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【小説】吹き荒れたる碧 第三部 熾火夜明け

第三部 熾火夜明け


第17章 残された手帖

あの調神社つきのみやじんじゃでの嵐のような夜から、 季節は静かに移ろい、 木々が最後の葉を落とし、 冷たい木枯こがらしが吹きすさぶ晩秋となっていた。
俺、結城 櫂ゆうき かいと、水瀬 澪みなせ みお、 そして相良 涼平さがら りょうへいさんは、 相良さがらさんが用意した都心から離れた 古いアパートの一室に、 息を潜めるように日々を送っていた。
窓の外には、冬枯ふゆがれの、 色彩を失った住宅街の風景が広がっている。
あの日、調神社つきのみやじんじゃで対峙した戸隠とがくしの狂気、 そして砕け散った澪の静寂の記憶は、 生々しい「熾火」のように、この部屋の空気の中に、 そして俺たちの心の中に、燻り続けていた。
澪は、あの夜の後、 見違えるほど落ち着きを取り戻してはいた。 悪夢にうなされる夜はまだあったが、 日中は、部屋の窓辺に座り、 静かに本を読んだり、 あるいは、ただ空を眺めて過ごしたりしていた。
言葉数は依然として少ない。 だが、その蒼い瞳の奥に宿る翳りは、 以前のような絶対的な拒絶や恐怖の色ではなく、 深い哀しみを湛えながらも、 どこか澄み切った湖面のような、 静かな受容の色合いを帯びるようになっていた。
彼女が兄・海斗かいとの呪縛から、 痛みを伴いながらも、 確実に解放されつつあるように見えた。
相良さがらさんは、俺たちの身の安全を確保するために、 精力的に動いてくれていた。 戸隠とがくしのその後 (警察に保護されたが、精神鑑定の結果、 責任能力なしと判断され、 専門の医療機関に収容されたらしい)や、 彼の背後にいたかもしれない協力者の動向などを、 彼独自のルートで探ってくれていた。 だが、その調査も、今のところ、 決定的な情報は得られていないようだった。 影は、まだ完全には晴れていなかった。
俺自身は、と言えば、止まっていた創作を、 少しずつ再開していた。 だが、以前のように、海斗かいとの日記や、 澪の存在に直接的に影響された、 暗く激しい物語を書く気にはなれなかった。
むしろ、あの深淵を覗き込んだ経験を経て、 俺が描くべきものは、もっと別の場所にあるのではないか、 と感じ始めていた。 光と影、熱と静寂、 それらが複雑に織りなす、 人間の魂の有り様そのものを。 だが、その輪郭は、まだ朧気だった。
そんな、ある意味で平穏だが、 どこか宙吊りにされたような日々が続いていた、 ある日の午後。 相良さがらさんが、一つの大きな段ボール箱を、 部屋に運び込んできた。
「これは……」 俺が尋ねると、 相良さがらさんは、疲れたように息をつきながら答えた。 「……海斗かいと君の、遺品の一部だ。 浦和の空き家に残されていたものを、 弁護士を通じて、ようやく引き取ることができた」
海斗かいとの遺品。 その言葉に、俺と澪は、顔を見合わせた。 澪の表情が、わずかに強張る。 兄の遺したものに触れるのは、彼女にとって、 まだ痛みを伴う行為なのだろう。
「……見るかい、澪さん」 相良さがらさんが、気遣うように尋ねた。 「無理にしなくてもいいんだぞ」
澪は、しばしの間、黙して俯いていたが、 やがて、静かに顔を上げた。 その瞳には、もう怯えの色はない。 「……見ます」 彼女は、はっきりとした声で言った。 「兄が、何を遺していったのか…… 私が、知らなければならないことだと思うから」
俺たちは、テーブルの上に段ボール箱を置き、 三人で、ゆっくりとその中身を検め始めた。
中には、海斗かいとが生前使っていたと思われるものが、 雑然と詰められていた。 使い古された絵筆やパレットナイフ。 固まってしまった油絵の具のチューブ。 数冊の美術書や画集。 そして、埃をかぶった、数枚の未完成のキャンバス。 そこには、彼の才能の残滓ざんしと、 苦悩の痕跡が生々しく刻まれていた。
澪は、黙って、それらを一つ一つ手に取り、 懐かしむように、あるいは、悼むように、見つめていた。
箱の底の方に、数冊の、くたびれたスケッチブックが 重なっているのが見えた。 俺たちが以前見つけた、あの革表紙の日記とはまた違う、 もっと小型で、日常的に使われていたようなものだ。
「これも、海斗かいと君が……」 俺は、一番上にあった一冊を手に取った。 表紙には、フランス語らしき文字で、 何か店の名前のようなものが型押しされている。
その瞬間、隣にいた澪が、息を呑むのがわかった。 「……これは……」 彼女の声が、震えた。 「……兄さんが……巴里パリにいた頃の……」
巴里パリ。 その言葉が、部屋の空気を再び緊張させた。 海斗かいとの狂気の根源が、 そこにあるかもしれないのだ。
俺たちは、息を詰めて、そのスケッチブックのページを、 ゆっくりとめくり始めた。
最初のページには、セーヌ川のほとりの風景や、 モンマルトルの坂道、 カフェのテラスに座る人々などが、 軽やかなタッチで描かれていた。 そこには、まだ若き日の、 希望に満ちた画学生の眼差しが感じられる。 光と影の捉え方、 色彩(鉛筆の濃淡だが)の選び方に、 既に非凡な才能の片鱗が見て取れた。
だが、ページが進むにつれて、その作風は徐々に変化していく。 線はより鋭く、内省的になり、 描かれる対象も、具体的な風景から、 次第に抽象的なイメージへと移行していく。
そして、あの「青」が現れ始めるのだ。 最初は、空や水の色として、 点景のように使われていた青が、 次第に画面全体を覆い尽くし、深く、暗く、 そしてどこか不穏な色合いを帯びていく。 日本で見つけた日記に繋がる、 あの狂気の萌芽ほうがが、そこにはっきりと記録されていた。
そして、スケッチの合間には、日本語や、 時にはフランス語で、 短いメモや詩のような言葉が書き込まれていた。
『……この街の光は、あまりにも強い。 それは、影をもまた、深く、濃くする……』
『……ルーブルの闇。 デルフトの光。 レンブラントの魂。 俺は、まだ何も見えていない……』
『……デュボワDubois教授。 彼は知っている、古の『青』の秘密を。 だが、教えようとしない。 危険すぎると言う。 何を恐れている』
『……クロエChloé。 彼女の緑の瞳の奥にも、あの深淵が……。 彼女は、俺の道連れか、それとも……』
『……サン=ジェルマンの古書店で見つけた写本。 錬金術の記述。 Lapis Lazuliの真の力……』
『……Ca R R i è R e……地下の迷宮。 月の光さえ届かぬ場所。 そこに、根源の 青 が眠る……』
そして、最後のページ近くには、 ひときわ異様なスケッチがあった。
それは、ほとんど抽象画に近いもので、 渦巻くような濃紺の闇の中に、 歪んだ月と、そして、何か、目のような形をした紋様が、 いくつも浮かんでいる、というものだった。
その紋様は、不気味なほどに、 俺が調神社つきのみやじんじゃで見つけた、あの古い鍵の 持ち手の模様に、酷似していたのだ。
そのスケッチの横には、走り書きのような文字で、 こう記されていた。
『……ついに見つけた。 深淵への扉。 だが、開けてはならなかったのかもしれない……。 鍵は、彼女に……』
そこで、記述は途切れていた。
俺と澪は、顔を見合わせた。 全身の血の気が引いていくのを感じる。 これは、いったい何を意味するのか?
海斗かいとは、巴里パリで、 あの「最後の絵」の根源となるような、 何か恐ろしい「真実」に触れてしまったのではないか? そして、その「鍵」となる情報を、 クロエChloéという女性、あるいは…… 別の「彼女」に託した、というのだろうか?
日本での出来事は、その始まりに過ぎなかったのかもしれない。 本当の謎は、この巴里パリの手帖の中に、 そして、海斗かいと巴里パリで経験した出来事の中に、 隠されているのではないか。
澪は、スケッチブックを閉じた。 その手は、微かに震えていた。 彼女の顔色は、再び蒼白に戻っていたが、 その瞳には、恐怖だけではない、 何か別の、強い光が宿っていた。
「……行かなければ」 彼女は、静かに、しかし強い意志を込めて言った。 「巴里パリへ……。 兄が、そこで何を見つけ、何を遺したのか…… 確かめなければ」
その言葉は、俺にとっても、抗うことのできない、 新たな旅立ちの合図となった。
ようやく訪れたはずの「夜明け」は、 まだ完全なものではなかったのだ。 過去の「熾火」は、遠い異国の地で、 まだ静かに燻り続けている。 そして、俺たちは、その火の元へと、 再び歩き出さなければならないのだ。
窓の外では、木枯らしが、 ヒュー、と寂しい音を立てて吹き抜けていった。 まるで、これから始まる、長く、 そしておそらくは困難な旅路を、 暗示するかのように。

