
俺の「熱」は、もはや暴走する奔流ではなく、 静かに、だが力強く燃え続ける熾火のように、 創作のエネルギーへと昇華しょうかされようとしていた。
やがて、彼女が静かに立ち上がり、 帰り支度を始めた。
俺は、書く手を止め、彼女の姿を目で追った。 彼女は、カウンターで会計を済ませると、 ドアへ向かう途中で、 俺の席の近くで足を止めた。
そして、俺を見て、静かに言った。
「……秋ですね」
それは、季節の挨拶。 ただ、それだけのこと。 けれど、彼女の口から発せられたその言葉は、 特別な響きを持って俺の耳に届いた。
「……そうですね」 俺もまた、静かに答えた。 「過ごしやすい季節になりました」
「ええ」 彼女は、ほんのわずかに頷いた。 「……では」
そう言って、彼女は今度こそ、カフェを出て行った。 カラン、とベルが鳴り、扉が閉まる。
俺は、しばらくの間、彼女が立っていた場所に 目を向けたまま、動けなかった。
胸の中に、温かいものが、 ゆっくりと広がっていくのを感じる。
静かなる再始動。
俺たちの関係は、壊れたわけではなかったのだ。 ただ、形を変え、新たな段階へと移行しただけなのかもしれない。
もちろん、彼女の抱える謎や、 戸隠とがくしの影といった問題が解決したわけではない。 深淵は、まだすぐそこに口を開けている。
だが、今は、それでいいと思えた。 焦る必要はない。 彼女のペースに合わせ、彼女の静寂を尊重しながら、 ゆっくりと関係性を紡いでいけばいい。 そして、俺は俺で、自分の内なる声に耳を傾け、 言葉を紡ぎ続けていけばいいのだ。
コーヒーの最後の一滴を飲み干す。 窓の外では、傾き始めた陽の光が、 色づいた葉を黄金色に照らしていた。 美しい、と思った。 世界は、まだこんなにも美しさに満ちているのだ。
俺はラップトップを閉じ、席を立った。 カフェを出ると、ひんやりとした秋の風が心地よかった。 空を見上げる。高く、どこまでも澄んだ空が広がっていた。 その青さは、彼女の瞳の色を思い出させたが、 もはやそこに恐怖や不安はなかった。 ただ、静かで、穏やかな、未来への予感のようなものが、 胸を満たしていた。


第10章 影の囁き

九月が終わりに近づき、 小平の街には本格的な秋の気配が 漂い始めていた。
玉川上水沿いの桜並木は、 緑の中に黄色や赤を点々と散りばめ始め、 空は高く澄み渡り、陽の光は夏のそれとは違う、 どこか柔らかく、物寂しい色合いを 帯びていた。
俺、結城 櫂ゆうき かいの心にも、 あのカフェでの水瀬 澪みなせ みおとの 静かな再会以来、 久しぶりに穏やかな時間が訪れていた。
図書館でのアルバイトにも慣れ、 規則正しい生活リズムが、 精神的な安定をもたらしてくれていた。
何より、創作が再び軌道に乗り始めたことが大きかった。
澪という存在は、依然として謎めいてはいるが、 もはや俺を混乱させるだけの存在ではなかった。
彼女の「静けさ」や、彼女が紡ぐ 暗喩的な言葉は、 俺自身の内面を探求し、物語に深みを与えるための、 かけがえのない道標となっていたのだ。
灯台守の孤独は、 より普遍的な人間の魂の有り様へと 昇華され、 言葉は、以前よりもずっと自由に、けれど慎重に、 紡がれていった。
カフェ「月読」には、週に二度ほど通った。 澪がいる日も、いない日もあった。
彼女がいる日は、以前のように短い会釈を交わし、 時には天気やコーヒーについて、 当たり障りのない言葉を二言三言交わすだけ。 けれど、そのやかな交流の中に、 確かに育まれつつある信頼のようなものを 感じていた。
俺は、彼女の過去や秘密について、 決して詮索しようとはしなかった。 ただ、彼女がそこにいるという事実、 その静かな存在感を、大切に受け止めようと 努めていた。
彼女もまた、俺のそんな態度を理解してくれているのか、 時折見せる表情には、以前のような張り詰めたものが消え、 微かな安らぎのようなものが 浮かんでいるように見えた。
この穏やかな日々が続けばいい。 そう願っていた。
だが、心のどこかで、 まだ燻り続けているものがあった。 あの男───影のような男の存在だ。
彼が残していった不穏な言葉と、 その時の澪の恐怖に満ちた表情が、 時折、悪夢のように蘇ってくる。
彼は一体何者で、澪の過去に何があったのか。 その疑問は、決して消え去ったわけではなかった。 ただ、今は、そっと蓋をして、 見ないふりをしているだけだったのだ。
その蓋が、再びこじ開けられたのは、 十月に入ったばかりの、 冷たい雨がそぼ降る夜のことだった。
図書館のアルバイトが終わり、 いつもより少し遅い時間に、 俺は雨に濡れた夜道を歩いていた。
時刻は午後十時を過ぎている。 街灯の頼りない光が、 濡れたアスファルトに反射し、 周囲の住宅街は深い静寂に包まれている。 車の通りもまばらで、 聞こえるのは自分の足音と、 傘を打つ単調な雨音だけ。
湿った冷たい空気が、 コートの隙間から忍び込み、 肌を刺す。 どこか物寂しく、心細くなるような夜だった。
アパートまであと少し、という角を曲がった時だった。
街灯の光が届かない、路地の暗がりから、 すっと人影が現れた。
思わず足を止め、身構える。 背の高い、スーツ姿の男。 その顔に見覚えがあった。
あの朝、カフェ「月読」で、 澪を怯えさせた男。 そして、以前、カフェの外から彼女を覗いていた、 あの影。
男は、雨に濡れるのも構わずに、 傘も差さずにそこに立っていた。 その顔には、あの時と同じ、 歪んだ、しかしどこか人好きのするような 笑みが浮かんでいる。
「やあ、結城 櫂ゆうき かい君、だったかな。 久しぶり」 男は、馴れ馴れしい口調で言った。 「こんな雨の夜に、悪いね」
俺は、警戒心を解かずに男を見据えた。 心臓が、嫌な予感を察知して、 ドクンドクンと大きく脈打つのを感じる。 雨音が、やけに大きく聞こえた。
「……何の用ですか」 俺は、できるだけ平静を装って尋ねた。
「まあ、そう警戒しないでくれたまえよ」 男は肩をすくめた。 「君に、少し話があってね。 もちろん、水瀬 澪みなせ みおさんのことだ」
やはり、そうか。 俺は、唾を飲み込んだ。 雨の冷たさが、背筋を這い上がってくるような 気がした。
「彼女のことは、あなたには関係ないはずだ」
「関係なくないさ」 男は笑みを深めた。 「俺は、彼女のことを心配しているんだよ。 そして、君のこともね。 彼女に深入りしすぎると、 君も危ない目に遭うかもしれないから」
「……どういう意味ですか」
「言葉通りの意味さ」 男は、一歩、俺に近づいた。 雨に濡れたスーツの匂いと、 微かにタバコのような匂いがした。 「君は、彼女の過去について、何か知っているのかね」
「……あなたこそ、何を知っているんですか」 俺は睨み返した。 「あの朝、カフェで言ったこと…… あれは、本当なんですか」
「信じるか信じないかは、君次第だよ」 男は肩をすくめた。 「だが、一つだけ言っておこう。 彼女が失くした 大切な人 …… それは、彼女の兄(・)だ。 名前は、水瀬 海斗みなせ かいと。 才能ある若手画家だったが、五年前に、 自ら命を絶った」
兄……。 海斗かいと……。 初めて聞く名前に、俺は息を飲んだ。 自ら命を絶った? それが、彼女のあの深い悲しみの理由……?
「だがね」 男は、声を潜めて続けた。 その瞳には、蛇のような、 冷たい光が宿っている。 「それは、単なる自殺じゃなかったかもしれないんだよ」
「……どういうことだ」
海斗かいと君は、亡くなる直前、 精神的にかなり不安定になっていた。 そして、その原因の一端は…… 妹である澪さん、君にもあったのかもしれない」
「……」 俺は絶句した。 澪が、兄の死に関係している? そんな馬鹿な。
「信じられない、という顔だね」 男は、俺の反応を楽しんでいるかのようだ。 「だが、事実は小説より奇なり、と言うだろう? 海斗かいと君は、澪さんの才能に嫉妬していた、 とも言われている。 あるいは、二人の間には、もっと複雑な、 近親憎悪きんしんぞうおのような感情があったのかもしれない」
男の言葉は、じわじわと俺の心に 毒のように染み込んできた。
そんなはずはない、と頭では否定しようとする。 俺が知っている澪は、あんなにも静かで、脆くて、 美しい存在だ。 彼女が、兄の死の原因の一端を担っていたなど、 考えたくもない。
「……あなたは、一体何者なんですか」 俺は、震える声で尋ねた。 「なぜ、そんなことを知っている? なぜ、俺にそんな話をする」
「俺かい? 俺は、ただの……まあ、 古い知り合い、とでも言っておこうか」 男は曖昧に笑った。 「そして、なぜ君に話すかと言えば…… 君が、彼女にとって 危険な存在 に なりつつあるからだよ」
「危険な存在」
「ああ。 君の存在が、彼女に過去を思い出させ、 不安定にさせている。 君は、彼女の静かな世界をかき乱しているんだ。 彼女のためを思うなら、これ以上、 彼女に近づくべきじゃない」
「……そんなことは」
「それに」 男は俺の言葉を遮った。 「君自身のためでもある。 彼女の過去に関わるのは、危険だ。 海斗かいと君の死には、まだ解明されていない 謎がある。 下手に首を突っ込むと、君も……」
男は、そこで言葉を切った。 だが、その後に続く言葉は、 想像するだけで背筋が凍るような、 不吉な響きを持っていた。
「……俺を、脅しているんですか」
「まさか」 男は、わざとらしく両手を広げた。 「ただの忠告だよ。 親切心からのね。 まあ、どうするかは君次第だ。 彼女の美しさに惹かれて、 破滅への道を選ぶのも、 また一興かもしれんがね」
男は、最後に不気味な笑みを浮かべると、 すっと身を翻し、来た時と同じように、 雨の降りしきる路地の暗がりへと、 音もなく消えていった。
俺は、その場に立ち尽くしていた。 雨が、容赦なく俺の体を打ち、 冷たさが骨身に染みる。 だが、それ以上に、男の残していった言葉が、 俺の心を凍てつかせていた。