第18章 鍵と地図

巴里パリ。 その響きだけで、俺、結城 櫂ゆうき かいの心臓は、 期待と不安とがないまぜになって高鳴った。
水瀬 海斗みなせ かいとが遺した、 あの小さな手帖。 そこに記された断片的な言葉とスケッチが、 俺たちの進むべき道を、遠く、 しかし確かに指し示していた。
本当の謎は、本当の「深淵」は、 芸術の都の光と影の中に 眠っているのだ、と。
隠れ家のアパートの一室は、その日から、 静かな、しかし異様な熱気に 包まれていた。
テーブルの上には、巴里パリ時代の手帖が開かれ、 その横には、相良 涼平さがら りょうへいさんが用意した 巴里パリの古い地図や、 関連するかもしれない美術書が 積み上げられている。
部屋の中には、古い紙の匂いと、 何度も淹れ直されたコーヒーの 濃い香りが充満していた。
俺と相良さがらさんは、 まるで暗号解読に挑むかのように、 手帖の記述とにらめっこを続けた。
海斗かいとの、時に几帳面で、 時に乱れきった筆跡。 日本語とフランス語が混じり合う、謎めいたメモ。 そして、あの不気味な「月と兎の紋様」や、 鍵を暗示するようなスケッチ。
『Rue de Seineの画材屋。 古の『青』……』
『Jardin du Luxembourg。 光と影。 クロエChloéと虚無の色……』
デュボワDubois教授…… 書斎の『鍵』……それは比喩か、現実か』
『Ca R R i è R e……地下の迷宮…… 月の兎が見ている……』
インターネットで、それらの地名や人名を検索し、 地図上に印をつけ、 関連する情報を洗い出していく。
ラップトップの画面の青白い光が、 俺たちの真剣な顔を照らし出す。 時折、カタカタ、というキーボードの音や、 ページをめくる乾いた紙の音だけが、 部屋の静寂を破った。
水瀬 澪みなせ みおは、その間、部屋の隅の 椅子に座り、 静かに俺たちの作業を見守っていた。
彼女は、時折思い出したように、 兄が巴里パリで好んで訪れていた場所や、 口にしていた言葉などを、 ぽつり、ぽつりと語ってくれた。 その断片的な記憶が、 思わぬヒントになることもあった。
彼女の蒼い瞳には、以前の虚ろさはなく、 兄の遺した謎に立ち向かおうとする、 静かな、しかし強い意志の光が 宿っていた。 その光を見るたびに、俺の決意もまた、 固まっていくのを感じた。
俺は、相良さがらさんに電話を借り、 日本へ国際電話をかけた。 相手は、相良さがらさんの知人を経由して 連絡を取ってもらった、 デュボワDubois教授本人……ではなく、 彼の世話をしているという家政婦かせいふの女性だった。
教授は高齢で、体調も優れず、 滅多に外部の人間とは会わないという。 それでも、海斗かいとの名前を出すと、 家政婦の女性の声のトーンがわずかに変わり、 「一度、手紙を書いてみてはどうか」と 提案してくれた。 住所は教えられないが、大学の 旧研究室宛なら届くかもしれない、と。 それは、わずかな希望だった。
クロエChloéについては、相良さがらさんの調査でも、 現在の正確な居場所は掴めていなかった。 美術界からは距離を置いているらしく、 古い友人たちとも疎遠そえんになっているという。 手帖に記された、サン=マルタン運河近くの アトリエの住所が、唯一の手がかりだった。
俺たちは、なけなしの貯金と、 俺の小説のわずかな前金、 そして相良さがらさんが「これは貸しだ」と言って 差し出してくれた資金をかき集め、 巴里パリ行きの、最も安い航空券を探した。
幸い、オフシーズンだったこともあり、 なんとか二人分のチケットを確保することができた。 宿は、これもインターネットで探した、 モンマルトルの近くにあるという、 屋根裏の安アパートメントを予約した。 写真で見る限り、古くて狭そうだったが、 贅沢は言っていられない。
パスポートの有効期限を確認し、 海外旅行保険に加入し、 本屋で埃をかぶっていた ポケットサイズのフランス語会話集を買った。 その表紙のエッフェル塔の写真が、 やけに非現実的に見えた。
旅の準備という、極めて日常的で、 事務的な作業の一つ一つが、 俺たちの旅立ちが、もはや後戻りできない 現実であることを、否応なく突きつけてくる。
俺は、図書館のアルバイト先には、 「しばらく個人的な都合で休みたい」と 伝えた。 上司は、少し驚いた顔をしたが、 「小説の取材か何か」と尋ねるだけで、 特に深くは追求せず、了承してくれた。
本田 拓実ほんだ たくみには、 「しばらく日本を離れる」とだけ、 メールで伝えた。 彼からは、すぐに電話がかかってきて、 「おい、借金か? それとも女か? 今度は地球の裏側まで逃げるのか」と、 いつもの調子で揶揄われたが、 「まあ、そんなところだ」と適当に答えておいた。 本当のことを話せるはずもなかった。 彼には、彼の穏やかな日常を 守ってほしかった。
澪もまた、彼女なりに、 静かに旅立ちの準備を 進めているようだった。
彼女が借りている小さなアパートを訪ねると、 部屋は驚くほど整理され、 荷物は、本当に必要最低限のものだけが 詰め込まれた、小さなスーツケース一つに まとめられていた。 まるで、いつでもここから消え去ることができるかのように。 その身軽さが、逆に彼女の覚悟の深さを 物語っているように感じられた。
出発を二日後に控えた夜、 俺たちは、澪の部屋で、 やかな夕食をとっていた。
スーパーで買ってきた惣菜そうざいと、安いワイン。 窓の外では、冷たい木枯らしが、 ヒュー、と音を立てて吹き抜けている。 部屋の中の、頼りない暖房の温もりが、 妙に心にしみた。
「……怖いですか」 俺は、静かに尋ねてみた。
澪は、ワイングラスを持つ手を止め、 しばらくの間、窓の外の闇を見つめていた。 そして、ゆっくりと頷いた。 「……ええ。 少し」 彼女の声は、正直だった。 「兄が、巴里パリで何を見て、 何に苦しんでいたのか…… それを知るのが、怖い。 そして、また……あの時のような、 暗い感情に、自分が 飲み込まれてしまうのではないか、ということも」
「……俺がいます」 俺は言った。 「一人じゃありません。 それに、相良さがらさんもいる」
「……ありがとう」 彼女は、俺を見て、 微かに微笑んだ。 「でも、これは、私自身の問題でもあるんです。 兄の過去と、そして、私自身の過去と、 きちんと向き合わなければ…… 本当の意味で、前に進むことは できない気がするから」
彼女の瞳には、恐怖と、 しかしそれを上回る、 強い決意の光が宿っていた。 彼女は、ただ守られるだけの存在ではない。 彼女自身の意志で、 この困難な旅に臨もうとしているのだ。 その覚悟に、俺は改めて、 襟を正す思いがした。
俺たちは、互いの不安を、そして決意を、 言葉少なながらも分かち合った。 この異国の地への旅は、 単なる謎解きではない。 それは、俺たち二人にとって、 過去を乗り越え、未来を見つけるための、 重要な巡礼となるのかもしれない。
出発の前日、俺たちは、最後に カフェ「月読」を訪れた。 月見つきみさんは、俺たちがしばらく来なくなることを 察したのか、いつものコーヒーと共に、 小さな焼き菓子を黙って出してくれた。
「……お気をつけて」 カップを片付けに来た彼が、 ぼそりと、それだけ言った。 その無骨な優しさが、心にしみた。
カフェを出て、玉川上水沿いを、 ゆっくりと歩く。 夕暮れの光が、 水面を金色に染めている。 見慣れた小平の風景。 それは、俺が悩み、苦しみ、 そしてやかな希望を見出した場所だ。 この風景を、しばらく見ることができなくなる。 そう思うと、一抹の寂しさが 込み上げてきた。
だが、感傷に浸っている時間はない。 俺たちの旅は、もう始まっているのだ。
アパートに戻り、最後の荷造りを終える。 パスポート、航空券、 そして、あの巴里パリの手帖と、 古い銀色の鍵。 それらを、ジャケットの内ポケットに、 大切にしまい込む。
窓の外は、もう完全な闇に包まれていた。 冷たい星々が、遠い空で 瞬いている。 その一つが、まるで道標のように、 西の空、巴里パリのある方角を 指し示しているような気がした。
「……行こうか」
静かに頷く澪と共に、 俺はアパートのドアを開け、外へと踏み出した。 ひんやりとした夜気が、肌を引き締める。 空港へ向かうための、始発電車が 動き出すまで、あと数時間。 俺たちは、言葉もなく、ただ前を見据え、 駅へと続く道を、歩き始めた。
巴里パリの青』。 それが、どんな色をしているのか、まだわからない。 だが、俺たちは、それを見つけに行かなければならないのだ。 たとえ、その先に、さらなる深淵が 待ち受けていようとも。


第19章 巴里の雲

シャルル・ド・ゴール空港の 巨大なガラスの天井から、 冬の巴里パリの、白っぽく淡い光が 降り注いでいた。
俺、結城 櫂ゆうき かいは、深く息を吸い込んだ。 空気は、乾燥していて、ひんやりと冷たい。 そこには、日本とは全く異なる匂いが 混じり合っていた。 微かな香水の甘い香り、 どこかで焼かれているパンのような香ばしさ、 消毒液のツンとした匂い、 そして、大勢の人間が行き交うことから生じる、 漠然とした埃っぽさ。
耳には、フランス語を始めとする、 様々な言語の響きが、 まるで洪水のように押し寄せてくる。 アナウンスの柔らかなメロディ、 カートの車輪が床を擦る音、 遠くで響くジェットエンジンの轟音。
その全てが、非日常の感覚を強め、 俺の心臓を、期待と不安で 高鳴らせた。
隣を歩く水瀬 澪みなせ みおは、 フードを目深にかぶったまま、 その蒼い瞳で、落ち着きなく周囲を 見渡していた。
長いフライトの疲れもあるのだろう、 その顔色は普段にも増して白く、 唇は固く結ばれている。
だが、その瞳の奥には、 単なる疲労や不安だけではない、 もっと複雑な感情─── 兄が過ごした街への、 痛みを伴う郷愁のようなもの、 あるいは、これから対峙しなければならない過去への、 静かな覚悟のようなもの───が、 揺らめいているように見えた。
俺たちは、重いスーツケースを引きずりながら、 表示に従ってRER (高速郊外鉄道)の駅へと向かった。
地下へと下るエスカレーターの 冷たい手摺の感触。 壁に描かれた、鮮やかだが意味不明な グラフィティアート。 どこからか聞こえてくる、 アコーディオンの物悲しい音色。 それら全てが、俺たちの異邦人としての感覚を 際立たせた。
RERの車内は、空港とはまた違う、 生活感の溢れる猥雑わいざつさに 満ちていた。
座席の布は擦り切れ、床にはゴミが落ちている。 様々な言語が飛び交い、 大きな荷物を持った旅行者や、 疲れた表情の通勤客が、 無言で車窓を流れる景色を眺めている。
ガタン、ゴトン、という、日本の電車よりも 荒々しい振動と走行音。 俺は、澪が不安にならないように、 さりげなく彼女の隣に立ち、 吊り革を固く握りしめた。
車窓の風景は、次第に変わっていった。 空港周辺の、 どこか殺風景な郊外の景色から、 次第に建物が密集し始める。
そして、巴里パリ市内に入ると、 その景色は一変した。 石造りの、重厚で装飾的なアパルトマン。 ベランダの鉄柵の優美な曲線。 煙突の立ち並ぶ、灰色の亜鉛屋根。
それらは、写真や映像で幾度となく見てきた、 「パリ」そのものの風景だった。 だが、実際にこの目で見ると、 その歴史の重みと、独特の美意識に、 息を呑むような感銘を覚えた。
同時に、この大きな、歴史ある街の中で、 俺たちは、海斗かいとという一人の画家が遺した、 針の先ほどの小さな手がかりを 追わなければならないのだ、という途方もない事実に、 改めて気づかされた。
俺たちが予約していたのは、 モンマルトルの丘のふもと近く、 細い石畳の路地に面した、 古い建物の屋根裏部屋だった。
管理人らしき、無愛想な中年女性から 鍵を受け取り、軋む木の階段を、 重いスーツケースを引きずりながら 六階まで上がる。 息が切れ、汗が滲む。 階段の途中の壁には、誰が描いたのか、 落書きのような絵や文字が残っていた。 古い木の匂いと、埃の匂い。
部屋は、想像通り、狭くて古びていた。 傾いた天井。 小さなキッチンとシャワールーム。 窓からは、ぎっしりと寄せ合うように建ち並ぶ、 巴里パリ特有の、灰色がかった亜鉛屋根と、 無数の煙突が見渡せた。
遠くには、モンマルトルの丘の上に白く輝く、 サクレ・クール寺院のドームが見える。 それは、絵葉書のような美しい景色だったが、 同時に、この異国の地での孤独と不安をも 感じさせた。 部屋の空気は、少し黴臭く、 暖房もあまり効いていないようで、 ひんやりとしていた。
「……少し、休みましょう」 俺が言うと、 澪は黙って頷き、窓際の小さな椅子に腰を下ろした。 彼女は、長旅の疲れを見せるでもなく、 ただじっと、窓の外の、見慣れぬ街並みを眺めている。 その横顔からは、何も読み取れない。
俺は、荷物を解き、近くのパン屋で買ってきた、 まだ温かいバゲットと、カマンベールチーズ、 そしてミネラルウォーターで、簡単な食事を済ませた。
言葉の壁は思った以上に高く、 パンを買うだけでも一苦労だった。 店員の早口のフランス語は全く聞き取れず、 身振り手振りでなんとか目的のものを 手に入れた、という有様だ。 これから先の調査の困難さが、思いやられた。
時差ぼけと疲労で、頭が重い。 体は休息を求めている。 だが、じっとしているわけにはいかなかった。 俺たちの手元には、海斗かいとの遺した 手帖がある。 そこに記された、断片的な手がかりを、 一つずつ辿っていくしかないのだ。
「……少し、街を歩いてみませんか」 俺は、窓の外を見つめ続ける澪に、 声をかけた。 「手帖にあった、美術学校の辺りとか……」
澪は、ゆっくりとこちらを振り返り、 そして、静かに頷いた。
俺たちは、地図アプリを頼りに、メトロを乗り継ぎ、 セーヌ川の南岸、サン=ジェルマン=デ=プレ地区にある、 国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)を目指した。
メトロの地下通路は、薄暗く、様々な匂いが混じり合い、 時にはアコーディオンの物悲しい音色が響いてくる。 地上に出ると、そこは、重厚な石造りの建物が並び、 画廊や古書店が軒を連ねる、 歴史と芸術の香りが色濃く漂う地区だった。
美術学校の建物は、想像していた以上に、 威厳があり、そして閉鎖的な雰囲気だった。 巨大な石の門構え。 中庭を闊歩かっぽする、いかにも芸術家然とした学生たち。 俺たちのような、明らかに場違いな東洋人の訪問者は、 どこかいぶかしげな視線で見られているような気がした。
受付で、海斗かいとの名前や、 デュボワDubois教授について尋ねてみたが、 案の定、まともな答えは返ってこなかった。 古い学生の記録はすぐには確認できない、 デュボワという名の教授は今は在籍していない、 そもそもアポイントメントなしでは対応できない、と、 事務的なフランス語(おそらく)で、冷たくあしらわれてしまった。
澪が隣で、何かフランス語で食い下がろうとしてくれたが、 やはり相手にされなかった。 彼女は、少しだけフランス語が話せるようだったが、 流暢というわけではなさそうだ。
最初の試みは、あっけなく失敗に終わった。 俺たちは、言葉もなく、美術学校を後にした。
「……まあ、最初から、 そう簡単にはいかないとは思ってましたけど」 俺は、努めて明るい声を出した。
澪は、答えなかった。 ただ、その表情には、わずかな落胆の色が 浮かんでいるように見えた。
次に俺たちは、手帖に記されていた、 セーヌ通りの画材屋を探してみることにした。
細い通りには、小さな画廊や アンティークショップがひしめき合っている。 だが、手帖に書かれていた住所の場所には、 画材屋ではなく、洒落たブティックが入っていた。 ショーウィンドウには、最新モードの服が飾られている。 海斗かいとが通っていたであろう、 古い画材屋の面影は、どこにもなかった。
またしても、空振りだった。 時間は、容赦なく過ぎていく。 巴里パリの空は、日本で見るよりも、 どこか高く、そして淡い色をしているように 感じられたが、今はその空にも、 重たい雲が広がり始めていた。
ぽつり、ぽつりと、冷たい雨粒が落ちてくる。
「……どこか、休みましょうか」 俺が言うと、澪は黙って頷いた。
近くにあった、小さなカフェに入る。 テラス席ではなく、店内の、 壁際の席を選んだ。 エスプレッソを注文する。 運ばれてきた小さなカップの、 濃厚な液体を口に含むと、 強い苦みが舌を刺した。 だが、その苦みが、今はむしろ心地よかった。
雨が、窓ガラスを叩き始めている。 道行く人々が、足早に 通り過ぎていく。 カフェの中は、話し声や、 食器の触れ合う音で、 それなりに賑やかだったが、 俺たちのテーブルの上だけは、 重い沈黙が支配していた。
「……来るんじゃなかった、と、思いますか」 俺は、静かに尋ねてみた。
澪は、ゆっくりと首を横に振った。 「……いいえ」
「でも……」
「……簡単ではないと、わかっていましたから」 彼女は、カップを見つめたまま言った。 「兄が遺したものは…… そう簡単には、見つからない。 それに……見つけてはいけないもの、なのかもしれない……」 その声には、諦めとも、覚悟ともつかない、 複雑な響きがあった。
巴里パリの街は、美しい。 歴史と芸術の香りに満ち、 歩いているだけで、心が浮き立つような 魅力がある。 だが、同時に、この街は、あまりにも巨大で、深く、 そして多くの秘密を抱えているようにも 感じられた。 海斗かいとは、この街で、何を見、 何を感じ、そして、どんな「青」の深淵へと 沈んでいったのだろうか。
俺たちは、まるで広大な海に 放り出された、小さな小舟のようだった。 手元にあるのは、一枚の、 不確かで、解読困難な海図かいず海斗かいとの手帖)だけ。 目指すべき灯台(真実)は、まだ、 濃い霧の向こうに見え隠れしている。
カフェの窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、 俺は、これから始まるであろう、長く、 そして困難な探索の道のりに、 改めて思いを馳せていた。 巴里パリの空に垂れ込める雲は、まるで、 俺たちの前途を暗示しているかのようだった。

第20章 過去の残響

巴里パリでの最初の探索は、 厚い雲に覆われた空のように、 明確な成果を俺たちにもたらさなかった。
水瀬 海斗みなせ かいとが通っていた美術学校は、 歳月という名の壁に閉ざされ、 彼が足繁く通ったかもしれない画材屋は、 跡形もなかった。
手がかりは、依然として、 あの古い手帖に記された、 断片的な言葉と名前だけだ。
焦りが、じわじわと心を蝕み始めていた。
そんな時、日本にいる相良さがらさんから、 一本の国際電話が入った。 彼もまた、独自に調査を続けてくれていたのだ。
『……デュボワDubois教授のことだが』 電話の向こうの相良さがらさんの声は、 少しノイズが混じっていたが、真剣そのものだった。 『やはり、美術史の権威で、 数年前まではソルボンヌで教鞭を とっていたらしい。 だが、今は退官して、 ほとんど誰とも連絡を取らず、 サン=ジェルマン地区のアパルトマンに、 ひっそりと暮らしているようだ。 頑固で、気難しい人物だという 評判だが…… 海斗かいと君のことは、非常によく覚えていた、と、 共通の知人が言っていた』
相良さがらさんは、その知人を通じて、 デュボワDubois教授の住所と、 事前に俺たちのことを伝えてくれた、と 付け加えた。 教授が会ってくれるかどうかはわからないが、 訪ねてみる価値はあるだろう、と。
それは、暗闇の中で見つけた、 一条の細い光だった。 俺たちは、礼を言って電話を切り、 すぐにその住所へと向かう準備を始めた。
サン=ジェルマン=デ=プレ。 再び訪れたその地区は、 昼間の陽光の下でも、どこか歴史の重みと、 知的な雰囲気を漂わせていた。
石畳の道、古書店のショーウィンドウ、 道端のカフェで議論を交わす人々。 海斗かいとも、かつてこの道を歩き、 この空気を吸い、そして、この街の光と影の中で、 自らの「青」を探求していたのだろうか。
教授のアパルトマンは、セーヌ川から 少し入った、静かな通りに面していた。 蔦の絡まる、石造りの重厚な建物。 一階には、ひっそりとした画廊が入っている。
俺たちは、インターホンで名前を告げた。 しばらくの間があって、 年老いた、しかし威厳のある男性の声が応え、 オートロックの扉が開いた。
古い、手動式のエレベーターで、 最上階の六階へと上がる。 エレベーターの揺れと、油の匂いが、 緊張感を高めた。 目的の部屋の前に立ち、 重厚な木の扉を、俺はゆっくりとノックした。
扉を開けてくれたのは、 小柄で、痩身の老人だった。 年は八十歳を超えているだろうか。 銀色の髪は綺麗に整えられ、 ツイードのジャケットを羽織っている。 その顔には深い皺が刻まれていたが、 眼鏡の奥の瞳は、驚くほど鋭く、 そして探るような光を宿していた。 この人が、デュボワDubois教授。
「……入りなさい」 教授は、低い、少し掠れた声で、 俺たちを部屋へと促した。 フランス語訛りの、しかし流暢な日本語だった。 若い頃、日本で研究していた 時期があるのかもしれない。
部屋の中は、まるで古い図書館か 博物館のようだった。 壁一面が、床から天井まで、 本で埋め尽くされている。 美術書、哲学書、歴史書…… 様々な言語の背表紙が、 ぎっしりと並んでいる。
空気には、古い紙とインク、 そして微かにパイプ煙草のような、 甘く香ばしい匂いが漂っていた。 テーブルや床の上にも、無造作に 本や画集が積み重ねられ、 壁には、様々な時代の絵画の複製画や、 デッサン、版画などが、隙間なく飾られている。
その膨大な知識と美の集積の中にいると、 自分がひどく矮小わいしょうな存在に 感じられた。
「……水瀬 海斗みなせ かいと君のことでしたな」 教授は、革張りの肘掛椅子に 深く腰を下ろし、俺たちに向き直った。 「相良さがら君から、話は聞いています。 遠い日本から、わざわざ……」
「はい」 俺は頷いた。 「私たちは、彼の遺したものを 調べているうちに、どうしても、 彼が巴里パリで過ごした時期について、 詳しく知りたくなりまして……。 特に、教授のお名前が、 彼の手帖に記されていましたので」
俺は、ジャケットの内ポケットから、 例の手帖を取り出し、 テーブルの上に置いた。
教授は、手帖に視線を落とし、 しばし黙考していた。 その表情は、懐かしさと、 そして深い哀しみが入り混じった、 複雑な色を浮かべている。
「……イツキ……」 教授は、ほとんど自分自身に 言い聞かせるように、その名を呟いた。 「……懐かしい名前だ。 そして……あまりにも、痛ましい名前でもある」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「彼は……悪魔的な才能を 持っていましたな」 教授の声は、静かだったが、重みがあった。 「あの若さで、あれほどの色彩感覚と、 対象の本質を抉り出すような描線びょうせん……。 間違いなく、同世代の中では、 群を抜いていた。 だが……」
彼は、そこで言葉を切り、 パイプに火をつけた。 甘い香りが、部屋に広がる。
「……だが、彼の才能は、あまりにも激しく、 そして危険なものだった。 特に、彼が執着していた、『青』……。 あれは、もはや単なる色ではなかった。 彼は、ただ青色を使っていたのではない。 まるで、古代の錬金術師が 賢者けんじゃの石を探求するように、 彼は『青』そのものを発掘しようとしていたのです。 原初げんしょの青(ウール・ブルー)とでも言うべきか…… 虚無の色、深淵の色そのものをね」
教授の言葉は、俺が海斗かいとの作品や日記から 感じていた印象と、不気味なほど一致していた。
「……彼は、巴里パリで、その『青』を探求するために、 あらゆるものを吸収しようとしていました。 古い顔料の製法、 中世の神秘主義思想、 東洋の哲学…… 私の書斎にも、毎日のように 通い詰め、貪るように本を読んでいた。 その集中力と探求心は、 常軌を逸していましたよ」
「……その結果、彼は、 何かを見つけてしまった、ということでしょうか」 俺は尋ねた。
「見つけた、というよりは……」 教授は、パイプの煙をゆっくりと 吐き出しながら言った。 「……『青』の深淵に、 魅入られてしまった、と言うべきかもしれん。 彼は、その探求の過程で、 徐々に孤立し、精神の平衡を 失っていった。 周囲の評価や、現実の世界との間に、 深い溝ができていったのです。 彼の描く世界は、ますます深淵へと沈んでいき…… それは、もはや、常人が理解できる 領域を超えていた」
「……クロエChloéという女性の名前も、 手帖にはありましたが……」 俺は、思い切って尋ねてみた。
教授の目が、わずかに細められた。 「……クロエChloé嬢。 ええ、覚えておりますとも。 聡明で、才能のある学生でした。 そして……イツキに、献身的に尽くしていた。 おそらくは、彼を、深く……」 教授は、言葉を選んだ。 「……深く、想っていたのでしょう。 彼女は、彼の闇に、共に引きずり込まれそうになっていた。 危うい関係でしたよ」
やはり、クロエChloéという女性は、 海斗かいとにとって特別な存在だったのだ。 そして、彼女もまた、海斗かいとの「深淵」に 触れていたのかもしれない。
「……教授は、海斗かいとさんと、 何か……意見が対立したりすることは」
「……ありましたな」 教授は、苦々しげに頷いた。 「彼の芸術が、あまりにも危険な領域へと 踏み込もうとしているのを、私は感じていました。 それは、もはや芸術ではなく、 自己破壊的な儀式のように見えた。 私は、彼を止めようとした。 だが、彼は聞く耳を持たなかった。 彼は、私を、彼の『青』を理解できない俗物だと断じ、 私の元から去っていった……。 それが、彼と最後に交わした会話でしたな」
教授の声には、深い後悔の念が滲んでいた。 「……もっと強く、引き止めるべきだったのかもしれない。 あるいは、別の方法で、彼を救うことができたのかもしれない……。 だが、私には、できなかった」
その時、それまで黙って話を聞いていた澪が、 か細い、しかしはっきりとした声で尋ねた。
「……兄は……その時、どんな様子でしたか? 巴里パリを去る前の、兄は……」
教授は、驚いたように澪を見た。 そして、その表情には、深い憐憫れんびんの色が浮かんだ。 「……お嬢さん……君が、澪さんですな」
澪は、黙って頷いた。
「……そうか。 面影がある……」 教授は、目を細めて澪を見つめた。 「……お兄さんは……そう、最後に私の元を訪れた時、 彼は、まるで何かに追われているかのように、 ひどく怯えているように見えました。 しかし、同時に、何か途方もないものを 発見してしまったかのような、 異様な興奮状態にもあった。 『扉が開かれた』と、彼は言っていましたな。 そして、『もう、後戻りはできない』と……」
扉が開かれた。 海斗かいとの日記の最後の言葉と同じだ。 やはり、巴里パリでの経験が、彼の運命を決定づけたのだ。
「……彼は、一枚のスケッチを、 私に無理やり押し付けていきました」 教授は、書斎の奥の棚を指さした。 「『これが、鍵だ』と言ってね。 意味は、わからなかったが……。 そして、彼は嵐のように去っていった。 それが、私が彼を見た、最後でした」
教授は、ゆっくりと立ち上がり、 棚から一冊の古いファイルを取り出してきた。 そして、その中から一枚の、黄ばんだ紙を取り出し、 テーブルの上に置いた。
それは、海斗かいとの筆跡で描かれた、 一枚のスケッチだった。 そこには、あの「月と兎の紋様」と、 そして、調神社つきのみやじんじゃで見つけた、あの古い鍵の形が、 精密に描かれていた。 そして、その横には、フランス語で、 こう書き殴られていた。
『La clé ouvre la boîte où dort la vérité bleue. Chloé sait』 (鍵は、青き真実が眠る匣を開ける。 クロエChloéは、知っている)
俺と澪は、息を飲んだ。 鍵は、やはり、単なる鍵ではなかったのだ。 それは、「青き真実が眠る匣」を開けるための鍵。 そして、その鍵の使い方、あるいは匣の在処を、 クロエChloéという女性が知っている……?
「……これが、彼が最後に遺した、 メッセージなのでしょう」 教授は、静かに言った。 「私には、これ以上、関わることはできない。 あまりにも、危険すぎる。 だが、君たちには、知る権利があるのかもしれない……。 そして、知る覚悟が、あるのならば」
教授は、一枚のメモ用紙に、名前と電話番号らしきものを書き、 澪に差し出した。 「……これが、私が知る限りでの、クロエChloé嬢の、 最後の連絡先です。 今も、ここにいるかどうかは、わかりませんが……」
澪は、震える手で、そのメモを受け取った。
俺たちは、深く頭を下げ、教授の部屋を後にした。
外に出ると、巴里パリの空は、いつの間にか、 夕暮れの優しい光に包まれていた。 だが、俺たちの心は、新たに得た重い情報によって、 鉛色の雲に覆われているかのようだった。
クロエChloéという女性。 彼女が、全ての鍵を握っている。 俺たちは、彼女を探し出し、話を聞かなければならない。 それが、どんなに危険なことであっても。
過去の残響は、遠い異国の地で、 より大きく、そして不吉な響きをもって、 俺たちに迫ってきていた。