水瀬 海斗みなせ かいと。 五年前に自ら命を絶った、澪の兄。 そして、その死に、 澪自身が関わっているかもしれないという、 おぞましい可能性。
男の言葉は、嘘かもしれない。 俺を澪から遠ざけるための、 悪質なでっち上げかもしれない。
だが、あの時の澪の動揺ぶり、 そして、彼女が時折見せる、 底知れないほどの悲しみの影を思い出すと、 完全には否定できない自分がいた。
彼女のあの ブルー は、もしかしたら、 深い罪悪感の色だったのだろうか。
頭が混乱していた。 何を信じればいいのかわからない。 静かだったはずの波紋は、今や濁流となり、 俺を飲み込もうとしていた。
男の囁き。 それは、疑念という名の毒矢となって、 俺の心に深く突き刺さった。 そして、その毒は、これから俺の心を、 静かに、だが確実に蝕んでいくのだろうという、 嫌な確信があった。
雨の中を、重い足取りでアパートへと歩き出す。 いつもは慣れ親しんだ小平の住宅街の風景が、 今はまるで知らない場所のように、 よそよそしく、そしてどこか脅かすように感じられた。
街灯の落とす影が、 まるで潜む誰かの姿のように見え、 背後から誰かにつけられているような気配に、 何度も振り返ってしまう。
あの男の目は、まだこの街のどこかから、 俺を監視しているのではないか。 そんな被害妄想にも似た恐怖が、 心を支配し始めていた。
アパートの部屋に転がり込むようにして入り、 鍵をかける。 部屋の中は、しんと静まり返っていたが、 その静寂はもはや安らぎではなく、 息苦しい孤独の色を帯びていた。
電気もつけずに、壁に背中をもたせ、 ずるずる床に座り込む。 冷たいフローリングの感触が、 現実感をわずかに取り戻させてくれた。
コーヒーでも淹れようかと思ったが、 体が動かなかった。 何かを書こうという気力も、もちろん湧いてこなかった。 男の言葉がもたらした「影」は、 俺の創造の泉をも、その底から濁らせてしまったかのようだった。
俺は立ち上がり、狭い部屋の中を意味もなく歩き回った。 まるで檻の中の獣のように。 壁に貼られたデッサンの切れ端や、 書きかけのプロットが目に入る。 それらも、今は色褪せ、 意味を失ったただの紙切れにしか見えなかった。
机の上に置かれたままだった、 あの押し花の栞に手が伸びる。 指先でそっと触れてみる。 ひんやりとした、滑らかな感触。
以前は、この栞に触れると、 澪の持つ静謐さや、どこか儚い美しさを感じたものだ。 だが、今はどうだろう。 この繊細なアネモネの花びらの奥に、 何か別の、暗い色が隠されているような気さえしてしまう。
この栞は、本当に澪が大切にしていたものなのだろうか。 それとも、これもまた、何か別の意味を持つ、 巧妙な小道具に過ぎないのだろうか。
馬鹿な考えだ、と頭を振る。 俺は、あの男の毒に侵されすぎている。 あの男の言葉を、鵜呑みにしてはいけない。 彼は、明らかに俺と澪の関係を裂こうとしているのだ。 何か目的があって。
だが、なぜ? 彼の動機は何だ? 澪に個人的な恨みでもあるのか? それとも、彼女の過去に関わることで、 何か利益を得ようとしているのか? わからないことだらけだった。
そして、もし、万が一、 男の言葉に一片の真実が含まれていたとしたら? 水瀬 海斗みなせ かいとという兄の存在。 五年前に自ら命を絶ったという事実。 そして、澪がその死に何らかの形で関わっていたという可能性……。
考えたくない。 だが、完全に否定することもできない。 あの時の澪の動揺ぶりは、 ただの狼狽ろうばいではなかったように思う。 そこには、もっと深い、根源的な恐怖のようなものが 潜んでいた気がするのだ。
俺はどうすればいい?
このまま、何も聞かなかったことにして、 男の言葉を無視する? 澪との間に芽生え始めた、 あの静かで穏やかな関係を、 壊さないように努める?
それが、おそらく一番 安全 な道なのだろう。 だが、一度植え付けられた疑念の種は、 そう簡単には消えない。 それに、もし澪が本当に何らかの危険な状況にいるのだとしたら、 俺が何もしないことで、彼女をさらに追い詰めてしまう ことにはならないだろうか?
では、調べる? 男の言葉の真偽を? 水瀬 海斗みなせ かいとという画家について。 五年前の死について。
だが、どうやって? 手がかりは、名前と曖昧な情報だけだ。 それに、そんなことをすれば、 それは澪に対する裏切りにならないだろうか。 彼女が隠したいと思っている過去を、 俺が勝手に暴こうとすることになる。
残る選択肢は、澪に直接、問いだすことだ。 だが、それは、あの「月読の夜」の再現にしかならないだろう。 いや、もっと酷い結果を招くかもしれない。 今度こそ、俺たちの間の繋がりは、 完全に断ち切られてしまうだろう。 そして、俺はまた、彼女を深く傷つけることになる。
どの道を選んでも、袋小路のように思えた。 俺は、彼女自身の秘密ではない、 あの男という第三者によって投げ込まれた情報によって、 がんじがらめになっていた。
重い沈黙が、部屋を満たす。 壁の時計の秒針の音だけが、 カチ、カチ、と無機質に響いていた。
雨は、いつの間にか小降りになっていたが、 まだ降り続いているようだった。 窓の外は、完全な闇に包まれている。 時折、遠くで車のヘッドライトが通り過ぎるのが見えるだけだ。
孤独だった。 こんな時、本田 拓実ほんだ たくみに相談できれば、と思う。 だが、彼にこの複雑な状況を話したところで、 きっと「関わるな」の一言で 片付けられてしまうだろう。
彼の現実的な判断は、おそらく正しいのだろう。 だが、今の俺には、その「正しさ」を 受け入れることができなかった。
俺はもう、ただの傍観者ではいられないのだ。 良くも悪くも、澪という存在に、 そして彼女を取り巻く謎に、 深く囚われてしまっているのだから。
結局、俺は誰にも相談できず、 一人でこの重荷を抱え込むしかなかった。
部屋の中を歩き回り、 壁に頭を打ち付けたいような衝動に駆られる。 窓の外を何度も確認するが、暗い路地に人影はない。 それでも、誰かに見られているような感覚は消えなかった。 カーテンの隙間から、 あるいは、壁の薄い隣の部屋から、 あの男の冷たい目が俺を監視しているのではないか。 そんな妄想が、頭から離れない。
気を紛らわそうと、音楽をかけてみた。 だが、どんなメロディも上滑りしていくだけで、 心の奥には届かない。 本を読もうとしても、文字が目に入ってこない。 ページをめくる指が、意味もなく空を切る。
無意識のうちに、スマートフォンの検索窓に 「水瀬 海斗みなせ かいと 画家」と打ち込んでいた。
いくつかの検索結果が表示される。 五、六年前若手の現代美術家として少しだけ 注目された時期があったらしい。 風景画とも心象画ともつかない、 青を基調とした、静かで、どこか不穏な雰囲気の 作品を描いていたようだ。 いくつかの作品画像が表示されたが、 解像度が低く、詳細はよくわからない。 そして、五年前に夭折ようせつした、という短い記述があった。
死因については、どこにも書かれていない。 もちろん、妹である澪との関係や、 男の語ったような複雑な事情に触れた記事など、 あるはずもなかった。
情報が少ないという事実は、 俺の不安を和らげるどころか、むしろ増幅させた。 隠されているからこそ、 そこには何かがあるのではないか。 男の言葉が、全くの嘘ではないという 証拠なのではないか。
疑念は、暗い想像力を掻き立て、 際限なく膨らんでいく。
疲れが、どっと押し寄せてきた。 肉体的な疲労というより、精神的な消耗だ。
俺は、自分が今、非常に危険な場所に立っていることを 自覚していた。 静かな水面だと思っていた場所が、 実は底なしの深淵であり、その縁で、 あの影のような男が不気味に手招きしている。 一歩踏み出せば、奈落へと引きずり込まれるかもしれない。 だが、引き返すことも、もうできないような気がした。
いつの間にか、俺は床に座り込んだまま、 壁に背中を預けて眠ってしまっていたらしい。 いや、眠っていたというよりは、 意識が途切れていた、という方が近いかもしれない。
悪夢を見ていたような気もする。 断片的なイメージ。 降りしきる冷たい雨。 底のない暗い井戸。 そして、恐怖か、あるいは深い悲しみに歪んだ、 蒼い瞳……。
はっと目を覚ますと、窓の外が白み始めていた。 雨は、いつの間にか上がっている。 部屋の中には、夜の間に溜まった淀んだ空気と、 冷え切った静寂だけが残っていた。 体は、鉛のように重く、 頭は鈍い痛みを訴えていた。
俺は立ち上がり、窓を開けた。 ひやりとした、雨上がりの湿った空気が 流れ込んでくる。 空はまだ低い雲に覆われていたが、 東の空が、わずかに明るさを 取り戻し始めていた。 小鳥のさえずりが、どこか遠くから聞こえてくる。
新しい一日が始まろうとしている。 だが、俺の世界は、昨夜とはもう、 まったく違うものになってしまっていた。
男の囁き。 それは、単なる噂話や、 悪意ある中傷ではなかった。 それは、俺と澪の関係、そして俺自身の心の中に、 決定的なくさびを打ち込んだのだ。
静かなる再始動、などという甘い幻想は、 もうどこにもない。 俺たちの前には、暗く、深く、 そしておそらくは危険な道が続いている。
これからどうするべきか。 まだ答えは見つからない。 だが、一つだけ確かなことがある。 俺はもう、引き返すことはできない。 水瀬 澪みなせ みおという存在の、 そして彼女の過去に隠された「深淵」の、 その正体を見極めるまで。 たとえ、その先に待っているのが、 奔流に飲み込まれるような 破滅であったとしても。
重い体を起こし、コーヒーを淹れるために キッチンへと向かう。 夜明け前の、静かで、しかし不穏な予感に満ちた時間が、 ゆっくりと流れ始めていた。


第11章 月下の調べ

あの影のような男の囁きがもたらした毒は、 俺の思考を麻痺させ、行動を縛っていた。
だが、数日間、アパートの部屋で 出口のない自問自答を繰り返すうちに、 一つの考えが形を結び始めていた。
それは、このまま疑念と不安に苛まれ続けるのではなく、 自分自身の手で、たとえ断片的でも、 何らかの「事実」を探し出すべきではないか、 ということだった。
男の言葉が嘘か真実か、 それを判断するための材料が、 今の俺にはあまりにも少なすぎる。
そして、そのための唯一の手がかりとなり得る場所は、 やはり、あそこしかなかった。 澪と初めて出会い、そして彼女が 「境界がない場所」と呼んだ、 浦和の調神社つきのみやじんじゃ
彼女と、彼女の過去─── そして、水瀬 海斗みなせ かいとという兄の死─── を繋ぐ糸が、 あの場所には隠されているような 気がしてならなかったのだ。
秋晴れの、空気が澄んだ日の午後、 俺は再び浦わ行きの電車に乗っていた。
前回、この場所へ向かった時とは、 心の有り様が全く違っていた。 あの時は、漠然とした閉塞感を 抱えながらも、 どこかで気分転換になるような、 あるいは創作のヒントが見つかるかもしれないという、 淡い期待があった。
だが、今は違う。 重い覚悟と、知りたいという渇望、 そして同時に、知りたくないという恐怖がないまぜになった、 複雑な感情を抱えていた。 まるで、パンドラの箱を開けに行くような、 そんな心境だった。
浦和の駅から神社へと向かう道すがら、 街の風景が前回とは少し違って見えた。 陽光の下にあるはずなのに、 建物の影や、人々の表情の翳りが、 やけに目に付く。 これも、俺自身の心のフィルターが 変わってしまったせいなのだろうか。
調神社の入り口に立った時、 やはり鳥居のないその風景に、 改めて奇妙な感覚を覚えた。
だが、今日はその開放感が、 どこか無防備で危険なもののように感じられた。 聖と俗を隔てるものがないということは、 つまり、望まないもの、あるいは招かれざるものも、 容易く入り込めてしまうということではないのか。 あの影のような男も、そして、俺のような詮索者も。
一歩、境内へと足を踏み入れる。 空気は、相変わらずひんやりと清浄だった。 だが、その静寂の中にも、前回は感じなかった、 微かな緊張感のようなものが 漂っている気がした。 高くそびえる楠の葉擦れの音も、 今はまるで、何かを囁き合っている 秘密の声のように聞こえる。
俺はまず、本殿へと向かった。 参拝客はまばらで、皆、静かに手を合わせている。 俺もまた、賽銭を投げ入れ、 深く頭を垂れた。
だが、祈る言葉は何も浮かんでこない。 ただ、どうか真実が明らかになりますように、 そして、その真実が、誰も深く傷つけるもので ありませんように、と、漠然と思うだけだった。
顔を上げ、本殿の佇まいを改めて見つめる。 長い年月を経た木材の、深い色合い。 そこに刻まれたであろう、 数えきれないほどの祈りや願い。 そして、もしかしたら、海斗かいとという若き画家の、 あるいは彼を失った妹の、 声にならない叫びも、 この木々は聞いてきたのかもしれない。
次に、俺は絵馬が掛けられた場所へと向かった。 前回、澪がじっと見つめていた場所だ。
おびただしい数の絵馬が、 重なり合うように奉納されている。 健康祈願、学業成就、恋愛成就…… 様々な人々の願いが、そこには記されていた。
俺は、一枚一枚、丁寧に見ていく。 名前や日付に、何か手がかりがないかと探した。 「水瀬」「海斗」「澪」。 あるいは、五年という年月を示す何か。
だが、ほとんどの絵馬は新しいものばかりで、 古いものは文字が掠れて読み取れない。 それに、仮に何かを見つけたとしても、 それが彼女たちに繋がるという確証はない。
それでも、俺は執念深く探し続けた。 人々のやかな願いの数々に触れるうちに、 自分がしている行為の、どこか冒涜的ぼうとくてきで、 後ろめたい性質を、改めて感じずにはいられなかった。
諦めかけたその時、ふと、 一枚の少し変わった絵馬が目に留まった。
他の絵馬とは少し違う、 ざらりとした質感の木地に、 墨で描かれたような、 抽象的な絵が描かれている。
それは、荒々しいタッチで描かれた、 月と、その下で跳ねる数匹の兎の姿だった。 一見、稚拙ちせつなようにも見えるが、 その線には、何か強い感情が込められているような気がした。 そして、その絵のタッチが、 どこかで見たような気がしたのだ。
そうだ、インターネットで検索した、 海斗かいとの作品の断片的なイメージと、 どこか通じるものがある。
絵馬の裏を見る。 願い事は書かれていない。 ただ、隅の方に、小さな文字で、 日付らしきものと、イニシャルらしきものが 記されているだけだった。
「五年前の初夏」を示すような日付。 そして、「I.A.」というイニシャル。 Itsuki Minase …… 海斗かいと……を示している可能性は高い。
心臓が、大きく脈打った。 これは……偶然だろうか? いや、偶然にしては出来すぎている。
これが、もし本当に海斗かいとが 描いた絵馬だとしたら? 彼は、死ぬ直前の初夏に、この神社を訪れ、 何を願ったのだろうか。 あるいは、何も願わず、 ただ、内なる衝動をこの絵にぶつけただけなのだろうか。 月と兎。それは、この神社の象徴。 彼は、その象徴に、どんな意味を見出していたのだろう。
俺は、その絵馬から目が離せなくなった。 月は、どこか歪で、 暗い影を宿しているように見える。 兎たちは、楽しげに跳ねているというより、 何かから必死に逃れようとしているかのように、 切迫した動きに見えた。 その絵全体から、言いようのない不安と、 破滅の予感のようなものが、ひしひしと伝わってきた。
しばらくその場に立ち尽くした後、 俺は意を決して、境内の一角にある 社務所へと向かった。
ガラス戸を叩くと、中から白衣を着た、 まだ若い神職しんしょくの男性が出てきた。
「……何か御用でしょうか」 穏やかな、しかしどこか事務的な口調だった。
「あの……少し、お伺いしたいことがあるのですが」 俺は、できるだけ平静を装って言った。 「この神社に、昔、水瀬みなせという姓の方が、 関わっていらっしゃったりしませんでしたか? 特に、水瀬 海斗みなせ かいとさんという…… 画家の方なのですが」
神職の男性は、俺の言葉を聞くと、 表情を変えずに、わずかに首を傾げた。 「水瀬みなせ、ですか……。 申し訳ありませんが、そのような記録は、 こちらには……。 それに、個人の情報に関わることは、 お答え致しかねます」
丁寧な、しかしきっぱりとした拒絶の言葉だった。 やはり、そう簡単にはいかないか。
「そうですか……。 では、五年前の初夏頃に、 何か……この神社で、変わったこととか、 事件のようなものは……」
「事件、ですか」 神職の男性は、少しだけ眉をひそめた。 「いいえ、私の知る限りでは、 特にそのようなことはございませんでしたが……。 何か、お心当たりでも」
「あ、いえ……」 俺は慌てて言葉を濁した。 「なんでもないです。 すみません、お忙しいところを」
社務所を後にしながら、 俺は軽い失望感を覚えていた。 やはり、部外者が、過去の、 しかもデリケートな可能性のある事柄について、 情報を得ることは難しいのだ。
境内をあてもなく歩く。 狛兎こまうさぎの石像を改めて見つめる。 その目は、何も語らない。 ただ、悠久ゆうきゅうの時を、 ここで静かに見守ってきただけだ。
本殿の裏手にある、小さな池。 水面は静まり返り、周囲の木々を映している。 だが、その水底には、 何が沈んでいるのだろうか。
気づけば、陽は大きく西に傾き、 空は茜色に染まり始めていた。 境内の木々の影が、長く、濃く伸びている。 昼間の清浄な雰囲気は薄れ、 代わりに、夕暮れ特有の、物悲しく、 神秘的な空気が漂い始めていた。 空気も、ひんやりとしてきている。 虫の声が、どこからか聞こえ始めた。
もう少しだけ、ここにいよう。 そう思った。 夜になれば、この場所はまた違う顔を見せるのかもしれない。 月下の調べ、という言葉が頭をよぎる。 月の光の下でなら、昼間は見えなかった何かが、 見えてくるのではないか。
俺は、本殿から少し離れた、 大きな楠の木の根元に腰を下ろした。 幹に背中を預けると、 ひんやりとした、硬い感触が伝わってくる。
目を閉じ、耳を澄ます。 風の音、葉擦れの音、虫の声、遠くの街の喧騒。 それらが混じり合い、 まるで一つの音楽のように聞こえる。
闇が、ゆっくりと境内を覆っていく。 空には、星が瞬き始め、やがて、東の空から、 細い、鋭い光を放つ月が昇ってきた。
上弦じょうげんの月だろうか。 その形は、どこか不完全で、 危うげな印象を与える。 まるで、これから満ちていくのか、 それともさらに欠けていくのか、 自身の運命を決めかねているかのようだ。 澪が言った「満ちては欠け、欠けては満ちる」という言葉が、 不意に蘇る。
月光が、境内を淡く照らし始めた。 昼間の柔らかな光とは違い、 それは冷たく、青白い光だった。 木々の影は、より一層黒く、深く、地面に伸びている。 光と影のコントラストが、この場所の神秘性を、 そしてどこか不穏な雰囲気を、 さらに際立たせていた。
昼間は気づかなかった、虫の声が、 りんりんと澄んだ音色で響き渡っている。 時折、楠の梢を風が渡る音が、 さあっと低い囁きのように聞こえた。 空気は、ひんやりと肌を刺すように冷たい。 湿った土と、苔と、そして微かな線香の香りが、 濃厚に漂っていた。
俺は、楠の幹に背中を預けたまま、 月光に照らし出された境内を眺めていた。 昼間とは全く違う、静謐で、 しかしどこか張り詰めた空気。
この空気は、澪が纏うそれに、 とてもよく似ている、と思った。 彼女の静けさも、この月下の静寂のように、 ただ穏やかなだけではない。 その奥には、計り知れないほどの深淵と、 そして触れてはいけないような、 冷たい秘密が隠されているのではないか。
あの絵馬のことが、頭から離れない。 「I.A.」───海斗かいと。 歪んだ月と、怯えたような兎たち。 彼は、何を想い、この絵を描いたのだろう。 自らの死を予感していたのか? それとも、妹である澪に対する、 複雑な感情の表れだったのか? あの影のような男の言葉が、再び脳裏をよぎる。 嫉妬、近親憎悪……。 そんなおぞましい感情が、 あの静かな絵の裏に隠されているというのだろうか。
考えれば考えるほど、わからなくなる。 確かなことは何一つない。 あるのは、暗喩と、憶測と、 そして拭いきれない不安だけだ。
立ち上がり、月光に導かれるように、 再び境内を歩き始めた。 自分の足音だけが、 砂利を踏む微かな音を立てる。 石畳は、月の光を浴びて、 青白く浮かび上がっていた。
狛兎の石像の前で、足を止める。 月光の下で見ると、その表情は昼間よりも さらに不可解に見えた。 口を開けた兎は、何かを叫んでいるようにも、 あるいは、何かを必死に呑み込もうとしているようにも見える。 口を閉じた兎は、ただ頑なに沈黙を守り、 その瞳(のように見える窪み)は、 深い闇を湛えているかのようだ。 彼らは、ここで何を見て、何を聞いてきたのだろう。 五年前の、あの初夏に、一体何が起こったのかを。
絵馬が掛けられた場所へ、もう一度行ってみる。 月明かりだけでは、昼間のように一枚一枚を 確認することは難しい。 それでも、俺は目を凝らした。 あの「I.A.」の絵馬は、他の華やかな絵馬の中で、 まるで異質な存在のように、 暗い影を落としているように見えた。 その歪んだ月が、今、空に浮かんでいる月と、 不気味に重なり合う。
諦めてその場を離れようとした時、 ふと、絵馬掛けの柱の根元近くに、 何か小さな金属片きんぞくへんのようなものが 落ちているのに気づいた。 月光を鈍く反射している。
屈み込んで拾い上げてみると、 それは、古いタイプの、小さな銀色の鍵だった。 何の鍵だろうか。 家の鍵にしては小さいし、 デザインも少し古風こふうだ。 表面には、細かい傷が無数についている。
これが、なぜこんなところに? 誰かが落としたのだろう。 そう思うのが自然だ。
だが、俺の心臓は、理由もなく速く打ち始めていた。 この鍵が、何か重要な意味を持っているような、 そんな予感がしたのだ。 澪が、あるいは海斗かいとが、 落としたものだという可能性は? 馬鹿げているとは思いつつも、 俺はその小さな鍵を、ポケットにそっと滑り込ませた。 あの栞と同じように、 これもまた、何かの「導き」なのかもしれない、と。
境内をさらに歩き、 本殿の裏手にある、あの小さな池のほとりに立った。 月光が、静かな水面に銀色の道を作っている。 水底は、闇に閉ざされて見えない。 昼間よりも、さらに深く、底知れない印象だ。
もし、この水底に、 五年前の秘密が沈んでいるとしたら……。 俺は、吸い寄せられるように水面を 覗き込んだ。 自分の顔が、月の光の中に、ぼんやりと映っている。 その表情は、不安と好奇心がないまぜになった、 頼りないものだった。
その時、背後で、微かに、 木の枝が折れるような音がした。
俺は、弾かれたように振り返った。 だが、そこには誰もいない。 ただ、楠の木の太い幹が、 月光の中に黒々としたシルエットを 描いているだけだ。
風の音か、あるいは小動物か。 そう思い込もうとしたが、 誰かに見られているような感覚は、消えなかった。 この神社には、俺以外にも、 まだ誰かいるのだろうか。 それとも、これもまた、俺の神経過敏しんけいかびんが 生み出した幻なのだろうか。
急に、この場所にいるのが恐ろしくなった。 清浄なはずの空気が、 今は重く、不吉な気配を帯びて感じられる。 月光も、もはや神秘的な輝きではなく、 死者の顔色のような、冷たい光に見えた。
俺は、きびすを返し、 逃げるように境内を後にした。 鳥居のない入り口を抜け、 街の明かりが見える場所まで来ると、 ようやく詰めていた息を、 大きく吐き出すことができた。
結局、具体的な答えは何一つ見つからなかった。 だが、確かなことが一つだけあった。 この調神社という場所は、間違いなく、 水瀬 澪みなせ みおと、彼女の兄・海斗かいとの過去に、 深く関わっている。 そして、そこには、単純な悲劇だけではない、 もっと複雑で、暗い何かが隠されている。
あの絵馬、拾った鍵、 そして、最後に感じた誰かの気配……。 それらは、明確な証拠ではないかもしれないが、 俺の直感を強く刺激していた。
浦和から小平へと戻る最終電車の中、 俺は窓に映る自分の顔を見つめていた。 疲れ切ってはいたが、その目には、 以前にはなかった、 ある種の決意のような光が宿っているのに気づいた。
月下の調べ。 それは、美しい旋律ではなかったのかもしれない。 むしろ、不協和音ふきょうわおんに満ちた、 不安を掻き立てるような調べだった。 だが、俺はその調べを、 最後まで聞き届けなければならない。 澪のために。 そして、もしかしたら、俺自身のために。
ポケットの中の、 冷たくて硬い鍵の感触を確かめながら、 俺は、これから始まるであろう、 さらに深い闇への下降を、静かに覚悟していた。