第21章 青の記憶

デュボワDubois教授から託された、 一枚のメモ。 そこに記された「クロエChloé・ルメール」という名前と、 古い連絡先。 それだけが、今の俺たちに残された、 唯一の希望の糸だった。
水瀬 海斗みなせ かいとが遺した巴里パリの手帖にも、 そして教授が託したスケッチにも、 彼女の名は、重要な鍵を握る人物として、 記されていたのだから。
だが、彼女を探し出すのは、 困難を極めた。
教授からもらった電話番号は、 やはり現在は使われておらず、 住所も古いものだった。
俺と水瀬 澪みなせ みおは、数日間、 巴里パリの街を歩き回った。 手帖に名前のあった サン=マルタン運河近くのアトリエ周辺を 聞き込んで回り、 海斗かいとが関わっていたかもしれない 小さな画廊を訪ね歩き、 美術学校の同窓会名簿のようなものが ないか、インターネットで検索を続けた。
だが、得られた情報は、ほとんどなかった。 クロエChloé・ルメールという画家は、 確かに数年前まで、 一部で注目される存在だったらしい。
海斗かいとと同じように、暗く、内省的で、 強い情念じょうねんを感じさせる作品を 描いていたという。 しかし、ある時期を境に、 まるで煙のように、巴里パリの美術界から 姿を消してしまったのだ、と。
それは、ちょうど海斗かいとが日本へ帰国し、 そして命を絶った時期と、 ほぼ重なっていた。
彼女もまた、海斗かいとの「深淵」に、 共に飲み込まれてしまったというのだろうか? あるいは、彼の遺した秘密から逃れるために、 自ら身を隠したのだろうか?
時間だけが過ぎていく。 焦りと疲労が、俺たちの心を 蝕んでいく。 巴里パリの街は、相変わらず美しく、 魅力的だったが、俺たちの目には、 どこまでも広がる、冷たく無関心な 迷宮のように映っていた。
諦めかけていた、そんな時だった。 相良さがらさんから、日本を発って以来、 初めてメールが届いたのだ。 彼もまた、独自の調査を 続けてくれていたらしい。 メールには、短く、こう書かれていた。
クロエChloé・ルメールの現在の住まいが、 おそらく判明した。 マレ地区の、古いアパルトマンだ。 ただし、彼女は極度に人との接触を 避けているらしい。 接触するなら、慎重に。 そして、決して無理はするな』
添付されていた住所を、 俺たちは地図アプリで確認した。 マレ地区。 貴族の館が残る、歴史的な地区でありながら、 同時に、現代アートのギャラリーや、 個性的なブティックが集まる、新旧が混じり合った、 魅力的なエリアだ。
俺たちは、すぐにメトロに乗り、 マレ地区へと向かった。 石畳の敷き詰められた、狭い路地を歩く。 古いが美しく手入れされた建物が並び、 窓辺には色とりどりの花が飾られている。 その、洗練された雰囲気の中に、彼女は 身を隠すようにして暮らしているというのか。
目的のアパルトマンは、 静かな広場に面していた。 広場の中央には、古い噴水があり、 その周りでは、数人の老人がチェスに興じ、 子供たちがボールを追いかけていた。 穏やかで、平和な光景。 だが、俺たちの心は、緊張で張り詰めていた。
アパルトマンの入り口で、インターホンを探す。 いくつかの名前が並ぶ中に、 「C. Lemerre」というプレートを見つけた。 間違いない。 俺は、深呼吸をして、ボタンを押した。
応答はない。 もう一度、押す。 やはり、応答はない。 留守なのだろうか? それとも、相良さがらさんの言う通り、 人との接触を避けているのだろうか。
諦めて帰ろうとした、その時だった。 背後で、カチャリ、と音を立てて、 アパルトマンの扉が開いたのだ。 中から現れたのは、買い物袋を提げた、 一人の女性だった。
年の頃は、三十代半ばだろうか。 無造作に束ねた赤みがかった髪、 少しそばかすの浮いた白い肌。 着ているのは、シンプルなジーンズと、 古びた革のジャケット。
そして、何よりも印象的だったのは、 その大きな、少しつり上がった、 緑色の瞳だった。 その瞳には、強い警戒心と、 そして、どこか疲れたような、 諦めにも似た色が浮かんでいた。
彼女は、俺たちの姿を認めると、 訝しげに眉をひそめた。
「……どちら様」 低い、ハスキーな声。 フランス語だった。
俺は、言葉に詰まった。 どう説明すればいい? だが、俺が何か言う前に、 隣にいた澪が、一歩前に出た。
「……クロエChloé・ルメールさん、ですね」 澪の声は、震えていたが、はっきりとしていた。 「私は……水瀬 澪みなせ みお、と申します。 イツキの……妹です」
その言葉を聞いた瞬間、 クロエChloéと名乗った女性の表情が、 劇的に変わった。 驚き、混乱、そして、何か別の、 もっと複雑な感情─── それは、痛みか、後悔か、 あるいは、古い傷に触れられたことへの 怒りか───が、 その緑色の瞳の中を駆け巡った。
彼女は、しばらくの間、 澪の顔を、そして俺の顔を、 食い入るように見つめていた。 そして、深いため息をつくと、 諦めたように言った。
「……そう。 あなたが……。 ……入りなさい」
彼女の声には、もはや警戒心ではなく、 深い疲労感が滲んでいた。
彼女の部屋は、建物の古さとは裏腹に、 驚くほどシンプルで、ミニマルな空間だった。 白い壁。 磨き込まれた木の床。 必要最低限の家具。 壁には、一枚だけ、彼女自身が 描いたと思われる、抽象的な風景画が 掛けられていた。
アトリエのような混沌としたエネルギーはない。 むしろ、全てを捨て去った後のような、 どこか虚無的な静けさが漂っていた。 油絵の匂いもしない。 彼女は、もう絵を描いていないのかもしれない。
クロエChloéは、俺たちに椅子を勧めるでもなく、 自分は窓際のソファに、 深く腰を下ろした。 そして、煙草に火をつけ、 紫煙をくゆらせながら、 改めて俺たちを見た。
「……何の用 今更、イツキの妹が、 私に何の用があるっていうの」 彼女の声は、荒んでいた。
澪は、彼女の前に静かに立ち、 そして、深々と頭を下げた。 「……突然、申し訳ありません。 ですが、どうしても、あなたにお聞きしたいことがあるんです。 兄のこと……そして、兄が巴里パリで、 何を見、何を遺したのか……」
クロエChloéは、紫煙の向こうから、 澪を値踏みするように見つめていた。 「……あなたには、関係ないことよ。 もう、終わったことなんだから」
「終わっていません」 澪の声が、珍しく語気を強めた。 「兄の死は、終わっていない。 そして、彼が遺したものは、今も…… 誰かを、そして私自身をも、 苦しめ続けているんです」
その切実な響きに、 クロエChloéの表情が、わずかに揺らいだように見えた。 彼女は、長い沈黙の後、もう一度、 深く煙草の煙を吸い込み、 そして、ゆっくりと吐き出した。
「……わかったわ。 少しだけなら、話してあげる」 彼女の声には、諦めのような響きがあった。 「でも、期待しないで。 私が知っていることなんて、断片的な記憶と、 悪夢の残骸だけなんだから……」
そして、彼女は、ぽつり、ぽつりと、 語り始めた。 水瀬 海斗みなせ かいとという、類い稀な才能を持った、 しかし同時に、破滅的なまでに純粋で、 危うい芸術家との、 巴里パリでの日々について。
彼女と海斗かいとが出会ったのは、 美術学校だったという。 最初から、互いの才能と、 そして魂の奥底に潜む 「闇」のようなものに、 強く惹かれ合ったのだ、と。
二人は、恋人であり、ライバルであり、 そして、共犯者のように、 共に芸術の深淵を 覗き込もうとしていた。
「……彼は、特別だった」 クロエChloéの声は、遠い過去を懐かしむように、 少しだけ和らいだ。 「彼の見る世界は、他の誰とも違っていた。 特に、『青』に対する執着は、 異常だったわ。 彼は、ただの色としてではなく、 存在そのものの根源、 あるいは、宇宙の真理のようなものとして、 青を捉えようとしていた。 古い文献を漁り、 錬金術のような方法で、 新しい顔料を自作しようとしたり……。 デュボワDubois教授は、その危うさに気づいて、 彼を止めようとしたけれど、彼は聞かなかった。 むしろ、教授を、 真理に到達できない凡庸な知性と、 見下すようになっていった……」
そして、ある時期から、海斗かいとの様子が、 明らかにおかしくなっていったのだという。
「……きっかけは、何だったのか、 今となっては正確にはわからない」 クロエChloéは、目を伏せた。 「古い書物で見つけた、 禁断の知識だったのか……。 あるいは、彼が自ら調合した、 あの特殊な『青』の顔料が、 彼の精神に影響を与えたのか……。 確かなのは、彼が、ある日を境に、 何かに 取り憑かれて しまった、ということよ」
海斗かいとは、自らをアトリエに閉じ込め、 昼夜を問わず、狂ったように絵を描き続けた。 そして、クロエChloéに、彼が見てしまったという 「世界の真実」─── それは、言葉にするのもおぞましいような、 虚無と悪意に満ちた光景だったという─── について、断片的に語るようになった。
「……彼は、その 真実 を、 一枚の絵に描き留めようとしていた。 それが、彼の最後の使命だと 信じていたから。 でも、同時に、その絵が持つ力に、 彼自身が恐怖していた。 『これは、呪いだ』と、彼は何度も言っていたわ。 『決して、人目に触れさせてはならない』と……」
クロエChloéは、そんな海斗かいとを、 必死に支えようとした。 彼の狂気に付き合い、 彼の言葉に耳を傾け、 時には、共に深淵を 覗き込もうとさえした。 だが、海斗かいとの闇は、あまりにも深く、 彼女の手に負えるものではなかった。
「……彼が、巴里パリを発つ前の晩のことを、 今でも覚えている」 クロエChloéの声が、震えた。 「彼は、私の前に、一つの小さな、 木製の匣を差し出したの。 『これを、君に預ける』と。 そして、『もし、俺に何かあったら…… もし、あの絵が、誰か悪意のある人間の手に 渡りそうになったら…… この鍵で、全てを終わらせてほしい』と……」
鍵? 俺は、ポケットの中の銀色の鍵を、 思わず握りしめた。 だが、クロエChloéが続けて語った言葉は、 俺の予想とは違っていた。
「……その匣の中に入っていたのは、 鍵ではなかった。 それは……彼が、あの『青』の顔料を作るために使っていた、 特殊な薬品の、小さな瓶だったのよ。 『これを使えば、あの絵は、 跡形もなく消え去るはずだ』と、 彼は言っていたわ……」
薬品の瓶……。 それが、「青き真実が眠る匣」の正体? そして、海斗かいとクロエChloéに託した「鍵」とは、 物理的な鍵ではなく、その薬品を使って、 いざという時に絵を破壊する、という 「役割」そのものだったのだろうか?
「……でも、私は、できなかった」 クロエChloéは、顔を覆った。 「彼が去った後、怖くなって…… その匣を、開けることもできずに、ずっと…… ずっと、このアトリエの隅に、隠したまま……」
彼女は、震える指で、部屋の隅にある、 埃をかぶった古い木箱を指さした。
俺と澪は、息を詰めて、その木箱を見つめた。 あれが……海斗かいとが遺した、最後の秘密……?
クロエChloéは、堰を切ったように、 嗚咽を漏らし始めた。 「……ごめんなさい……イツキ……ごめんなさい……」
アトリエの中には、彼女の慟哭と、 乾いた絵の具の匂いだけが、 重く、満ちていた。
巴里パリの空の下で、俺たちは、 また一つ、重く、そして哀しい 「青の記憶」に触れてしまったのだ。 そして、その記憶は、 俺たちが探していた答えであると同時に、 新たな、そしておそらくは、さらに危険な問いを、 俺たちに突きつけていた。