第12章 熱波と氷壁

調神社つきのみやじんじゃでの月下の探索から数日が過ぎた。
だが、あの夜に感じた不穏な気配と、 拾った古い鍵の冷たい感触は、 俺の心に重くのしかかったままだった。
水瀬 海斗みなせ かいとという名の兄、 五年前に自ら命を絶ったとされる画家。 そして、その死に関わるかもしれないという、 あの影のような男の悪意に満ちた囁き。
それらが、俺の中で増殖する疑念となり、 以前にも増して思考を掻き乱していた。
書きかけの灯台守の物語は、 その影響を色濃く受け始めていた。
主人公の孤独は、もはや静かな哀しみだけではなく、 どこか罪悪感や、拭いきれない過去の影を 帯びたものへと変貌へんぼうしつつあった。
彼が見つめる海は、時に穏やかな表情を見せながらも、 その底には暗い秘密を隠した、 油断ゆだんならない存在として描かれるようになった。
俺自身の混乱と疑念が、 物語の世界に侵食しんしょくし始めているのだ。
それは、ある意味で創作の進展と言えるのかもしれないが、 同時に、危険な領域へと足を踏み入れているような 感覚もあった。 このままでは、物語も、そして俺自身も、 制御不能な「熱」に飲み込まれてしまうのではないか。
季節は十月も半ばだというのに、 まるで夏がぶり返したかのように、 蒸し暑い日が続いていた。
空は白っぽく霞み、空気は重く淀んでいる。 その不快な熱気が、 俺の内なる焦燥感や苛立ちを、 さらに煽るようだった。 まるで、世界全体が熱病ねつびょうに浮かされているかのような、 そんな錯覚さえ覚える。
そんな日の午後、俺は半ば無意識のうちに、 カフェ「月読」の扉を開けていた。
もう彼女を探すのはやめよう、 彼女の領域に踏み込むのはやめよう、と あれほど誓ったはずなのに。
結局俺は、彼女という存在の引力から 逃れることができないのだ。 そして、この燻るような疑念を抱えたままでは、 前に進めないこともわかっていた。
ベルの音に迎えられ、店内に入る。 冷房が効いていて、外の熱波から解放され、 ほっと息をつく。
客はまばらだった。 そして……彼女は、いた。
いつもの隅の席。 水瀬 澪みなせ みおが、窓の外を眺めている。
今日は、白いシンプルなブラウスを着ていた。 その白さが、彼女の持つ非現実的なまでの 透明感を際立たせている。
だが、その横顔には、以前にも増して、 近寄りがたいほどの硬質な静けさが 漂っているように見えた。 まるで、自らの周りに、 見えないこおりの壁を築き上げているかのように。
俺は、カウンター席に座り、 アイスコーヒーを注文した。 冷たいグラスが、火照った手のひらに心地よい。 氷がカラン、と音を立てる。
店内に流れているのは、キース・ジャレットだろうか、 即興的そっきょうてきで、時に不協和音を響かせる、 緊張感のあるピアノソロだった。
彼女に話しかけるべきか、否か。 激しい葛藤かっとうが胸の中で渦巻く。
あの「月読の夜」の、彼女の拒絶。 それを思い出すと、足がすくむ。
だが、このまま何も聞かずにいられるのか? あの影のような男の言葉を、兄の存在を、 そしてあの不気味な絵馬のことを、 知らないふりをして、以前のような静かな関係に戻れるのか?
それは、嘘だ。 欺瞞だ。
俺は、決意した。 今度こそ、冷静に。 感情的にならず、ただ、俺が知ってしまった事実 (あるいは、そうかもしれないこと)を伝え、 彼女の反応を、静かに見つめるだけだ。
俺はもう、彼女の心をこじ開けようとは思わない。 ただ、俺自身が前に進むために、 この疑念に一つの区切りをつける必要があった。
アイスコーヒーを一気に飲み干し、席を立つ。 彼女のテーブルへと向かう。
心臓は激しく鼓動しているが、 不思議と頭は冷静だった。 内なる「熱」を、一点に集中させ、 制御するような感覚。
「……水瀬みなせさん」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。 その蒼い瞳は、静かで、凪いだ水面のように、 何の感情も映していないように見えた。
「……少しだけ、いいですか」
彼女は、無言で頷き、 向かいの席に視線を向けた。 俺はそこに腰を下ろす。
テーブルの上には、やはり本が開かれていたが、 それは以前見た詩集ではなく、画集のようだった。 表紙のタイトルは、掠れて読み取れない。
「……先日、また、調神社へ行きました」 俺は、慎重に言葉を選びながら切り出した。
彼女の表情は、変わらない。 ただ、その瞳の奥が、ほんのわずかに、 凍てついたように見えた。
「……そこで、古い絵馬を見つけたんです」 俺は続けた。 「月と兎が描かれた、少し変わった絵馬でした。 裏には、『I.A.』というイニシャルと、 五年前の日付らしきものが……」
彼女の指先が、テーブルの下で、 ぴくりと動いたのを、俺は見逃さなかった。
「……あなたのお兄さんの、 海斗かいとさんのものじゃないか、と…… 思ったんです」
沈黙が、重くのしかかる。 ピアノの旋律だけが、 まるでこの場の緊張を代弁するかのように、 鋭く、切なく響いていた。
「彼は……画家だったそうですね」 俺は、さらに言葉を重ねた。 「五年前に、亡くなった、と……」
彼女は、何も答えない。 ただ、じっと俺を見つめている。 その瞳は、まるで厚い氷の層に 覆われた湖面のようだ。 その下には、計り知れないほどの深淵が 広がっているのかもしれない。 だが、今の俺には、その表面の、 絶対的な零度の静けさしか感じられない。
「……先日、あの影のような男に会いました」 俺は、最後のカードを切った。 「彼は、あなたのお兄さんの死について、 何か知っているような口ぶりでした。 そして、その死に、あなたが……」
そこまで言いかけて、俺は言葉を呑み込んだ。 彼女の瞳が、明らかに変わったからだ。
それは、怒りでも、悲しみでも、恐怖でもなかった。 もっと深い、絶対的な、拒絶。 まるで、俺という存在そのものを、 彼女の世界から完全に排除しようとするかのような、 冷たく、硬質な光。
「……それ以上、言わないでください」
初めて、彼女の声に明確な感情が乗った。 だが、それは熱いものではなく、 どこまでも冷たい、氷のような響きを持っていた。
「あなたには、関係のないことです」 彼女は、一言一言区切るように、静かに、 しかし有無を言わせぬ口調で言った。 「私の過去も、兄のことも、 そして、あの男のことも。 全て、あなたには関係ない」
その言葉は、見えない、しかし絶対に砕けない 氷の壁となって、俺の前に立ちはだかった。 俺のどんな言葉も、どんな感情も、 この壁の前では無力だった。
「……でも」 俺は、なおも食い下がろうとした。 「もし、あなたが危険な状況にいるなら……」
「危険」 彼女は、初めて、かすかに 唇の端を歪めた。 それは、嘲笑とも、自嘲ともつかない、 奇妙な表情だった。 「危険なのは、むしろあなたの方かもしれませんよ。 知らない方がいいことに、 首を突っ込みすぎている」
その言葉には、明確な警告の響きがあった。 俺は、息を詰める。 彼女は、一体何を知っているというのか。 そして、何を隠そうとしているのか。
「……もう、お話しすることはありません」 彼女は、それだけ言うと、すっと立ち上がり、 画集を手に取った。 「失礼します」
そして、俺に背中を向け、 一瞥もくれることなく、カフェを出て行った。
カラン……。 ベルの音が、やけに空しく響いた。
俺は、一人、テーブルに残された。 目の前には、飲み干したアイスコーヒーのグラスだけがある。 氷はほとんど溶け、水滴がグラスの表面を伝っていた。
敗北感。 いや、それ以上に、どうしようもない無力感が、 全身を襲った。
俺は、結局何もできなかった。 彼女の氷壁を、わずかに傷つけることさえ できなかったのだ。 そして、その過程で、俺たちの間にあった、 あの fragile な、けれど確かに存在したはずの繋がりを、 完全に断ち切ってしまったのかもしれない。
カフェの中は、しんと静まり返っていた。 ピアノの旋律も、いつの間にか止まっている。 窓の外では、白っぽい空が、 相変わらず重く垂れ込めている。 熱波のような暑さが、ガラス越しに じりじりと伝わってくるかのようだ。
内側から、再びあの「熱」が 込み上げてくるのを感じた。 だが、それはもはや、彼女への共感や、 真実への渇望といった、 方向性のある熱ではなかった。 行き場を失い、内側で空回りする、 ただただ破壊的なエネルギー。 フラストレーション、怒り、そして、深い絶望感。
俺は、拳を固く握りしめた。 爪が食い込み、手のひらに痛みが走る。 テーブルを殴りつけたい衝動に駆られたが、 かろうじてそれを抑え込んだ。
代わりに、伝票を掴み、 乱暴に席を立つ。
店主に無言で金を払い、カフェを飛び出した。 外の熱気が、むわりと顔にまとわりつく。 息が詰まるようだ。 俺は、アパートへと向かう道を、 ほとんど走るようにして進んだ。
部屋に帰り着くと、 俺はドアを背中で閉め、 そのまま床に崩れ落ちた。 そして、堰を切ったように、 嗚咽おえつが込み上げてきた。 悔しさか、情けなさか、あるいは、 澪に対する、届かない想いからか。 理由はわからなかった。ただ、涙が止まらなかった。
どれくらいそうしていただろうか。 涙が枯れ果て、 感情が燃え尽きた灰のようになった時、 俺はふらりと立ち上がり、机に向かった。
ラップトップを開き、新しいファイルを作成する。 そして、まるで何かに憑かれたように、 キーボードを叩き始めた。
言葉が、奔流のように溢れ出してきた。 それは、熟考じゅっこうされた文章ではなかった。 計画も、構成も、推敲すいこうもない。 ただ、内側で燃え盛る「熱」─── 怒り、frustration、絶望、 そして、あの氷のような拒絶に対する、 どうしようもない渇望───が、 指先を通して、そのままキーボードに 叩きつけられていく。
カタカタカタカタ……
静まり返った部屋に、 キーを叩く乾いた音だけが、 狂ったように響き渡る。
モニターの白い光が、 暗い部屋の中で俺の顔を青白く照らし出す。 目は画面に釘付けになり、背中は丸まり、 肩は石のように凝り固まっている。 指先は、熱を持っているかのように疼き、 痛みを訴えているが、構うものか。 今はただ、この内なる奔流を、 一滴残らず吐き出すことしか考えられなかった。
灯台守の物語は、 もはや以前の面影をとどめていなかった。
彼は、ただ孤独に耐え、 海を見つめるだけの存在ではなくなっていた。 彼は、海─── 深く、冷たく、時に荒れ狂い、 そして美しい秘密を隠した海───に、 狂おしいほどに惹きつけられ、 その深淵を覗き込もうとする男へと 変貌していた。
海は、彼にとって、畏怖の対象であり、 憎悪の対象であり、 そして、抗い難いほどの魅力を放つ、 宿命の相手となったのだ。
『……海は、氷の壁を築く。 近づくものを拒むように、 その表面を凍てつかせ、 真実を蒼い水の底へと沈める。 だが、その静寂の下で、 どれほどの激流が渦巻いているのか、 壁の外からは知る由もない……』
『……灯台守は、壁を叩き続けた。 拳が砕け、血が滲んでも、叩き続けた。 壁の向こうにあるものを、暴き出そうとして。 あるいは、ただ、その壁が、ほんの一瞬でも、 自分に応えてくれることを願って……』
『……熱波が、彼を襲う。 内側から焼き尽くすような、狂おしい熱。 それは、海への渇望か、それとも、 壁に拒絶されたことへの怒りか。 彼は、その熱に身を任せ、 自らをも焼き尽くす炎となることを、 密かに願っていたのかもしれない……』
書いているのは、灯台守の物語なのか、 それとも、俺自身の、今の心の叫びなのか。 もう、その境界さえも曖昧になっていた。
澪の姿が、氷の壁を纏った海として、 あるいは、その海の深淵に棲む、 美しくも危険なセイレーンとして、 物語の中に現れては消える。 彼女の蒼い瞳、拒絶の言葉、 そして、あの時見せた、わずかな感情の揺らぎ……。 それらが、歪んだ形で、 言葉の奔流の中に叩き込まれていく。
時間の感覚は、完全に失われていた。 窓の外が明るくなり、また暗くなるのを、 何度か繰り返したような気もする。
空腹も、喉の渇きも感じない。 ただ、時折、冷え切ったインスタントコーヒーを、 水のようにがぶ飲みするだけだった。
部屋の中は、いつの間にか、 空になったカップや、 食べかけで放置されたパンの袋、 そして無数の書き損じの紙くずで、 足の踏み場もないほどに散らかっていた。 だが、そんなことは、もうどうでもよかった。
どれだけの時間、そうしていただろうか。 不意に、指の動きが止まった。 まるで、燃料を使い果たしたかのように、 内なる奔流が、ぴたりと止んだのだ。
モニターには、膨大な量のテキストが 表示されていた。 何文字書いたのか、見当もつかない。 俺は、それを読み返す気力もなく、 ただ、画面をぼんやりと見つめていた。
全身が、鉛のように重い。 指先は痺れ、肩と首は激しく痛む。 そして、猛烈な疲労感と、 虚脱感きょだつかんが、 津波のように押し寄せてきた。
俺は、椅子から崩れ落ちるようにして、 床に横たわった。 冷たいフローリングが、 火照った体に心地よかった。 天井の染みが、 ゆっくりと回っているように見える。
熱波は過ぎ去った。 だが、後に残ったのは、 燃え尽きた灰のような、空虚さだけだった。
俺は、あの氷壁ひょうへきに跳ね返され、 その衝撃を、ただひたすらに、 自分の内側と、そして自分の創り出す 物語の世界にぶつけただけなのだ。
澪との間にあった、あの静かで、 けれど確かに存在したはずの繋がりは、 もう跡形もなく消え去ってしまったのだろうか。
彼女の氷壁は、俺の熱を受け止め、 そしてそれを、より硬く、より高く、 築き上げてしまったのかもしれない。
そして、彼女の過去の謎は? あの影のような男の言葉は? それらは、何一つ解決していない。 むしろ、俺の行動によって、 さらに事態を悪化させてしまった可能性さえある。
後悔は、なかった。 いや、後悔するには、疲れすぎていた。 ただ、どうしようもない喪失感と、 これからどうすればいいのかという、 途方もない途方に暮れる感覚だけが、 そこにあった。
部屋の中には、キーボードの音も、 俺の荒い息遣いも、もう聞こえない。 ただ、外の世界から聞こえてくる、 遠い街の喧騒だけが、 耳鳴りのように響いていた。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。 瞼の裏に、澪の、 あの氷のように冷たい瞳が浮かんでくる。 その奥にあるはずの深淵を、 俺は覗き込むことができるのだろうか。 それとも、このまま、永遠にその手前で 立ち尽くすしかないのだろうか。
答えは、まだ見えない。 ただ、熱波が過ぎ去った後に残された、 焼けつくような渇きだけが、 俺の喉を締め付けていた。

第13章 奔流の兆し

水瀬みなせさんとの間に、 決定的な氷壁が築かれてから、 季節は静かにその歩みを進め、 十月も終わりに近づいていた。
俺、結城 櫂ゆうき かいは、あの日以来、 カフェ「月読」には一度も足を運んでいない。 彼女に会うのが怖いとか、気まずいとか、 そういう感情を超えて、もはやそこは俺にとって、 近づいてはならない聖域のような場所に なってしまったのだ。
あの日、部屋で感情の奔流を 叩きつけるようにして書いた原稿は、 読み返すこともせずに、 ラップトップの奥深くにしまい込んだ。 あれは、創作ではなかった。 ただの、行き場のない感情の排泄物だ。
代わりに、俺は以前にも増して、 図書館の書庫の埃っぽい静寂の中に 身を置く時間を増やしていた。 古い本の背表紙を指でなぞり、 その紙の匂いを嗅ぎ、 インクの染みを眺めていると、 わずかに心が凪いだ。
書庫の整理という単調な作業は、 思考を空にするのに役立った。 だが、完全に空になるわけではない。
静寂の中で、あの影のような男の言葉や、 澪のあの絶対的な拒絶の表情、 そして調神社つきのみやじんじゃで見つけた「I.A.」の絵馬や、 ポケットの中で冷たい感触を保ち続ける 古い鍵のことが、 繰り返し頭をもたげてくる。
水瀬 海斗みなせ かいと。 澪の兄。 五年前に死んだとされる画家。 彼らの間に、一体何があったのか。 あの影のような男は何を知り、 何を企んでいるのか。 そして、澪は、あの静謐な仮面の下に、 どんな真実を隠しているのか。
考えるな、忘れろ、と自分に言い聞かせても、 それは無理な相談だった。 俺はもう、この物語の当事者になってしまっているのだ。 たとえ、それが望まない形であったとしても。
そんなある日、変化は唐突に訪れた。
図書館でのアルバイトを終え、 夕暮れ時の小平の街を歩いていた時のことだ。 金木犀きんもくせいの甘い香りが、 秋風に乗って漂ってくる。 空は高く澄み、鰯雲いわしぐもが 夕日に染まって美しい。 その、あまりにも穏やかな風景が、 俺の抱える内面の混乱とは対照的で、 かえって胸を締め付けた。
アパートへの帰り道、見慣れた道を歩いていると、 前方に、電柱に寄りかかるようにして 立っている人影があるのに気づいた。
夕暮れの逆光ぎゃっこうで、最初はよく見えなかった。 だが、近づくにつれて、 それが俺を待っているかのような気配を感じ、 足を止めた。
スーツ姿ではない。 どちらかというと、ラフな、 しかしどこか神経質そうな 印象を与える服装。 年の頃は、俺より少し上、 三十代前半くらいだろうか。 痩身そうしんで、色素の薄い髪が、 少し伸びて目にかかっている。
その人物が、俺に気づくと、 ゆっくりとこちらに顔を向けた。
その顔立ちには、どこか見覚えがあるような気がした。 いや、顔立ちそのものではない。 その目元や、纏う雰囲気に、 誰かを───澪を、微かに連想させるものがあったのだ。
ただし、澪の持つ冷たい ブルー とは違う。 もっと乾いた、焦燥感のような、 あるいは神経質な鋭さのようなものが、 その人物からは感じられた。
「……あなたが、結城 櫂ゆうき かいさん、ですね」
その人物───男だった───は、 意外なほど静かな、しかしどこか張り詰めた声で言った。
「……どちら様ですか」 俺は警戒しながら尋ねた。 あの影のような男の仲間か? あるいは……。
「俺は……」 男は、少しだけ言い淀むように 視線を彷徨わせた後、再び俺を見た。 「……水瀬 海斗みなせ かいとの……知り合い、です。 昔、少しだけ、 彼の絵の勉強を見てやったことがあって」
海斗かいとの、知り合い。 その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。 まさか、こんな形で、過去への扉が開かれるとは。
「……なぜ、俺のことを」
「あなたが、妹の澪さんと、 最近よく会っていると聞いたもので」 男は淡々と言った。 「少し、気になりましてね。 彼女が、今、どうしているのか…… そして、あなたが、彼女とどういう関係なのか」
「どこで、そんな話を……」
「まあ、それはいいじゃないですか」 男は話を逸らした。 「それより、少しだけ、お話しできませんか? もちろん、立ち話もなんですから、 どこか場所を変えて」
男の瞳には、澪のような深淵さはない。 だが、その代わりに、何かを探るような、 鋭い光があった。
信用できる相手とは思えない。 だが、彼が海斗かいとの知り合いであるというのが 本当なら、彼から何かを聞き出せるかもしれない。 澪の過去について、そしてあの影のような男について。
危険な賭けだとは思ったが、俺は頷いていた。
男に案内されて入ったのは、駅から少し離れた、 古い喫茶店だった。
店内は薄暗く、紫煙しえんが立ち込め、 カウンターの中の年老いたマスターが、 気怠けだるそうに客の相手をしている。
俺たちが案内されたのは、店の奥まった、 他の客から少し離れたボックス席だった。 くすんだ臙脂色えんじいろのベルベットのソファは、 ところどころ擦り切れていて、座ると、 古い埃と、染み付いた煙草の匂いが 微かにした。 テーブルの上には、年季の入った 曇った灰皿が置かれている。
カフェ「月読」の清潔で静謐な空気とは、 まるで対極にあるような空間だった。
向かいに座った男は、 慣れた様子で煙草に火をつけ、 細く煙を吐き出した。 その仕草には、どこか投げやりなような、 それでいて神経質そうな雰囲気(ふんいき)があった。
「……相良 涼平さがら りょうへいと申します。 相良さがらと呼んでください」 男は、名乗った。 「まあ、名前はどうでもいいかもしれませんが。 先ほども言った通り、 海斗かいと……海斗かいと君とは、 彼がまだ学生だった頃からの付き合いでしてね。 少しだけ、絵を見てやったりしていたんです」
相良 涼平さがら りょうへい。 その名前には聞き覚えがなかった。
彼は、俺の反応を窺うように、 じっとこちらを見ている。 その目は、澪のような深さはないが、 その代わりに、何かを見定めようとするような 鋭さがあった。
「それで……俺に、何の御用でしょうか」 俺は、警戒心を解かずに尋ねた。
単刀直入たんとうちょくにゅうに言いましょう」 相良さがらは、煙草の灰を灰皿に落とした。 「あなたは、水瀬 澪みなせ みおさんに近づきすぎてはいけない」
またか、と思った。 あの影のような男と同じ言葉だ。
だが、相良さがらの口調には、 あの男のような、ねっとりとした悪意とは違う響きがあった。 むしろ、どこか切迫したような、 あるいは、警告するような響き。
「……あの影のような男にも、 同じようなことを言われました」 俺は、鎌をかけるように言ってみた。
相良さがらの眉が、ぴくりと動いた。 「……やはり、あの男が接触してきましたか。 予想はしていましたが……。 あの男の言うことは、信用してはいけません。 奴は……目的のためなら、 平気で嘘をつく人間だ」
「目的? 何の目的です」
「それは……」 相良さがらは言葉を濁した。 「……今はまだ、話せません。 ですが、一つだけ確かなのは、 奴が澪さんや、 そして海斗かいと君の……遺したものに対して、 良からぬ考えを持っているということです」
海斗かいと君の遺したもの? それは、彼の作品のことだろうか。 それとも、もっと別の何か……?
「あなたは、海斗かいとさんのことを、 よく知っているんですね」 俺は尋ねた。
「ええ……」 相良さがらは、遠い目をして煙を吐き出した。 「彼は……天才でしたよ。 少なくとも、俺はそう思っている。 あの若さで、あれだけの世界を描き出せる人間は、 そうはいない。 彼の描く 青 は、ただの色じゃない。 魂の深淵を覗き込むような、 恐ろしく、そして美しい色だった」
その言葉は、俺が澪に感じている ブルー のイメージと、どこか重なった。 やはり、あの兄妹には、 何か特別な、芸術家としての 繋がりがあったのだろうか。
「だが、同時に、彼は……危うい人間でもあった」 相良さがらの声が、少しだけ翳りを帯びた。 「純粋すぎた、と言ってもいいかもしれない。 自分の内なる闇や、世界の不条理さから、 目を逸らすことができなかった。 そして、それを、ありのままに描き出そうとして、 自分自身を削り、燃やし尽くしていった……」
「……あの影の男は、彼の死の原因の一端が、 澪さんにあるかもしれない、と言っていました」 俺は、核心に触れる質問を投げかけた。
相良さがらは、険しい顔で俺を睨みつけた。 「……あの男は、そんなことまで……。 それは、違う 断じて違う」 彼の声には、強い怒りが込められていた。 「澪さんは……むしろ、海斗かいと君を、 最後まで支えようとしていた。 彼の才能を、誰よりも信じ、 彼の描く世界の、唯一の理解者だった と言ってもいい。 だが……海斗かいと君の闇は、あまりにも深すぎた。 澪さんの支えさえも、最後は振り払って、 彼は……」
相良さがらは、そこで言葉を切り、 苦しそうに顔を歪めた。
「……澪さんが、彼の死に関わっているというのは、 真っ赤な嘘です。 むしろ、彼女は、彼の死によって、 最も深く傷ついた人間だ。 兄を救えなかったという罪悪感と、 そして、彼が遺したものの重さに、 今も一人で耐えている……」