第22章 影、再び

クロエChloéのアトリエを後にした俺、 結城 櫂ゆうき かい水瀬 澪みなせ みおは、 言葉少な(すくな)に サン=マルタン運河沿いの道を歩いていた。
夕暮れが迫り、空は淡いオレンジ色から、 次第に深い紫へと その色合いを替え始めている。 運河の水面には、ガス灯の明かりや、 沿道のアパルトマンの窓の灯が映り込み、 揺らめいていた。 それは、息をのむほど美しい、 巴里パリならではの情景だった。
だが、俺たちの心は、 その美しさを受け止める余裕を 失っていた。
クロエChloéから語られた、 水瀬 海斗みなせ かいと巴里パリでの日々と、 彼が遺した「最後の絵」を 抹消まっしょうするための薬品が入った「匣」。 その事実は、あまりにも重く、そして哀しい 響きをもって、俺たちの胸にのしかかっていた。
海斗かいとは、自らが生み出した 「深淵」に恐怖し、 それを世界から抹消することを願ったのか。 それとも、クロエChloéという、 彼が信頼したであろう女性に、 その最終的な判断を 委ねたというのか。 そして、彼女はその重すぎる役割を、 五年以上もの間、 一人で抱え込んできたのだ。
「……あの匣……どうするべきなんでしょうね」 俺は、静かに隣を歩く澪に尋ねた。
澪は、立ち止まり、運河の水面を見つめた。 その瞳には、水面に映る街の灯のように、 様々な感情が揺らめいているように見えた。
「……わかりません」 彼女は、か細い声で答えた。 「兄が、本当に何を望んでいたのか……。 絵を消し去ることなのか、それとも…… あの匣自体が、 何か別の意味を持つのか……」
「別の意味」
「……兄は、よく……言葉の裏に、 別の意味を隠す人でしたから」 澪は、目を伏せた。 「あの薬品も……本当に、 絵を消すためだけのものなのか……」
彼女の言葉に、俺は新たな 疑念を覚えた。 確かに、海斗かいとの日記は、 暗喩と謎に満ちていた。 あの薬品にも、俺たちがまだ気づいていない、 別の役割があるというのだろうか?
俺たちは、再び歩き始めた。 だが、その時、俺はふと、背後に誰かの視線を 感じたような気がした。
振り返る。 運河沿いの道には、散策する人々や、 カフェのテラスで談笑する若者たちの 姿があるだけだ。 気のせいか……。
だが、その夜、アパルトマンに戻ってからも、 その感覚は消えなかった。 窓の外の、暗い路地の向こうから、 誰かがこちらを窺っているような、 そんな不穏な気配。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせようとしても、 一度芽生えた疑念は、なかなか消えてくれない。 以前の経験が、俺を過敏にさせているのかもしれない。 あるいは……。
翌日、そしてその次の日も、 俺たちは、巴里パリの街を歩きながら、 手帖に残された他の場所─── 海斗かいとがスケッチに残した風景や、 メモにあった古書店など───を訪ねてみた。
だが、それらは、彼の過去の断片を 感じさせるだけで、 核心に迫る手がかりとはならなかった。
むしろ、街を歩けば歩くほど、 誰かに見られているような感覚は、 強まっていくばかりだった。 カフェの窓に映る人影。 路地の角で、すれ違い様に感じた 鋭い視線。 メトロのホームで、妙に距離を詰めてくる男。 それらの一つ一つが、俺の神経を すり減らしていく。
俺は、その不安を澪に打ち明けた。 彼女は、静かに聞いていたが、 驚いた様子は見せなかった。 むしろ、その蒼い瞳には、「やはり」とでも 言いたげな、諦念にも似た色が 浮かんでいた。
「……兄も、そうでした」 彼女は、ぽつりと言った。 「巴里パリにいた頃から…… いえ、日本に帰ってきてからの方が、 もっと酷くなったかもしれません。 いつも、誰かに見られている、追われている、と……。 私は、最初、兄の精神が 不安定になっているせいだと 思っていました。 でも……もしかしたら……」
彼女の言葉は、俺の不安が、 単なる被害妄想ではない可能性を 示唆していた。 戸隠とがくしの影は、あるいは、 彼に繋がる何者かの影は、 確かに俺たちに迫ってきているのかもしれない。
俺は、日本にいる相良さがらさんに、 国際電話で状況を報告した。 クロエChloéと会えたこと、 彼女から「匣」を託されたこと、 そして、巴里パリで誰かにつけられているような 気配がすることを。
『……やはりか』 電話の向こうの相良さがらさんの声は、 切迫していた。 『今、俺の方にも、 厄介な情報が入ってきた。 戸隠とがくしが……本格的に 動き出したようだ。 彼奴には、巴里パリにも協力者がいるらしい。 おそらく、君たちの居場所も、 時間の問題で突き止められるぞ』
最悪の事態だった。 戸隠とがくしの追跡は、俺たちの予想以上に 早く、そして確実だったのだ。
『……すぐにそこを離れろ クロエChloéという女性も危険だ 戸隠とがくしは、彼女が何かを知っていることにも 気づいているはずだ』 相良さがらさんは続けた。 『俺が手配した安全な場所に、 一時的に身を隠すんだ。 詳細は、メールで送る。 いいな、絶対に、油断するなよ』
電話は、一方的に切れた。 俺は、スマートフォンの画面を見つめたまま、 立ち尽くした。 冷たい汗が、背中を伝う。
「……相良さがらさん、なんて」 隣で、澪が不安そうな顔で尋ねてきた。
「……戸隠とがくしが、すぐそこまで迫っている、と……。 すぐに、ここを離れろ、と」
俺たちは、顔を見合わせた。 巴里パリの美しい街並みは、 もはや安全な場所ではなかった。 それは、見えない敵意と、 悪意に満ちた罠が張り巡らされた、 危険な迷宮へと姿を変えていたのだ。
「……クロエChloéさんの、アトリエに行きましょう」 澪が、静かに、しかし強い口調で言った。
「え でも、危険だって……」
「だからこそ、です」 澪の瞳には、迷いのない光が 宿っていた。 「あの匣……兄が遺したものを、 彼女だけに任せておくわけにはいかない。 それに……もしかしたら、あの匣こそが、 戸隠とがくしを止めるための、 あるいは、兄の本当の願いを知るための、 鍵 なのかもしれないから」
彼女の言葉には、説得力があった。 俺たちがやるべきことは、逃げることではない。 真実と向き合い、そして、戦うことなのだ。
俺たちは、アパートの部屋を出た。 今度は、逃げるためではない。 クロエChloéの元へ行き、 海斗かいとが遺した「匣」を受け取り、 そして、迫り来る影と対峙するために。
だが、クロエChloéのアトリエがあるという 裏路地へ差しかかった時、 俺たちは、信じられない光景を目にした。
アトリエの古びた鉄の扉が、 力ずくでこじ開けられ、 中が荒らされているのだ。 床には、絵の具のチューブや、 キャンバスの破片が散乱している。
クロエChloéさん」 澪が叫び、アトリエの中へと駆け込む。 俺も慌てて後を追った。
アトリエの中は、めちゃくちゃに破壊されていた。 イーゼルは倒れ、描きかけのキャンバスは 引き裂かれ、壁に貼られていたデッサンも、 無残に破り捨てられている。 そして、部屋の隅にあったはずの、 あの古い木箱─── 海斗かいとが遺した「匣」───が、 消え失せていたのだ。
「……嘘……」 澪が、その場に崩れ落ちそうになるのを、 俺は咄嗟に支えた。
戸隠とがくし、あるいはその協力者が、 俺たちより先に、ここに 辿り着いてしまったというのか? そして、クロエChloéは? 彼女は、無事なのだろうか?
部屋の中を見渡すが、彼女の姿はない。 争ったような形跡もない。 ただ、床の上に、一枚の、 折り畳まれたメモ用紙が落ちているのを、 俺は見つけた。
拾い上げて開いてみる。 そこには、震えるような筆跡で、 こう書かれていた。
『追われている。 匣は持って逃げる。 あなたたちも、気をつけて。 彼らは、知っている…… 源泉 の場所を……。 C』
源泉 ……? それは、海斗かいと巴里パリの地下で見つけたという、 あの「青」の根源のことか? クロエChloéは、その場所を知っていて、 そして、戸隠とがくしたちもまた、その場所を……?
俺たちは、顔を見合わせた。 状況は、俺たちの想像を超えて、 さらに悪化していたのだ。 戸隠とがくしの狙いは、もはや「匣」だけではないのかもしれない。 海斗かいとが見つけた、 「深淵の源泉」そのものなのかもしれない。
巴里パリの空には、いつの間にか、 再び厚い雲が垂れ込め始めていた。 それは、これから始まるであろう、 新たな嵐の訪れを、 告げているかのようだった。
影は、すぐそこまで迫っていた。