相良さがらの言葉には、強い説得力があった。 あの影の男の悪意に満ちた囁きとは 明らかに違う、 そこには、海斗かいとと澪を間近で見てきた 人間ならではの、 痛切な響きがあった。
俺は、相良さがらの言葉の方を信じたい、と思った。 澪が、そんなおぞましい秘密を抱えているはずはない、と。
だが、それでも疑問は残る。 では、なぜあの影の男はあのような嘘を つく必要があるのか? 彼の目的は? そして、澪が抱える「癒えない傷」とは、 具体的に何なのか? 海斗かいとの死は、本当にただの自殺だったのか?
「……では、あの男の目的は何なんです」 俺は尋ねた。 「なぜ、俺に嘘を吹き込み、 澪さんから遠ざけようとする」
「それは……」 相良さがらは再び口ごもった。 「……奴は、海斗かいと君が遺した 『あるもの』を探しているんです。 そして、澪さんがその在処を知っている、 あるいは、それそのものを持っていると考えている。 だから、あなたという存在が邪魔なのでしょう。 あなたが澪さんの信頼を得て、 その『あるもの』に近づくことを、 恐れているのかもしれない」
海斗かいと君が遺した『あるもの』? 作品ではないのか? それとも……。
俺は、ポケットの中の、 あの古い鍵のことを思い出していた。 まさか、とは思うが……。
「……その『あるもの』とは、何なんですか」
「……それは、言えません」 相良さがらは首を振った。 「あなたを、これ以上、 この件に巻き込むわけにはいかない」
「でも、俺はもう巻き込まれている」 俺は声を荒らげた。 「澪さんにも、あの男にも、そしてあなたにも。 俺は、もう何も知らないままではいられないんです」
相良さがらは、しばらくの間、 俺の目をじっと見つめていた。 その鋭い瞳が、 俺の覚悟を測っているかのようだった。
やがて、彼は深いため息をつき、 煙草の火を灰皿にもみ消した。
「……わかりました」 彼は、観念したように言った。 「ですが、これだけは約束してください。 これから話すことは、 決して澪さんには伝えないでほしい。 そして、軽率な行動は慎んでほしい。 相手は……我々が考えている以上に、 危険な存在かもしれない」
その言葉に、俺はゴクリと唾を飲んだ。 物語が、俺の想像を超えて、 さらに複雑で、危険な領域へと 足を踏み入れようとしているのを感じた。
「……海斗かいと君は、亡くなる直前、 一枚の絵を完成させていました」 相良さがらは、声を潜めて語り始めた。 「それは、彼の最高傑作であると同時に、 最も危険な作品だった。 彼は、その絵の中に、何か…… 見てはいけない『真実』のようなものを、 描き込んでしまったのかもしれない。 そして、その絵の存在が、彼の死と、 そして現在の澪さんの状況に、 深く関わっている……私はそう考えています」
見てはいけない真実を描いた絵? それが、あの影の男の狙い? そして、澪が守ろうとしているもの?
「その絵は、今どこに」
「……わからない。 海斗かいと君は、その絵を誰にも見せず、 どこかに隠したまま、亡くなった。 あるいは、信頼できる誰かに 託したのかもしれない。 それが誰なのか……澪さんなのか、それとも……」
相良さがらは、そこで言葉を切った。 彼の視線は、何かを暗示するように、 俺に向けられていた。 まさか、俺が何かを知っているとでも?
混乱する俺をよそに、相良さがらは続けた。 「あの影の男は、その絵を 血眼になって探している。 その絵には、計り知れない価値があると 信じているからだ。 金銭的な価値だけではない。 もっと別の、暗い価値が……。 だから、彼は手段を選ばない。 澪さんを精神的に追い詰めることも、 あるいは……」 相良さがらは、そこで一度言葉を切った。 その目に、暗い光がよぎる。 「……物理的な危険に晒すことさえ、 やりかねない男だ」
その言葉に、俺は背筋が凍る思いがした。 あの男の、あの蛇のような執念深さ。 そして、澪が見せた、怯えにも似た動揺。 それらが、相良さがらの言葉によって、 よりリアルな脅威として迫ってくる。
「あなたやあの男は、いったい海斗かいとさんと どういう関係だったんですか」 俺は尋ねた。 「古い知り合い、だけではないんでしょう」
相良さがらは、少しの間、ためらうように沈黙した。 そして、諦めたように息を吐く。 「……俺は、海斗かいと君が通っていた 美術予備校で、少しの間、 講師のようなことをしていた。 彼は、その頃から群を抜いて才能があったが、 同時に、危うさも抱えていた。 俺は、彼の才能に惚れ込み、同時に、 その危うさから彼を守ってやりたい、と思っていた。 だが、結局……何もできなかった」 彼の声には、深い後悔の色が滲んでいた。
「あの男は」
「奴は……画商だ。 いや、画商崩れ、と言った方がいいかもしれん」 相良さがらは、吐き捨てるように言った。 「才能ある若い作家を見つけては、 言葉巧みに取り入り、 利用しようとするハイエナのような男だ。 海斗かいと君にも、早くから目をつけていた。 だが、海斗かいと君は、自分の作品が 金儲けの道具にされることを、 極端に嫌っていた。 だから、あの男とは距離を置いていたはずだ。 それなのに、奴はまだ、海斗かいと君の…… そして澪さんの周りを嗅ぎまわっている」
画商崩れ。 海斗かいとの作品、あるいは、 あの 最後の絵 に、異常な執着を 持っているということか。 その絵には、それほどの価値があるというのか? あるいは、あの男だけが知る、 別の「価値」が?
「俺にできることは、何かありませんか」 俺は、衝動的に口にしていた。 「澪さんを守るために、 あるいは、その絵を見つけ出すために……」
相良さがらは、驚いたように俺を見た。 そして、すぐに厳しい表情になった。 「……言ったはずだ。 君は、これ以上、首を突っ込むべきじゃない、と。 これは、君が考えているよりも、 ずっと根が深い問題なんだ。 それに、下手に動けば、 かえって澪さんを危険に晒すことになるかもしれん」
「でも……」
「君の気持ちは、わかる」 相良さがらは、俺の言葉を遮った。 「君が、澪さんに特別な感情を 抱いていることもね。 だが、だからこそ、今は距離を置くべきなんだ。 君が彼女の傍にいれば、 あの男は君を利用しようとするだろう。 あるいは、君ごと排除しようとするかもしれない」
相良さがらの言葉は、冷静だったが、 有無を言わせぬ響きを持っていた。 それは、あの男の脅しとは違う、 本気で俺と澪の身を案じているからこその 警告のように聞こえた。
俺は、反論の言葉を見つけられなかった。 ポケットの中の、あの古い鍵の存在を、 相良さがらに告げるべきか、一瞬迷った。 だが、今はその時ではない、と直感的に感じた。 この鍵は、俺だけの、最後の切り札になるかもしれない。
「……わかりました」 俺は、かろうじて答えた。 「軽率な行動は、慎みます」
「……頼む」 相良さがらは、安堵したように息をついた。 「澪さんのことは……俺の方でも、 できる限りの注意を払うつもりだ。 何かあれば……いや、何もないのが一番だが……」
相良さがらは、テーブルの上に置かれた伝票を 手に取った。 「ここは、俺が払う。 君は、もう行った方がいい。 そして、今日のことは……できれば、忘れてくれ」
それは、無理な相談だった。 忘れることなど、できるはずがない。
俺は、無言で頷き、席を立った。 相良さがらは、それ以上何も言わず、 ただ、疲れたような目で俺を見送っていた。
喫茶店を出ると、外はもうすっかり日が暮れていた。 金木犀の甘い香りは、 夜の冷たい空気に掻き消され、 代わりに、排気ガスと、 どこかの飲食店の油の匂いが 漂ってくる。
俺は、コートの襟を立て、 足早に歩き出した。
頭の中が、様々な情報と感情で、 ぐちゃぐちゃになっていた。 海斗かいとという画家の、光と影。 あの影のような男の歪んだ執着。 相良 涼平さがら りょうへいの、真意の測りかねる警告。 そして、その中心にいる、澪の、深い孤独と秘密。
事態は、俺が想像していたよりも、 ずっと複雑で、危険な様相を呈していた。 もはや、これは俺と澪だけの問題ではない。 過去の因縁いんねん、芸術を巡る欲望、 そして、おそらくは隠された犯罪の匂いさえする。
奔流の兆し。 相良さがらという新たな登場人物は、 まさに、静かに流れていた川に投げ込まれた 大きな石だった。 その波紋は、これから俺たちを、 否応なく激しい流れへと 引きずり込んでいくのだろう。
俺は、ポケットの中の鍵を、強く握りしめた。 冷たくて、硬い感触。 これが、深淵への扉を開ける鍵なのか、 それとも、俺自身を破滅へと導く鍵なのか。 今はまだ、わからない。
ただ、確かなことは、俺はもう、 この流れから降りることはできない、ということだ。 たとえ、その先に何が待ち受けていようとも。 俺は、自分の目で真実を確かめなければならない。 そして、できることなら……澪を、 このどうしようもない奔流から、 守り抜かなければならない。
その決意だけが、混乱した心の中で、唯一、 確かな光を放っていた。


第14章 深淵への扉

相良さがらさんと会ってから、 俺の日常は再び、静かだが底流ていりゅうの激しい 川の様相を呈していた。
表面的には、図書館でのアルバイトと、 自室での執筆しっぴつという単調な日々。 だが、水面下みなもかでは、水瀬 海斗みなせ かいとの死、 隠された最後の絵、 そしてあの影のような男と相良さがらさんという 二人の男の影が、絶えず思考の渦を巻いていた。
誰を信じ、何を疑うべきなのか。 そして、俺自身はどう行動すべきなのか。 答えは見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
ポケットの中の、あの古い鍵の感触だけが、 妙にリアルだった。 調神社つきのみやじんじゃで見つけた、小さな銀色の鍵。
これが、相良さがらさんが言っていた 海斗かいとの「遺したもの」─── あの危険な絵───に繋がっている可能性は、 低いかもしれない。 だが、今の俺にとっては、唯一の 手がかりのように思えた。
俺は、まずインターネットで徹底的に 海斗かいとについて調べ直した。
五、六年前の美術系のブログや、 地方ニュースのアーカイブ。 彼の名前は、確かにいくつかの記事でヒットした。 「新進気鋭しんしんきえいの画家」 「青の深淵を描く才能」といった言葉が並ぶ。
いくつかの展覧会の情報も見つかったが、 そのほとんどは都心ではなく、 埼玉や、あるいはもっと地方の小さなギャラリーで 開催されたものだった。
彼の作品画像もいくつか見つけた。 相良さがらさんが言ったように、 その「青」は、ただの色ではなかった。 観る者の心を吸い込み、不安にさせるような、 深い、深い色。 そして、その作風は、後期になるにつれて、 より抽象的で、激しい感情のほとばしりのようなものを 感じさせるものへと変化しているように見えた。
だが、彼の死因や、相良さがらさんが言っていた 「最後の絵」に関する記述は、 どこにも見あたらない。 まるで、意図的にその部分だけが、 歴史から削り取られているかのようだった。
次に俺は、あの鍵を試してみることにした。 無謀だとは思ったが、他にできることもなかった。
週末を利用し、俺は再び浦和へ向かった。 まずは調神社周辺。 古いアパートの郵便受ゆうびんうけ、 神社の裏手にある小さな倉庫のような建物の南京錠なんきんじょう、 公園の隅にある忘れられたようなロッカー。
片端から鍵穴に差し込んでみるが、 どれも手応えがない。 空しい作業だった。 自分が何をしているのか、 馬鹿馬鹿しくなってくる。 だが、ここで諦めるわけにはいかなかった。
ふと、以前ネットで検索した際に、 水瀬みなせ家の実家とされる住所が、 浦和区の、神社から少し離れた 古い住宅街にある、という情報を見かけたのを 思い出した。 (個人情報保護の観点からか、 現在は削除されていたが、 断片的なキャッシュが残っていたのだ)。
今はもう誰も住んでいない、という 噂もあったが、駄目元で行ってみるしかない。
地図アプリを頼りに、 入り組んだ路地を歩く。 古い木造家屋が立ち並ぶ、静かな住宅街。 その一角に、目的の家はあった。
表札ひょうさつは外され、庭は荒れ放題あれほうだいになっている。 明らかに、長い間、空き家になっているようだった。 高い塀に囲まれ、門は固く閉ざされている。
だが、その門の脇に、古いタイプの、 小さな郵便受が取り付けられているのが 見えた。錆び付いて、赤茶けた色をしている。
周囲に人通りがないことを確認し、 俺はポケットからあの鍵を取り出した。 心臓が、早鐘のように打っている。
震える手で、鍵を郵便受の 鍵穴に差し込む。 そして、ゆっくりと回してみた。
カチリ。
乾いた、小さな音がした。 嘘だろ? 鍵が、合ったのだ。
息を呑み、郵便受けの小さな扉を、 震える手でゆっくりと開けた。 キィ、と錆び付いた金属が擦れる、 耳障りな音が静かな路地に響く。
中は、暗く、埃っぽい匂いがした。 蜘蛛の巣が張っており、長い間、 誰も開けた形跡はない。
だが、その奥に、何かがあるのが見えた。 手紙の束、というわけではない。 もっと厚みのある……一冊の本のようなもの。
俺は、周囲をもう一度確認し、 素早くそれに手を伸ばした。 指先に触れたのは、硬く、 少しざらついた感触。
革装丁かわそうていの、古いノートブックだった。 A5サイズほどの、厚みのあるノート。 表紙には何の文字も書かれていないが、 長年使い込まれたような、独特の風合いがある。
これはいったい……? 郵便受けに、なぜこんなものが?
誰かが、誰かに宛てて、ここに投函したのだろうか。 それとも、持ち主が、ここに隠していた?
心臓が、早鐘のように打っている。 これが、あの鍵が示すものだったのか? 海斗かいとが遺した何か─── あるいは、彼自身の一部なのか?
俺は、ノートを素早くコートの内ポケットに隠し、 郵便受けの扉を閉め、鍵をかけた。 そして、何事もなかったかのように、 その場を足早に立ち去った。
背中に、空き家の窓から誰かに見られているような、 あるいは、この古い住宅街そのものが持つ、 重たい記憶に見つめられているような、 そんな気配を感じながら。
駅へと向かう道を急ぎながらも、 内ポケットの中のノートの存在が、 ずしりと重く感じられた。
これは、開けてはならないパンドラの箱なのかもしれない。 だが、俺はもう、それを開けずにはいられないところまで 来てしまっていた。
小平のアパートに戻ったのは、 日がとっぷりと暮れてからだった。
部屋に入るなり、俺は鍵をかけ、 カーテンを閉め切った。 まるで、世界から完全に隔絶かくぜつされた 空間を作り出すかのように。
そして、震える手で、コートの内ポケットから、 あの革装丁のノートを取り出した。
テーブルランプの、頼りない光の下で、 改めてノートをあらためる。 表紙には、やはり何のタイトルも、名前も記されていない。 ただ、使い込まれた革の質感が、 その持ち主が生きた時間の重みを 物語っているかのようだ。
深呼吸しんこきゅうを一つして、 俺は、ゆっくりと最初のページを開いた。
そこに書かれていたのは、インクで書かれた、 少し癖のある、しかし力強い筆跡ひっせきだった。 日付はない。 だが、それは明らかに、日記か、 あるいは個人的な記録のような体裁ていさいをとっていた。
そして、文章の合間には、 鉛筆や木炭もくたんで描かれたと思われる、 無数のスケッチが、奔放ほんぽうな線で 描かれている。
『……青。どこまで行っても、青。 この世界の根源は、きっと深い、深い蒼なのだ。 それは、空の色でも、海の色でもない。 もっと冷たく、もっと暗く、そして、もっと残酷な…… 魂の色だ』
最初のページに書かれた言葉に、 俺は息を飲んだ。 この独白どくはくのような、詩のような言葉。 そして、その横に描かれた、渦を巻くような、 抽象的な青のスケッチ。
それは、間違いなく、 水瀬 海斗みなせ かいとの言葉であり、彼の世界だった。 俺は、死者の魂の記録を、 今まさに開いてしまったのだ。
ページをめくる指が、震えた。 ノートには、彼の日々の思索、創作への苦悩、 そして、彼が感じていた世界に対する違和感や 絶望感が、生々しい言葉と、 時に荒々しく、時に繊細なスケッチで、 綴られていた。
『……描いても、描いても、足りない。 俺が見ているものを、感じているものを、 キャンバスの上に定着させることができない。 色は濁り、線は迷い、形は崩れる。 俺の内なる「青」は、あまりにも巨大で、深く、 そして捉えどころがない……』
『……画商の男 (戸隠とがくしのことだろう)が、また来た。 俺の絵を、金に換えようと、 甘い言葉を並べ立てる。 奴には、何も見えていない。 俺が描こうとしているものの、 本当の価値も、本当の恐ろしさも。 ただ、利用しようとしているだけだ。 反吐へどが出る』
『……人は、なぜ境界を作りたがるのだろう。 聖と俗、美と醜、生と死。 だが、本当は、その間に明確な線など ないのかもしれない。 全ては混ざり合い、溶け合っているのかもしれない。 光と闇、歓喜と絶望、 聖性せいせい魔性ましょう。 俺が描こうとしているのは、 その境界が消え去った場所にある、 根源的な 青 なのだ』
ページをめくるごとに、俺は海斗かいとという人間の、 あまりにも純粋で、それ故に危険な魂の 軌跡きせきを辿っているような気がした。
彼の言葉は、時に哲学的な思索であり、 時に芸術家の苦悩の吐露とろであり、 そして時に、狂気きょうきの淵を覗き込む者の、 切実な叫びでもあった。
スケッチもまた、同様だった。 初期のページには、まだ対象を捉えようとする 写実的しゃじつてきな描写─── 風景、静物、そして、おそらくは妹である澪をモデルにした と思われる、息をのむほど美しい、 しかしどこか憂いを帯びた人物像───が見られた。
だが、ページが進むにつれて、線は歪み、 形は崩れ、色彩 (インクの濃淡や鉛筆のタッチで暗示される)は、 より暗く、激しくなっていく。 月は歪み、兎は叫び、風景は溶解し、 人物像は苦悶くもんの表情を浮かべている。 それは、彼の精神が、徐々に追い詰められ、 変容していく過程を、克明こくめいに記録しているかのようだった。
そして、ノートの中盤あたりから、 澪の名前が、頻繁ひんぱんに登場するようになる。
『……澪。俺の澪。 お前だけが、俺の 青 を理解してくれる。 お前がいなければ、俺はとうに、 この狂気に飲み込まれていた……』
『……澪が、俺の絵を見て、怖い、と言った。 なぜだ? これは、美しいだろう? 世界の真実の姿だ。 お前には、それが見えているはずなのに……』
『……時々、澪の存在が、重く感じられる。 彼女の期待、彼女の純粋さ、彼女の悲しみ。 それら全てが、俺の筆を縛り、 俺をこの現実という名の檻に繋ぎ止めようとする。 俺は、もっと自由になりたい。 あの、彼岸の 青 へと、飛び立ちたいのに……』
『……俺たちは、二人で一つなのかもしれない。 光と影、月と太陽のように。 だが、一方が輝けば、 もう一方は影となる。 俺の 青 が深まれば深まるほど、 澪の 白 は、その隣で凍てついていく…… それで、いいのだろうか』
そこに書かれていたのは、 単なる兄妹愛ではなかった。 もっと複雑で、もっと濃密で、 そして、どこか歪んだ、 共依存きょういぞんにも似た魂の結びつきだった。
海斗かいとは、澪を、彼の芸術と存在の根幹に関わる、 絶対的な他者として捉えていた。 それは、救いであると同時に、 呪いでもあったのかもしれない。
そして、澪もまた、兄の才能と狂気に、 深く囚われていたのではないか。 俺が彼女に感じていた ブルー の深淵は、 彼女自身のものだけではなく、 兄・海斗かいとのそれと、分かち難く 結びついていたのかもしれない。
さらにページを読み進めると、 戸隠とがくしに対する憎悪と恐怖が、 繰り返し記されていた。
『……奴(戸隠とがくし)がまた来た。 俺の 未完成の作品 について、 執拗に嗅ぎまわっている。 奴は、金の匂いしか嗅ぎ分けられない犬だ。 だが、その嗅覚だけは、恐ろしく鋭い。 奴は、俺が何を描こうとしているのか、 その 価値 に気づき始めている……』
『……奴に脅された。 この絵を渡さなければ、 澪に危害を加える、と。 許せない。 俺の作品も、そして澪も、 奴のような汚れた手に、 絶対に渡してなるものか……』
『……絵を隠さなければならない。 誰にも見つからない場所に。 この絵は、危険すぎる。 それは、真実の鏡だ。 覗き込んだ者の魂を、 狂わせる力を持っている。 俺自身が、そうなってしまったように……』
そして、ノートの最後の数ページは、 明らかに彼の精神が破綻はたんをきたしていることを 示していた。
文字は乱れ、文章は支離滅裂しりめつれつになり、 スケッチは、もはや具体的な形を失い、 ただただ黒々とした線と染みが、 紙面を埋め尽くしている。
『……青、青、青…… 深すぎる。冷たすぎる。 もう、息ができない……』
『……兎が、跳ねている。 月に向かって? いや、崖に向かって……?』
『……澪、許してくれ。 俺はもう、行かなければならない……』
最後の日付は、五年前の初夏。 その数日後に、彼は命を絶ったのだろう。
最後のページは、 大きくインクが滲んだ跡があり、 その下に、かろうじて読み取れる文字で、 こう書かれていた。
『───扉は、開かれた』
俺は、ノートを閉じた。 全身から、力が抜けていくのを感じた。 指先は冷たく、額には 脂汗が滲んでいる。 部屋の空気が、急に重く、 冷たくなったような気がした。
これが、水瀬 海斗みなせ かいとの遺した言葉。 彼の魂の叫び。 そして、澪が、五年間、一人で抱え込んできた 秘密の、ほんの一端。
戸隠とがくしの言葉は、 完全な嘘ではなかったのだ。 海斗かいとの死は、 単なる自殺ではなかったのかもしれない。 戸隠とがくしの執拗な脅迫や、 あるいは、彼が描き出してしまった 「真実」そのものが、彼を死へと 追いやった可能性が高い。
そして、澪は、その全てを知りながら、 兄の遺した「危険な絵」と、その秘密を守るために、 心を閉ざし、氷の壁の内側で、 独り耐えてきたのかもしれない。
深淵への扉。 海斗かいとが最後に記した言葉。 それは、彼が開けてしまった、 禁断の真実への扉のことだったのだろうか。 そして、俺は今、このノートを見つけたことで、 その扉の前に立ってしまったのだ。
ノートの、革の表紙の冷たい感触が、 やけにリアルに感じられる。 これは、ただの古いノートではない。 これは、人の魂が込められた、 あまりにも重く、そして危険な遺物いぶつだ。
俺は、どうすればいい? この事実を、どう受け止めればいい? そして、これから、何をすべきなのか?
相良さがらさんの警告が、重く響く。 「あなたを、これ以上、この件に巻き込むわけにはいかない」 「軽率な行動は慎んでほしい」。 彼の言葉の意味が、今、痛いほどわかる。 これは、俺が一人で抱え込めるような問題ではない。
だが、もう後戻りはできない。 俺は、扉の前に立ってしまったのだ。 その向こうにある深淵を、 覗き込まないわけにはいかない。 澪のために。 そして、もしかしたら、海斗かいとの、 救われなかった魂のために。
部屋の中は、しんと静まり返っている。 窓の外では、夜の闇が、街を深く覆っていた。 俺は、ノートを強く握りしめた。 その重さが、これから俺が背負うことになるであろう、 運命の重さそのものであるかのように感じられた。