第23章 深淵の源泉

クロエChloéが残した、走り書きのメモ。 『追われている。 匣は持って逃げる。 あなたたちも、気をつけて。 彼らは、知っている…… 源泉 の場所を……。 C』。
その短い言葉が、俺たちの置かれた状況の 危うさを、何よりも雄弁に 物語っていた。
戸隠とがくし、あるいはその協力者は、 クロエChloéの存在を突き止め、 彼女が水瀬 海斗みなせ かいとの秘密の鍵を 握っていると確信したのだろう。 そして、彼女が持っていた「匣」を狙って アトリエを襲撃した。
だが、クロエChloéは、間一髪かんいっぱつでそこを逃れ、 しかも、海斗かいと巴里パリで見つけたという 「深淵の源泉」の場所を、 敵もまた知っている、と警告してくれたのだ。
「源泉 …… 海斗かいとの手帖にあった、 あの Ca R R i è R e …… 地下の採石場さいせきじょうのことだろうか」 俺は呟いた。
「兄は……時々、一人で、 どこか暗い場所へ出かけていくことがありました」 澪が、記憶を探るように言った。 「『色を探しに行く』とだけ……。 あの頃の兄は、既に、 この地下の秘密に気づいていたのかもしれない……」
相良さがらさんに、緊急の連絡を入れる。 状況を説明すると、 彼の声もまた、極度の緊張を帯びた。
『……やはり、知っていたか、奴らも……』 相良さがらさんは呻いた。 『海斗かいと君の巴里パリでの行動は、 当時から一部で噂になっていたらしい。 彼が特殊な顔料、 あるいは未知の物質を探して、 カタコンブ (地下採石場跡)の 立ち入り禁止区域に潜り込んでいる、と……。 戸隠とがくしのような連中が、 その情報を見逃すはずがない』
クロエChloéさんは……大丈夫でしょうか」 澪が、不安そうに尋ねた。
『……わからん。 だが、彼女も馬鹿じゃない。 うまく逃れていてくれればいいが……。 それよりも、君たちだ その 源泉 とやらに、 戸隠とがくしより先に辿り着かなければ、 全てが奴の思う壺だ 海斗かいと君が、何を恐れ、 何を遺そうとしたのか…… それを確かめ、そして、必要なら、 君たちの手で、 決着をつけなければならない』
相良さがらさんの言葉は、 俺たちの覚悟を促していた。
俺たちは、海斗かいとの手帖にあった、 あの不可解な図形と、座標ざひょうのような数字、 そしてクロエChloéが残したメモを頼りに、 急いでその場所へと向かうことにした。
相良さがらさんが、以前と同じように、 信頼できるという地下案内人 (別の人物だった)を、 即座に手配してくれた。
俺たちは、夜を待たず、人目を忍んで、 巴里パリの地下へと広がる、 巨大な迷宮への入り口へと 向かった。
案内人に連れられて足を踏み入れた カタコンブの奥は、 まさに海斗かいとが記した通り、 「月の光さえ届かぬ場所」だった。
ひんやりとした、湿った空気が漂い、 壁からは水滴が絶えず滴り落ち、 ポタ、ポタ、という音が、 不気味に反響している。
空気には、黴と、古い土と、 そして、どこか甘ったるいような、 死の匂いにも似たものが混じっていた。
道は、迷宮のように入り組んでいた。 案内人の持つ古い地図と、 彼の経験だけが頼りだ。
壁には、何層にも積み重ねられた、 無数の人骨じんこつが並んでいる。 髑髏どくろが、暗い眼窩がんかで、 俺たち侵入者を見つめているかのようだ。 その光景は、荘厳そうごんであると同時に、 圧倒的な死の存在感をもって、 俺たちに迫ってきた。
海斗かいとは、こんな場所で、 一体何を探していたというのだろう?
「……着いたぞ」
どのくらい歩いただろうか。 案内人が、足を止め、 低い声で言った。 そこは、少しだけ開けた、 広間のようになっていた。
中央には、小さな祭壇さいだんのようなものが 設えられ、壁には、奇妙な記号や、 宗教的な壁画へきがのようなものが、 微かに残っている。
そして、その空間の空気は、 他の場所とは明らかに違っていた。 異常なほどの静寂。 そして、肌を刺すような、冷気。
「……ここだ」 澪が、震える声で呟いた。
彼女の指さす方向を見ると、 祭壇の奥の壁に、一つの、 比較的新しいと思われる木の扉が 取り付けられていた。
そして、その扉には…… あの、海斗かいとの手帖に描かれていた、 「月と兎の紋様」と、 そして、俺が見つけた古い鍵の 持ち手の模様 (吽形うんぎょうの兎)とが、 組み合わされたような、複雑な紋章もんしょうが、 深く刻み込まれていたのだ。
間違いない。 ここが、海斗かいとが最後に辿り着いた場所。 「深淵への扉」だ。
俺は、ポケットから、あの銀色の鍵を 取り出した。 案内人も、相良さがらさん(電話の向こうだが)も、 そして澪も、息を詰めて 俺の手元を見守っている。
震える手で、鍵を、扉に穿たれた鍵穴 (それは、紋章の一部に 巧妙に隠されていた)へと差し込む。
そして、ゆっくりと、回した。
ギ……ギギ……。
重い、軋むような音がして、鍵が回った。 そして、ゴトン、という鈍い音と共に、 扉の錠が外れる感触が 伝わってきた。
扉は、開かれたのだ。 海斗かいとの最後の言葉の通りに。
扉の向こうには、さらに下へと続く、 暗い階段があった。 そこからは、先ほどよりもさらに強く、 冷たく、そして甘ったるいような、 異様な空気が漂ってくる。
そして……微かに、あの「青」の気配が 感じられるような気がした。 海斗かいとが追い求めた、虚無の色、 深淵の色。
「……行くぞ」
俺は、唾を飲み込み、覚悟を決めた。 澪も、相良さがらさん(電話の向こうで)も、 そして案内人も、無言で頷く。
俺たちは、一人ずつ、その暗い階段を、 ゆっくりと下り始めた。 一歩、また一歩と、深淵の源泉へと、 近づいていく。
この先に、何が待ち受けているのか、 まだわからない。 だが、もう、引き返すことはできないのだ。

第24章 対決

カチリ、という乾いた音と共に、 古代の石扉はその重い口を開いた。
俺、結城 櫂ゆうき かいと、水瀬 澪みなせ みお相良 涼平さがら りょうへいさん、そして無口なガイドの男は、 息を詰めて、扉の向こうに広がる 闇を見つめていた。
そこからは、ひんやりとした、 しかし単なる地下の冷気とは違う、 もっと深く、もっと濃密な、 そして形容けいようしがたいほどに奇妙な─── 甘く、それでいて金属的でもあるような─── 空気が、淀んだ霧のように流れ出してきていた。
そして、その空気の中に、微かに、 あの「青」の気配が感じられるのだ。 海斗かいとが追い求めた、魂を蝕む「青」の。
「……行くぞ」 先導するガイドが、緊張を隠せない 声で言った。 彼は、額のヘッドライトを点灯させ、 先に、暗闇へと続く石段を 下り始めた。
俺たちも、それに続く。 相良さがらさんが澪の腕を支え、 俺はそのすぐ後ろから、懐中電灯で 足元を照らす。
階段は、螺旋状に、 地下深くへと続いていた。 壁は、湿った粘土ねんどと、 粗く削られた岩肌が剥き出しになっている。
空気は、下へ行けば行くほど、 冷たく、重くなっていく。 そして、あの奇妙な匂いも、 次第に強まっていくようだった。 まるで、地球の奥底、 あるいは、太古の記憶へと、 降りていくかのような感覚。
どのくらい下っただろうか。 ようやく階段は終わり、 俺たちは、少し開けた空間へと 足を踏み入れた。
そこは、自然にできた洞窟のようでもあり、 また、人の手によって拡張された 地下室のようでもあった。 天井は低く、岩肌が ゴツゴツと剥き出しになっている。 地面は、湿った土のままだった。
そして、その空間の中央に、 俺たちは、信じられないような光景を 目にした。
壁の一部が、まるで鉱脈こうみゃくのように、 淡く、しかし妖しく、 青い光を放っていたのだ。
それは、絵の具の青ではない。 もっと自然で、もっと根源的な、 鉱石こうせきか、あるいは未知の物質が発するような、 内側から滲み出るような光だった。
その青は、深い藍色から、 鮮烈な瑠璃色、 そして時には、紫色を帯びたような 複雑な色合いを見せ、 まるで呼吸をするかのように、 ゆっくりと明滅めいめつしている。
美しい、と一瞬思った。 だが、すぐに、その美しさの奥に潜む、 底知れないほどの冷たさと、 人の心を惑わすような危険な魅力を 感じ取り、背筋が凍る思いがした。
「……これか……」 相良さがらさんが、呻くように言った。 「海斗かいと君が……取り憑かれた、 『青』の源泉は……」
この場所こそが、 海斗かいと巴里パリの地下で見つけ出した、 彼の芸術と狂気の根源。 そして、彼が「深淵への扉」と 呼んだものの正体だったのだ。
壁際には、彼が使っていたのであろう、 古いイーゼルや、石臼いしうすのようなもの、 そして、砕かれた青い鉱石の欠片のようなものが 散乱していた。
壁には、木炭で描かれた、 夥しい数のスケッチが残されている。 それは、彼の日記にあったものよりも、 さらに激しく、抽象的で、 見る者の精神を直接揺さぶるような、 狂気に満ちたイメージの奔流だった。 歪んだ月、叫ぶ兎、 溶解する風景、 そして、あの発光する「青」そのものを、 繰り返し、繰り返し描いている。
「……兄さん……」
澪が、か細い声で呟いた。 彼女は、兄が遺した狂気の痕跡を 目の当たりにし、その場で立ち尽くしていた。 その瞳には、深い悲しみと、 そして、兄の苦悩をようやく理解したかのような、 痛切な表情が浮かんでいた。
俺は、彼女のそばに寄り添い、 そっとその肩に手を置いた。 彼女は、振り払うことはなかったが、 その体は、小刻みに震えていた。
ガイドの男は、この異様な光景に 完全に気圧されたのか、顔面蒼白になり、 入口の階段の方を気にしている。
相良さがらさんは、壁に残されたスケッチや、 散乱した道具を、険しい表情で調べていた。 「……やはり、彼はここで、 この『青』を使って、あの絵を描いていたんだ……。 だが、絵そのものは、ここにはない……。 どこへやったんだ……」
その時だった。
俺たちの背後、降りてきた階段の 上の方から、カツン、と石を踏む音が 響いた。
全員が、弾かれたようにそちらを 振り返った。
暗い階段の闇の中から、 一つの人影が、ゆっくりと姿を現した。 その手には、金属製の懐中電灯が握られ、 その光が、俺たちの顔を、 そしてこの異様な空間を、 無遠慮に照らし出した。
「……見つけたぞ。 ようやく、な」
その声は、紛れもなく、 戸隠 譲とがくし じょうのものだった。 彼の顔には、獲物を追い詰めた狩人のような、 獰猛どうもうで、そして歪んだ喜びの表情が 浮かんでいた。
ガイドの男の姿は、見えない。 おそらく、戸隠とがくしによって、 既に排除されたのだろう。
「……素晴らしい。 これが、あの水瀬 海斗みなせ かいとを狂わせた、 『青』の源泉か……」 戸隠とがくしは、感嘆かんたんするように呟きながら、 ゆっくりと階段を下りてきた。 「そして、お前たちは、 その秘密を解き明かすための、 鍵 を持ってきた、というわけだ」
彼の視線が、俺が持っているはずの (今はジャケットの内ポケットにある) 海斗かいと巴里パリの手帖と、 そして、俺たちが調神社つきのみやじんじゃで見つけた 古い鍵 (それは今、相良さがらさんが預かっていた)に 向けられているのがわかった。
「さあ、渡してもらおうか」 戸隠とがくしは、俺たちの前に立ちはだかり、 懐中電灯を、まるで銃口のように向けた。 「その手帖と、鍵を。 そして……あの 最後の絵 の在処もな。 この場所の秘密を解き明かせば、 必ずわかるはずだ」
「……貴様……」 相良さがらさんが、憎々しげに 戸隠とがくしを睨みつけた。 「やはり、追ってきていたか」
「当たり前だろう」 戸隠とがくしは、肩をすくめた。 「お前たちが、みすみす宝の山を 独り占めするのを、 指をくわえて見ているとでも思ったか? 特に、相良さがら…… お前には、五年前の『借り』もあるしな」
「……何……」 相良さがらさんの表情が、わずかに変わった。
「とぼけるなよ」 戸隠とがくしは、意地悪く笑った。 「お前も、海斗かいとの才能を利用しようと していたじゃないか。 俺と同じようにな。 ただ、お前は臆病だったから、 途中で手を引いただけだ。 そして、海斗かいとを見殺しにした……違うか」
「黙れ」 相良さがらさんが叫び、 戸隠とがくしに掴みかかろうとした。 だが、戸隠とがくしは、それを読んでいたかのように、 素早く懐中電灯を振り上げ、 相良さがらさんの腕をしたたかに打ち据えた。
「ぐあっ」 相良さがらさんが、短い悲鳴を上げて 腕を押さえる。 懐中電灯が、カラン、と音を立てて 床に転がった。
相良さがらさん」 俺は叫び、相良さがらさんを庇うように 前に出た。
「おっと、動くなよ、お坊ちゃん」 戸隠とがくしは、今度は俺に狙いを定め、 懐中電灯 (武器として使っている方)を 突きつけてきた。 「次はお前だ。 素直に、海斗かいとの手帖と鍵を渡せ。 さもないと……そこの美しい妹さんの顔に、 一生消えない傷がつくことになるかもしれんぞ」
その卑劣ひれつな脅しに、俺の中の怒りが、 再び沸点に達した。 だが、同時に、恐怖も感じていた。 この男は、本気でやる気だ。
俺は、澪の方を見た。 彼女は、俺の後ろで、 唇を固く結び、戸隠とがくしを、 強い憎しみのこもった目で見つめていた。 その瞳には、もはや涙も、恐怖もなかった。 ただ、静かに燃える、蒼い炎のような、 激しい感情だけが宿っている。
「……あなたなんかに、兄の遺したものも、 私の心も、絶対に渡さない……」 澪が、はっきりとした声で言った。
「ほう、威勢がいいじゃないか」 戸隠とがくしは、面白そうに言った。 「だが、状況がわかっていないようだな。 お前たちに、逃げ場はないんだぞ」
彼は、ゆっくりと距離を詰めてくる。 俺は、内ポケットの日記と、 相良さがらさんが落とした懐中電灯 (明かり用の方)に、 意識を集中させる。 何か、反撃の糸口はないか……?
その時だった。
「……触れるな」
澪の声が、低く、 しかし空間全体を震わせるかのように、 響き渡った。 彼女は、俺の前に進み出て、 戸隠とがくしと、そしてその後ろにある、 青く発光する壁とを、交互に見つめていた。
「……その『青』に、これ以上、触れてはいけない……」
彼女の瞳が、 まるで壁の鉱石と共鳴するかのように、 妖しく、深く、蒼く輝き始めたのを、 俺は見た。
「……何を……」 戸隠とがくしが、いぶかしげに眉をひそめる。
「それは、ただの色じゃない……」 澪の声は、まるで神託しんたくのように響いた。 「それは、深淵そのもの……。 覗き込んだ者を、狂わせ、 破滅させる……。 兄のように……そして、あなたも……」
彼女がそう言った瞬間、 青く発光していた壁の光が、 一瞬、強く脈打った。 そして、洞窟全体の空気が、 急激に冷え込み、濃密なプレッシャーが、 俺たちを包み込んだのだ。
「……な、なんだ……これは……」 戸隠とがくしが、狼狽したように叫ぶ。
俺も、相良さがらさんも、そして澪も、 目の前で起きている、 信じられないような現象に、 ただ立ち尽くすしかなかった。
深淵への扉は、完全に開かれた。 そして、その奥から溢れ出す奔流が、 今、俺たち全てを、 飲み込もうとしていたのだ。