第15章 砕ける静寂

水瀬 海斗みなせ かいとの日記を読んでから数日間、 俺はアパートに閉じこもり、 その重すぎる事実に打ちのめされていた。
眠りは浅く、悪夢にうなされ、 食事も喉を通らない。
あのノートに綴られていた、 海斗かいとの魂の叫び、 水瀬 澪みなせ みおへの複雑な想い、 あの影のような男への恐怖、 そして「開かれた扉」の先に見たであろう 深淵……。
それらが、俺自身の思考と感情に深く侵食し、 現実との境界さえも 曖昧にしていくかのようだった。
このままでは駄目だ。 俺は、この危険な知識を抱えたまま、 一人でいるべきではない。
澪に伝えなければならないのか? いや、それは彼女をさらに追い詰めるだけだ。 では、相良さがらさんに連絡を? 彼なら何か知っているかもしれない。 だが、彼の真意もまだ測りかねる。
そして、あの影の男…… 奴を止めなければならない。 澪と、そしておそらくは海斗かいとの「最後の絵」を、 あの男の汚れた手から守らなければ。
だが、どうすれば? 俺には何の力もない。 ただの、しがない小説家志望の 青年に過ぎないのだ。
そんな無力感に苛まれていた時、 スマートフォンが短い着信音を響かせた。 ディスプレイに表示されたのは、非通知ひつうちの番号からの、 短いメッセージだった。
『今夜、月読の後、調神社へ。 水瀬 澪みなせ みおについて、話がある』
差出人さしだしにんの名はない。 だが、誰からのメッセージか、俺にはすぐにわかった。 あの影の男だ。
奴は、俺の連絡先をどうやって……? 恐ろしくもあったが、同時に、 これはチャンスかもしれない、とも思った。 奴と直接対峙し、その目的を、 そして澪の過去について、さらに何かを聞き出せるかもしれない。 そして、もし可能なら、奴を止められるかもしれない。
危険な賭けだ。 だが、もう俺には、 この流れに身を任せるしか選択肢は ないように思えた。
その夜、俺は指定された時間よりも少し早く、 調神社へ向かった。
月は、欠けてはいるが、雲間から 冷たい光を投げかけている。 境内は、夜の闇と静寂に包まれ、 昼間とは全く違う、神秘的で、 しかしどこか不気味な雰囲気を漂わせていた。 本殿の奥からは、灯りは漏れてこない。 社務所も、固く閉ざされている。 人の気配は、全くなかった。
俺は、本殿脇の、 あの絵馬が掛けられた場所に 身を潜めるようにして、男を待った。
心臓が、肋骨の内側で激しく暴れている。 冷たい夜気が、肌を刺す。 楠の葉が、風にさわさわと揺れる音が、 まるで誰かの囁き声のように聞こえた。
やがて、境内の入り口の方から、 ゆっくりとした足音が近づいてくるのが聞こえた。 あの男だ。 月光の下、そのシルエットが、 黒々とした影のように浮かび上がる。
だが、男だけではなかった。 彼の隣には……もう一人、小柄な人影があった。
澪だった。
なぜ、彼女が男と一緒に? 奴に無理やり連れてこられたのか? それとも……?
俺の頭は混乱した。 澪は、俯き加減で、その表情は闇に隠れて よく見えない。 ただ、その歩き方には、 いつものような浮世離れした軽やかさはなく、 まるで糸の切れた人形のような、 頼りなさが感じられた。
二人は、本殿の前まで来ると、足を止めた。
「……話とは、何ですか」 澪の声は、か細く、 震えているように聞こえた。
「まあ、そう急くなさんな」 男は、ねっとりとした口調で言った。 「まずは、客人をもてなさないとねえ…… そこに隠れているのはわかっているんですよ、 結城 櫂ゆうき かい君」
俺は、息を呑んだ。 気づかれていたのか。 観念して、絵馬掛けの影から姿を現す。 月光が、俺の顔を青白く照らし出した。
「……何のつもりですか」 俺は、できるだけ声を平静に保とうと努めた。
「何のつもり、って? 君こそ、何のつもりだね」 男の声には、嘲るような響きがあった。 「この娘に取り入って、 何かうまい汁でも吸おうって魂胆じゃないのか? 彼女の兄貴が遺した、 あの お宝 の噂でも聞きつけて」
「ふざけるな」 俺は叫んだ。 「俺はただ、水瀬みなせさんを…… あなたのような人間から守りたいだけだ」
「守る」 男は、心底おかしそうに 喉を鳴らした。 「君に、何が守れるというんだね? 君は、この娘が抱えている闇の深さを、 何も知らない。 彼女自身が、一番危険な存在かもしれないというのに」
「黙れ」 俺は、ポケットから、あの革装丁の日記を 掴み出していた。 衝動的な行動だった。 だが、こうでもしなければ、この男の悪意を 止められないような気がしたのだ。 「俺は、知っているんだ あなたが、海斗かいとさんを脅迫していたことも、 彼がどれだけ苦しんでいたかも…… このノートに、全部書かれていた」
その瞬間、場の空気が凍りついた。 男の顔から、余裕の笑みが消える。 そして、隣にいた澪が、息を呑む音が、 静寂の中でやけに大きく響いた。
彼女は、信じられないものを見るかのように、 俺の手の中の日記と、俺の顔を、交互に見つめている。 その瞳には、驚愕きょうがくと、 そして、裏切られたかのような、 深い絶望の色が浮かんでいた。
「……あなた、それを……どこで……」 澪の声は、か細く震えていた。
「それは……」 俺は言葉に詰まる。 郵便受から持ち出したなどと、 どうして言えるだろうか。
「やはり、持っていたか」 男の目が、ギラリと光った。 「そのノートと、そして 最後の絵 。 それがどこにあるか、 大人しく渡してもらおうか、水瀬みなせさん。 それとも……このお兄ちゃんが、 君の代わりに 真実 を語ってくれるのを 待つかい」
男が一歩、澪に詰め寄る。 澪は、怯えたように後退あとずさり、 何かにすがるように、俺の方を見た。 その瞳は、助けを求めているようでもあり、 同時に、俺を激しく非難しているようでもあった。
俺は、どうすればいい? ノートを渡せば、澪は解放されるのか? いや、そんなはずはない。 この男は、決して満足しないだろう。
「……やめろ、戸隠 譲とがくし じょう
その時、俺たちの背後から、静かだが、 強い意志のこもった声が響いた。 振り返ると、そこに立っていたのは、 相良 涼平さがら りょうへいだった。
彼は、いつからそこにいたのだろうか。 その表情は、普段の神経質そうな 雰囲気とは違い、 硬く、厳しいものだった。
「……相良さがら。 やはり、お前も嗅ぎつけていたか」 戸隠とがくしは、忌々いまいましげに舌打ちをした。 「相変わらず、ハイエナのような男だな」
「それは、そっくりお前に返す言葉だ、戸隠とがくし相良さがらは、ゆっくりと俺たちのそばまで 歩み寄ってきた。 「澪さんから離れろ。 そして、そのノートからも手を引け。 あれは、お前のような俗物ぞくぶつが 触れていいものじゃない」
「ほう、俗物、ね」 戸隠とがくしは、せせら笑った。 「芸術家気取りの負け犬が、よく言う。 お前だって、海斗かいとの才能に嫉妬し、 彼の 遺産 を横取りしようと 企んでいるだけだろうが」
「黙れ」 相良さがらの声が鋭く響いた。 「俺は、ただ、海斗かいと君が遺したものを、 そして澪さんを、お前のような人間の手から 守りたいだけだ」
「守る、だと」 戸隠とがくしは、狂ったように笑い出した。 「笑わせるな この女が、何を隠しているか、 お前も知っているだろうが あの日、海斗かいとが死んだ日、 この女が何をしたのかを」
「やめてっ」
鋭い叫び声が、 夜の境内に響き渡った。 それは、澪の声だった。
彼女は、両手で耳を塞ぎ、 わなわなと震えていた。 その顔は蒼白で、瞳は大きく見開かれ、 焦点が合っていない。 まるで、見えない何かから逃れようと しているかのように。
「もう、やめて……やめてください……」
その声は、もはや彼女のものではないかのようだった。 それは、長い間、氷の壁の内側に 閉じ込められていた、 魂の慟哭どうこくそのものだった。
彼女の完璧な「静寂」は、 音を立てて砕け散り、その下から、 抑えきれないほどの感情の奔流が、 溢れ出そうとしていた。
「澪さん……」 俺は、思わず彼女に駆け寄ろうとした。 だが、相良さがらさんが、それを手で制した。
「……思い出すな、澪さん。 奴の言葉に耳を貸すな」 相良さがらさんの声は、必死だった。
だが、もう遅かった。 澪は、堰を切ったように、嗚咽を漏らし始めた。
「……違う……違うんです……」 彼女は、誰に言うともなく、 首を激しく横に振った。 「兄さんは……樹兄いつきにいさんは…… 私が……私が、 殺したようなものだから……」
その言葉に、俺は、そしておそらくは相良さがらさんも、 凍りついた。 戸隠とがくしだけが、満足げな、 歪んだ笑みを浮かべている。
「……やはり、そうだったか」 戸隠とがくしは、勝利を確信したかのように言った。 「兄の才能に嫉妬し、 彼の 最後の絵 を独り占めするために…… あるいは、彼が描いた 真実 が、 世に出るのを恐れて…… 君は、兄を見殺しにした。 違うか」
「違う……」 澪は、さらに激しく叫んだ。 「兄さんは……あの絵を描き上げてから、 おかしくなってしまった…… あの絵は、呪われているんだって…… 描いてはいけないものを描いてしまったんだって…… 毎晩、悪夢にうなされて…… 私に、『この絵を燃やしてくれ』って…… 『俺ごと、燃やしてくれ』って……」
彼女の言葉は、断片的で、 支離滅裂だった。 だが、その一つ一つが、 恐ろしい真実の輪郭を 浮かび上がらせていく。
海斗かいとは、自らが生み出した 「最後の絵」─── 禁断の真実を描いたとされる絵─── そのものに、精神を蝕まれていたのだ。
「……でも、私は……できなかった……」 澪は、泣きじゃくりながら続けた。 「あれは、兄さんの魂そのものだったから…… 燃やすことなんて、できなかった…… だから、私は……兄さんの言う通りに…… あの絵を、誰にも見つけられない場所に隠した…… それが……兄さんを、 さらに絶望させたのかもしれない…… 私が、兄さんの願いを、 最後まで聞いてあげられなかったから……」
「……そして、兄さんは、 自ら命を絶った、と」 戸隠とがくしの声が、冷たく響く。 「だが、本当にそうかな? 君は、本当に 何も しなかったのか」
「私は……」 澪は、顔を覆い、 その場に崩れ落ちそうになった。
その瞬間だった。
「そこまでだ、戸隠とがくし
相良さがらさんが、鋭い声と共に、 戸隠とがくしに掴みかかろうとした。 だが、戸隠とがくしは、それを予期していたかのように、 素早く身をかわし、逆に 相良さがらさんの腕を捻じ上げた。
「ぐっ……」 相良さがらさんが苦痛の声を上げる。
「おっと、動くなよ」 戸隠とがくしは、相良さがらさんを盾にするようにしながら、 俺と澪を睨みつけた。 「さあ、水瀬みなせさん。 もう観念しなさい。 最後の絵 はどこにある? そして、あの夜、本当は何があったのか…… 全て、話してもらおうか」
状況は、最悪だった。 澪は精神的に崩壊ほうかい寸前。 相良さがらさんは捕らえられている。 そして、俺の手には、 全ての鍵を握るかもしれない、 海斗かいとの日記。
俺は、どうすればいい?
月光が、雲間から再び差し込み、 境内を青白く照らし出す。 狛兎の石像が、まるでこの惨劇さんげきを、 冷ややかに見つめているかのようだ。
砕け散った静寂の中で、 俺たちの運命の歯車はぐるまは、否応なく、 最終局面さいしゅうきょくめんへと回り始めていた。

第16章 嵐のあと

戸隠とがくしが意識を失い、 その場に崩れ落ちてから、境内には、 まるで真空しんくうのような静寂が訪れた。
俺、結城 櫂ゆうき かいと、相良さがらさん、そして澪は、 しばし呆然とその場に立ち尽くしていた。 荒い呼吸音だけが、 夜の冷たい空気の中に響いている。 背後の本殿の闇が、 まるで口を開けた深淵のように、 俺たちを見つめているかのようだ。
「……終わった……のか」 俺は、かすれた声で呟いた。
最初に動いたのは、相良さがらさんだった。 彼は、油断なく戸隠とがくしのそばに近寄り、 その首筋に指を当てて脈を確認した。 「……気絶しているだけだ。 だが、頭を強く打っている。 しばらくは動けんだろう」
彼は、手早く、しかし確実に、 自分が持ってきたロープで 戸隠とがくしの両手両足を縛り上げ、 さらに猿轡さるぐつわまで噛ませた。 その手際の良さに、 彼がただの美術予備校の 元講師ではないことを、 改めて思い知らされた。
「……こいつは、どうするんですか」 俺は尋ねた。
「……警察に、引き渡すしかないだろうな」 相良さがらさんは、低い声で言った。 「匿名で通報する。 この近くで、不審者が倒れている、と。 あとは、警察が調べてくれれば、 奴のこれまでの悪事も、 いずれは明るみに出るかもしれん」
それは、最も現実的な方法だろう。 俺たちが直接関与したことを隠しつつ、 戸隠とがくしという脅威を社会的に 排除するには。
俺たちの視線は、自然と、澪へと向けられた。 彼女は、相良さがらさんに支えられるようにして、 かろうじて立っていた。 顔色は蒼白で、瞳は虚ろだったが、 先ほどの錯乱さくらんしたような様子はない。 ただ、全てを出し尽くしたかのような、 深い疲労の色が、その全身を覆っていた。
「……澪さん、大丈夫ですか」 俺は、そっと声をかけた。
彼女は、ゆっくりと俺の方を見た。 そして、力なく、わずかに頷いた。 「……ええ……なんとか……」 その声は、囁くようにか細かった。 「……でも……私……あんなこと……」
彼女は、自らが口走ってしまった言葉─── 兄を殺したのは自分のようなものだ、という告白─── を思い出し、再び顔を歪めた。
「気にするな、澪さん」 相良さがらさんが、静かに言った。 「あれは、君の本心じゃない。 戸隠とがくしに追い詰められて…… それに、君はずっと、一人で抱え込みすぎていたんだ」
「でも……」
「今は、休むことだけを考えなさい」 相良さがらさんは、優しく、 しかし有無を言わせぬ口調で言った。 「さあ、ここを離れよう。 夜が明ける」
俺たちは、縛られたまま意識のない戸隠とがくしを一瞥し、 そして、この忌まわしい場所を後にすることにした。
相良さがらさんが手配した警察への匿名通報の後、 サイレンの音は、遠くに聞こえ始めていた。 彼らが到着する前に、ここを立ち去らなければ。
相良さがらさんが用意していた車は、 目立たない国産のワゴン車だった。 彼は、どこにこんないくつもの「隠れ蓑」を 持っているのだろうか。
俺は、澪を後部座席にそっと座らせる。 彼女は、シートに深く体を沈めると、 すぐに、泥のように深い眠りに 落ちたようだった。 その寝顔は、まるで幼い子供のように 無防備で、しかし、眉間には深い 苦悩の皺が刻まれていた。
相良さがらさんが運転席に、 俺が助手席に乗り込むと、 車は静かに、しかし素早く発進した。
車内には、重い沈黙が流れていた。 聞こえるのは、エンジン音と、 後部座席から伝わってくる澪の、 かすかな寝息だけ。 窓の外を、街灯の光と、建物の影が、 猛スピードで流れ去っていく。
「……これから、どうするんですか」 俺は、声を潜めて尋ねた。
「……安全な場所へ行く」 相良さがらさんは、短く答えた。 「澪さんを、落ち着かせなければならない。 そして、今後のことを考えなければ……」
「安全な場所って……」
「俺が借りている、古いアパートがある。 都心からは少し離れているが、 人目につきにくい場所だ。 しばらくは、そこで……」 それは、以前彼が口にした 隠れ家のことだろう。
「……水瀬 海斗みなせ かいとさんの、 最後の絵 は……結局、 見つかりませんでしたね」 俺は言った。
戸隠とがくしがあれほど執着し、 そして海斗かいと自身が 危険だ と 書き記した絵。 それは、一体どこにあるのだろうか。
「……ああ」 相良さがらさんは頷いた。 「だが、あるいは、それで良かったのかもしれん。 あの絵は、あるいは……海斗かいと君自身が、 どこかへ永遠に葬り去ったのかもしれないな。 我々が、知る必要のない 深淵 と共に……」
彼の言葉は、重く響いた。 そうなのかもしれない。 俺たちは、真実の全てを知る必要は ないのかもしれない。 知るべきことは、もう十分すぎるほど、 知ってしまったのだから。
車は、夜明け前の高速道路を 走り続けていた。 俺は、窓の外に広がる、 まだ眠りから覚めやらぬ街の景色を 眺めていた。
嵐は、過ぎ去った。 激しく、全てを飲み込もうとした奔流は、 ようやくその勢いを弱め、 今は、ただ静かに、その爪痕を 残しているだけだ。
俺たちは、生きて、ここに戻ってきた。 だが、その代償は、 決して小さくはなかった。
後部座席で眠る澪の、穏やかだが、 どこか痛みを感じさせる寝顔。 助手席で、険しい表情のまま ハンドルを握る相良さがらさん。 そして、俺自身の中に残る、あの夜の記憶と、 これからどう生きていくべきかという、 途方もない問い。
俺は、ジャケットの内ポケットを探った。 そこには、海斗かいとの日記が、 確かな重みを持って収まっていた。 この日記を、どうするべきか。 これもまた、考えなければならない問題だった。
車は、やがて高速道路を降り、 見慣れない郊外の住宅街へと入っていく。 東の空が、わずかに白み始めていた。 長い、長い夜が、ようやく明けようとしていた。
だが、俺たちの本当の夜明けは、 まだ遠いのかもしれない。 嵐の後に残された、この静けさの中で、 俺たちは、これからどう生きていくのだろうか。 そして、あの深淵で見たものを、 どう乗り越えていくのだろうか。

第二部、了。

第三部 熾火夜明け

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蘇芳 誠(すおう まこと) 「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。