第25章 奔流の果て / 影を喰らう月

「……触れるな」
水瀬 澪みなせ みおの、低く、 しかし空間全体を震わせるかのような声が 響き渡った。
「……その『青』に、これ以上、触れてはいけない……」
彼女の瞳が、 まるで壁の鉱石と共鳴するかのように、 妖しく、深く、蒼く輝き始めた。 壁の青い光もまた、 呼応するように一層強く脈打ち、 洞窟全体の空気が急激に 冷え込み、濃密なプレッシャーが 俺たちを包み込む。
「……な、なんだ……これは……」 戸隠 譲とがくし じょうが、狼狽したように叫ぶ。
「それは、ただの色じゃない……」 澪の声は、まるで神託のように響いた。 「それは、深淵そのもの……。 覗き込んだ者を、狂わせ、 破滅させる……。 兄のように……そして、あなたも……」
彼女がそう言った瞬間、 青い光は、まるで生きているかのように、 戸隠とがくしの方へと、ゆっくりと伸びていったのだ。
「……ひ……ひぃぃぃっ」
戸隠とがくしは、その青い光に触れるのを 恐れるかのように、後ずさった。 だが、光は、彼の足元に絡みつき、 彼の影を、まるで実体があるかのように、 壁面へと引きずり込もうとしている。
「や……やめろ…… 離せ これは、俺のものだ この『青』は……」
戸隠とがくしは、恐慌状態に陥り、 意味不明な言葉を叫びながら、 自らの影から逃れようと、必死にもがいた。 だが、青い光は、ますます強く、 彼の全身を包み込んでいく。
「……『影を喰らう月』……」 澪が、静かに呟いた。 兄が、あの絵につけたタイトル。 それは、この場所の、この「青」の、 本質そのものを、言い表していたのかもしれない。 「……あなたの影も、もう、終わり」
戸隠とがくしの叫び声が、 甲高く響き渡った。 彼は、目を見開き、口を大きく開け、 まるで魂が引き抜かれるかのような、 凄絶せいぜつな表情を浮かべていた。 そして……。
ふっ、と、彼の体の力が抜け、 糸が切れた人形のように、 その場に崩れ落ちた。
目は虚ろに宙を見つめ、 口からは、意味のない泡のようなものが 漏れている。 彼は、生きてはいるようだが、 その精神は、完全に破壊されてしまったかのようだった。 あの「青」の深淵に、彼の歪んだ欲望と 「影」が、喰われてしまったのだ。
青い光は、ゆっくりと壁の中へと 収束しゅうそくしていき、洞窟の中には、再び、 元の、薄暗い静寂が戻ってきた。
だが、その静寂は、先ほどまでの 張り詰めたものとは違い、どこか、解放されたような、 穏やかな空気を帯びているように感じられた。
俺と相良さがらさんは、呆然と、 その場に立ち尽くしていた。 目の前で起こった、あまりにも異様で、 そして圧倒的な出来事を、 まだ完全には理解できずにいた。
澪は、壁に手を触れたまま、静かに立っていた。 彼女の体からは、先ほどまでの、 人を寄せ付けないような鋭いオーラは消え、 代わりに、深い疲労と、 そして、何か大きな役割を終えたかのような、 静かな安堵感が漂っていた。
「……終わったんですね」 俺は、ようやく声を絞り出した。
澪は、ゆっくりと振り返り、俺を見て、 そして、小さく頷いた。 「……ええ。 兄の……呪いも、これで……」
その時、相良さがらさんが、 壁際に倒れている戸隠とがくしに近づき、 その状態を確認した。 「……生きている。 だが……まともじゃないな。 完全に、壊れてしまったようだ」
「……どうしますか、彼を」
「……ここに、置いていくしかないだろう」 相良さがらさんは、苦々しげに言った。 「自業自得じごうじとくだ。 いずれ、誰かが見つけるだろう。 俺たちが、ここにいた痕跡は、 残さない方がいい」
俺も頷いた。 戸隠とがくしは、もはや脅威ではない。 彼自身の闇が、彼を滅ぼしたのだ。
俺たちは、次に、あの青く発光していた壁に 向き合った。 光は、今はもう、以前のような 禍々まがまがしい輝きではなく、ただ、静かに、深く、 洞窟の奥底で明滅しているだけだった。
だが、それでも、この場所が、依然として 危険な力を持っていることに変わりはない。
「……この場所は、封印しなければなりませんね」 澪が言った。 「兄がそうしたように。 二度と、誰も、この『青』に 触れることがないように」
彼女は、壁のそばに落ちていた、 海斗かいとが使っていたと思われる石臼の 破片や、道具類を拾い集め始めた。
そして、俺たちが最初に開けた、 あの扉へと向かう。 扉には、複雑な紋章と共に、 もう一つ、別の鍵穴のような窪みがあった。
「……兄の日記に、この扉を閉じる方法も、 暗示されていたような気がします」 澪は、呟くように言った。 「あの鍵と……そして、ここにある『石』を使って……」
彼女は、俺が持っていた銀色の鍵と、 拾い集めた青い鉱石の欠片の一つを、 その窪みに、まるでパズルを組み合わせるかのように、 慎重にはめ込んでいった。
そして、最後に、ある特定の位置で鍵を回すと、 ゴゴゴ……という、地響じひびきのような音と共に、 扉の奥から、分厚い石の壁が、 ゆっくりと降りてきたのだ。
それは、この深淵への入り口を、 完全に塞ぐための、 古代の仕掛けのようなものだったのかもしれない。 石壁が完全に降りきると、 洞窟の中は、完全な闇と静寂に 包まれた。 あの禍々しい青い光も、気配も、 もう感じられない。
「……終わった……」 相良さがらさんが、深いため息をついた。
俺たちは、互いに顔を見合わせた。 疲労と、安堵と、そして、言葉にならない 様々な感情が、入り混じっていた。
海斗かいとの「最後の絵」そのものは、見つからなかった。 おそらく、それは、別の場所に、 今も隠されているのだろう。 だが、その絵を生み出した根源となる「深淵」は、 今、再び、固く閉ざされたのだ。
俺たちは、最後に、精神が崩壊した 戸隠とがくしを一瞥し、そして、 この忌まわしい場所を後にすることにした。
狭く、暗い石段を、今度は、 地上へと向かって昇っていく。 背後で、永遠に閉ざされた 「深淵」の気配を感じながら。
地上へと続く、あの古い教会の 地下室へと戻ってきた時、 窓からは、すでに朝の光が 差し込み始めていた。
外の空気は、ひんやりと澄み渡り、 小鳥のさえずりが聞こえる。 あの地下での出来事が、 まるで悪夢だったかのように感じられた。
だが、それは、決して夢ではなかった。 俺たちの手には、まだ海斗かいとの日記が握られ、 服には地下の埃と湿った土の匂いが 染み付いている。 そして、俺たちの心には、 あの「青」の記憶と、砕け散った静寂の破片が、 深く、深く刻み込まれていた。
ガイドの男の姿は、どこにもなかった。 相良さがらさんが手配した報酬だけが、 入口の隅に置かれていた。 彼は、おそらく、昨夜の異変に気づき、 自分の身を守るために、 早々に立ち去ったのだろう。
俺たちは、誰とも言葉を交わさず、 教会の外へ出た。 巴里パリの街は、朝の光の中で、 何事もなかったかのように、目覚め始めていた。 石畳の道、プラタナスの並木、 セーヌ川の穏やかな流れ……。 その、あまりにも日常的な風景が、今は、 奇跡のように美しく、 そして尊いものに感じられた。
奔流は、過ぎ去ったのだ。 その果てに、俺たちは立っている。 深い傷を負いながらも、確かに、生きている。
相良さがらさんが、近くに停めていた車 (おそらく、彼が別に手配したものだろう)に、 俺たちを促した。 俺は、静かに頷き、 隣に立つ澪の肩を、そっと支えた。 彼女は、俺に体を預けるように、 少しだけ寄りかかってきた。 その微かな重みが、今の俺には、 何よりも確かな、 生きている証のように感じられた。
車は、朝の光の中を、 ゆっくりと走り出した。 夜明けの光が、窓ガラスを 金色に染めていく。 その色彩は、俺たちが対峙してきた、 あの深淵の「青」とは、全く違う、 穏やかで、温かい色をしていた。
本当の「夜明け」が、ようやく、 訪れようとしていたのかもしれない。

第26章 夜明けの色彩

あの巴里パリの地下深く、カタコンブの奥での 出来事から、 一年半以上の歳月が流れた。
季節は再び巡り、 武蔵野の木々が鮮やかな緑に輝く、 穏やかな初夏が訪れていた。
俺、結城 櫂ゆうき かいは、 小平市にある自宅アパートの窓辺で、 ノートパソコンに向かっていた。 だが、指はキーボードの上ではなく、 膝の上で組まれたまま、 ゆっくりと流れる玉川上水の 水面を眺めていた。
一年という時間は、長いようで、短い。 あの夜の出来事は、 まるで昨日のことのようにも、 あるいは、遠い昔の悪夢のようにも 感じられた。
俺の生活は、あの出来事を境に、 大きく、しかし静かに変化した。 図書館のアルバイトは続けているが、 それだけではない。 あの灯台守の物語─── 『水面の月』と題したその小説は、 紆余曲折うよきょくせつを経て、数ヶ月前に 小さな出版社から本になったのだ。
大きな反響があったわけではない。 だが、いくつかの書評で、 「静謐な孤独と、 その奥にある仄かな光を描き出した、 稀有な作品」といった評価を 得ることができた。
何よりも、俺自身が、 あの混乱と苦悩の中から、 一つの「形」を生み出すことができたという事実が、 大きな支えとなっていた。 俺の内なる「熱」は、 もはや制御不能な奔流ではなく、 静かに、しかし確実に、 言葉を紡ぎ出すための「熾火」となっていたのだ。
そして、水瀬 澪みなせ みおは……。
彼女もまた、自身のペースで、 ゆっくりと、だが確実に、「夜明け」へと 歩みを進めていた。
巴里パリから帰国した後、 しばらくは相良さがらさんの用意した別の 隠れ家で療養していたが、やがて、 俺のアパートからさほど遠くない、 小平市内の静かな場所に、 小さな部屋を借りて暮らし始めた。
彼女の纏う ブルー のオーラが 消えたわけではない。 その瞳の奥には、今も、 あの深淵を覗き込んだ者だけが持つ、 深い翳りが宿っている。 兄・海斗かいとの記憶も、 あの「最後の絵」 (結局、俺たちはそれを見ることはなかったが、 その存在と意味だけは知ってしまった)も、 決して消え去ることはないだろう。
だが、彼女は、もはやその過去に 囚われてはいなかった。 氷の壁は溶け、 砕け散った静寂の後には、 傷つきながらも、しなやかに現実を 受け止めようとする、新たな強さが 生まれていた。
彼女は、時折、スケッチブックを片手に、 近所の公園や、 玉川上水沿いを散策している姿を 見かけるようになった。 何を描いているのか、俺は尋ねたことはない。 だが、その横顔には、以前のような 張り詰めたものはなく、むしろ、 世界のやかな美しさを、 一つ一つ慈しむかのような、 穏やかな表情が浮かんでいることが多かった。
俺たちは、今も、時々 カフェ「月読」で会うのが習慣になっていた。 あの場所は、俺たちの物語が 始まった場所であり、そして、多くの苦悩と、 やかな希望が交錯した場所だからだ。
今日も、午後の柔らかな光が 差し込む店内で、 俺たちはいつものカウンター席に並んで座り、 コーヒーを飲んでいた。
店内に流れるのは、ドビュッシーの「月の光」。 その、どこか物憂げで、しかし透明感のある ピアノの旋律が、今の俺たちの関係性を 象徴しているかのようだった。
「……この曲を聴くと、巴里パリを思い出しますね」 澪が、ぽつりと言った。
「ええ」 俺も頷いた。 「モンマルトルの、あの坂道の途中にあった 小さなカフェ。 覚えていますか? 雨宿りに入ったら、この曲が流れていて……」
「……窓の外の石畳が、 雨に濡れて光っていた……」 澪は、目を細めて、遠い記憶を 辿るように言った。 「あの時、丘の上に見えた白い寺院……」
サクレ・クール寺院。 巴里パリを見下ろす丘の上に、 白亜はくあの殿堂が、雨上がりの空に 浮かび上がるように輝いていた光景。 あの美しさとは裏腹に、俺たちの心は、 戸隠とがくしの影と、カタコンブへの不安で、 重く沈んでいた。
巴里パリでの記憶は、今となっては、 まるで夢の中の出来事のようだ。 狂おしいほど美しい街並みと、 その裏に潜む深い闇。 セーヌ川のほとりで、夕陽に染まる ノートルダム寺院 (その痛々しい修復中の姿も 含めて)を眺めながら感じた、 歴史の重みと、人の営みの儚さ。 シテ島の、古い石畳の道を歩きながら、 海斗かいとがこの街で感じていたであろう 孤独に思いを馳せたこと。
「……凱旋門の上から見た景色も、 忘れられないな」 俺は言った。 「放射状に伸びる道と、 びっしりと建ち並ぶアパルトマン。 あの圧倒的な光景の中にいると、 自分がひどく矮小に感じられた。 でも、同時に、何か、 大きな物語の一部になったような 気もしたんだ」
広場に集う人々、陽気な大道芸、 セーヌ川沿いで熱心に風景画を 描いていた画家たち……。 きらびやかで、活気に満ちた巴里パリの日常。 ムーラン・ルージュの赤い風車が回る、 猥雑で、しかし生命力に溢れた 夜の歓楽街。 シェイクスピア・アンド・カンパニーのような、 本の森に迷い込んだかのような古書店。
それらの鮮烈な記憶は、 俺たちが経験した、暗く、重い出来事と、 奇妙なコントラストを成して、 心に刻まれている。
「……あの時、ルーブルの近くの 版画屋さんで見た、北斎の絵……」 澪が、静かに言った。
「ああ、『葛飾 北斎かつしか ほくさい 神奈川沖浪裏かながわおきなみうら』……」 俺も思い出す。 あの、全てを呑み込もうとするかのような、 巨大な波。 その圧倒的な迫力と、 その奥にある深い「青」に、俺たちは、 海斗かいとが描こうとした「深淵」の、 別の形を見たような気がしたのだ。 「……自然の力も、人の心の闇も、 時には、ああいう途方もない力で、 俺たちに襲いかかってくるのかもしれないな」
そして、兎。 調神社つきのみやじんじゃの、あの不思議な石像。 巴里パリの街角で、偶然見つけた兎のレリーフ。 海斗かいとの手帖に繰り返し描かれた、 狂ったような兎のスケッチ。 それは、俺たちの旅を通して、 まるで謎めいた道標のように、 常にそばにあった。 それは、月の使いか、深淵への案内人か、 それとも、犠牲と再生の象徴か。 答えは、まだわからない。 だが、その存在は、俺たちの物語に、 不思議な彩りを与えてくれた。
「……いろいろ、ありましたね」 澪が、ふっと息を吐き、 そして、柔らかく微笑んだ。 その微笑みは、全てを受け入れた者の、 穏やかさに満ちていた。
「……ええ。本当に」 俺も、微笑み返した。
俺たちの間に、再び心地よい 沈黙が流れる。 ドビュッシーのピアノが、静かに空間を 満たしていく。
相良さがらさんとは、今も時折、 短いメールで連絡を取り合っている。 彼は、海辺の町で、 静かに暮らしながら、再び若い 芸術家の卵たちに、 絵を教えているらしい。 彼もまた、彼なりの「夜明け」を 迎えているのだろう。
戸隠とがくしのその後については、 詳しいことはわからない。 だが、彼が二度と俺たちの前に 現れることはないだろう、という確信だけがあった。
俺は、窓の外に目をやった。 カフェ「月読」の窓から見える、 小平の穏やかな街並み。 かつては、このありふれた風景が、 息苦しく感じられたこともあった。
だが、今は違う。 この日常の、やかな、 しかし確かな営みの中にこそ、 俺たちが守りたかったもの、 そして、これから生きていくべき場所が あるのだと感じられる。
夜明けは、訪れたのだ。 長く、暗く、そして激しい嵐のような 夜が明け、静かな、しかし確かな光に 満ちた朝が来た。 もちろん、空にはまだ雲が浮かび、 時には雨も降るだろう。 熾火のように、過去の痛みが 疼く夜もあるかもしれない。
それでも、俺たちは、生きていく。
澪は、隣で、新しいスケッチブックを開き、 鉛筆を走らせ始めていた。 窓から差し込む光の中で、 何か小さな花を描いているようだ。 その横顔は、真剣で、 そして、とても穏やかだった。
俺もまた、ノートパソコンを開き、 新しいファイルの、真っ白なページに 向き合う。 次に書くべき物語は、 まだ形になっていない。
だが、恐れることはない。 俺の中には、今、確かな「熾火」がある。 そして、目の前には、無限の可能性を秘めた、 「夜明け」の色彩が広がっているのだから。
俺は、最初の言葉を、 ゆっくりと打ち込み始めた。
それは、おそらく、とても静かで、 そして、どこまでも蒼い空の下で始まる、 新たな物語の、 第一行目となるのだろう。

第27章 それぞれの青、そして光

あの激しい出来事から、 五年という歳月が流れた。
季節は巡り、小平の街には、 木々が鮮やかに色づく、 穏やかな秋が訪れていた。
俺、結城 櫂ゆうき かいは、 自宅アパートの窓辺で、 淹れたてのコーヒーを手に、 夕暮れに染まる空を眺めていた。
壁には、数年前に出版された 俺の小説『水面の月』の、 やかな受賞を知らせる記事の切り抜きと、 そして、いくつかの新しい作品の書評が、 控えめに飾られている。
俺は、今もこうして、 言葉を紡ぎ続けている。 かつてのような、自分自身を焼き尽くすほどの 激しい「熱」はない。 だが、経験と省察を経て得た、 静かで、しかし確かな熱量が、 俺の創作を支えてくれていた。
窓の玉川上水沿いの 遊歩道を、ゆっくりと歩く人影が見える。 その中に、見慣れた、 けれど少しだけ変化した姿を見つけ、 俺は微かに微笑んだ。
水瀬 澪みなせ みお
彼女は、今、このアパートの近くにある、 小さなコミュニティ・ギャラリーで、時折、 自身の作品を展示するようになっていた。
彼女が描くのは、 かつての兄・海斗かいとが描いたような、 深淵を覗き込むような「青」ではない。 光、水、風、草花…… 日常の中にある、やかな、 しかし確かな美しさを、彼女独自の、 透明感のある色彩で、 静かに描き出している。 その作品は、多くの人の心を捉え、 静かな評判を呼んでいた。
彼女の纏う空気には、今も、 あの独特の ブルー の気配がある。 それは、おそらく一生消えることはないのだろう。 兄を失った悲しみ、 過去の出来事の記憶、 それらは「熾火」のように、彼女の魂の 奥底で静かに燃え続けているはずだ。
だが、それはもはや、彼女を苛む闇ではない。 むしろ、彼女の感受性を豊かにし、 その作品に深い陰影を与える、 彼女だけの色となっているように見えた。
俺たちの関係もまた、あの頃とは違う、 穏やかな形へと落ち着いていた。 恋人、という言葉が相応しいのかどうかは、 わからない。 だが、俺たちは、互いを、 誰よりも深く理解し合い、 支え合っている、 かけがえのない存在となっていた。 言葉を交わさずとも、ただ隣にいるだけで、 互いの心の機微を感じ取れるような、 そんな静かで、満たされた関係性。
時折、二人でカフェ「月読」を 訪れることもある。 寡黙かもくな店主月見つきみさんは、 今も変わらず、静かにコーヒーを淹れてくれる。 壁に掛けられた 『人は悩む。 人は得る。 創作で』 という言葉を見るたびに、俺たちは、 あの激しく、そして痛みに満ちた日々を 思い出す。 悩み、苦しみ、多くを失いかけた。 だが、その果てに、俺たちは、 かけがえのないものを「得た」のだ。
相良さがらさんからは、今も、 年に一度か二度、絵葉書が届く。 海辺の町で、彼は穏やかに 暮らしているようだ。 絵葉書には、彼が指導しているらしい 子供たちが描いた、素朴で、力強い絵が 印刷されていることもあった。 彼もまた、彼なりの「夜明け」を 見つけたのだろう。
戸隠とがくしのその後については、 詳しいことはわからない。 ただ、彼が二度と俺たちの前に 現れることはないだろう、という確信だけがあった。
日が暮れ、部屋にランプを灯す。 俺は、新しい原稿用紙に向かい、 ペンを取った。 次に書くべき物語の、 最初の言葉を探す。
窓の外では、三日月が、 夜空に静かに浮かんでいた。 その、欠けた月の形に、俺は、 かつて海斗かいとが描いた、 歪んだ月と怯える兎の絵馬を 思い出す。
だが、今はもう、そこに不吉な予感はない。 欠けているからこそ、その光は、 より一層、闇の中で際立って 見えるのかもしれない。 完全ではないこと、傷を抱えていること、 その中にこそ、本当の美しさや、 強さが宿るのかもしれない。
ペン先が、白い紙の上を滑り始める。
それは、おそらく、とても静かで、 そして、どこまでも蒼い空の下で始まる、 新たな物語の、 第一行目となるのだろう。

この物語はフィクションです


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蘇芳 誠(すおう まこと) 「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。