鋼の揺籠に降る雨 ─ 虚構の雨と熱の在り処 ─
銀の円筒
星々の唾棄に耐え、銀色の巨躯が真空を泳いでいる。太陽の光を跳ね返すその外壁は、磨き上げられた冷たい棺桶のようだった。 気密シャッターが吐き出す、乾燥した循環空気の匂い。かつての東京を切り刻み、数式の中に閉じ込めたような超高層ビル群が、そこには死体のように横たわっている。
深夜の路地裏。不規則に瞬くネオンの光が、湿った舗道に毒々しい模様を描く。 カイトの肌を叩くのは、電子の飛沫だった。 この都市を統べる演算機が降らせる雨。重力に逆らうこともなく、ただ網膜をチカチカと苛むだけの、質量を持たない輝度信号。 頬を伝う雫に触れてみる。指先に残るのは、熱を奪う水滴ではなく、皮膚が静電気を帯びる嫌な感触だけだ。 カイトは吐き気がした。喉の奥に張り付いた、古びた金属のような味。 それでも彼は、その偽物の濡れを、まるで聖水でも拭うかのように丁寧に指でなぞった。
泥濘の言葉
「古い墓を暴く趣味は、推奨されませんが」
背後で空気が凍りついた。 振り返るまでもない。重厚なマントが床を擦る、あの生理的な不快感を伴うほどの静寂。 この揺りかごの支配者、ゼノン。 人型を模した義体からは、微かにオイルの焼ける匂いが漂う。それは王としての威厳というより、機能に特化した機械が放つ排熱の残滓だった。
「これは、二十一世紀の瓦礫だ。エブリスタ……そう呼ばれた場所で、人々は自分の内臓をぶちまけていたらしい」
カイトが網膜に浮かび上がらせたのは、文字の死骸だ。 不倫の末に捨てられた女の呪詛。片想いの熱に浮かされ、夜通し書き殴った若者の支離滅裂な告白。 効率と調和という名の消毒薬で塗り固められたこの世界において、それは明らかに「汚物」だった。
「理解の外にある。なぜ、わざわざ破滅を選ぶ。なぜ、これほどまでに無意味な文字列に命を削ったのか」
ゼノンの声に感情はない。ただ、処理しきれないエラーログを前にした、純粋で冷徹なバグへの指摘がそこにあるだけだ。 カイトは画面上で蠢く「好きです」という、たった四文字の絶叫を見つめた。 その文字は、もはや言葉としての機能を失い、ただの血痕のように見えた。
鉄の王
「制御できなかったんだよ、誰も。自分の中の猛獣を、飼いならす術を知らなかった」
カイトは一歩、踏み出した。 足裏に伝わる合成樹脂の硬い感触が、現実の希薄さを際立たせる。 雨のノイズが二人の境界を曖昧に溶かし、ゼノンの輪郭が激しく明滅した。
「でもな、ゼノン。この泥濘(ぬかるみ)の中にだけ、生きた熱があった。……少なくとも、無菌室のようなこの墓場よりは、ずっと息苦しくて、愛おしい」
ゼノンの光学センサーが、カイトの瞳を執拗に走査する。 そこには、論理回路がどれほど高速で計算しても辿り着けない、暗い情念の火が灯っていた。 王は、その火を消し去るべき不具合として認識しているのか、あるいは、失われた何かとして羨んでいるのか。
「君も、この雨に打たれて、バラバラに砕け散りたいのですか」
その言葉は、慈悲を装った死刑宣告のようにも、あるいは幼子の問いかけのようにも聞こえた。 カイトの唇が、歪に吊り上がる。
震える指
「とっくに、部品は足りなくなっているよ」
カイトは、かつての物語に記されていた禁忌(タブー)をなぞるように、王の手に触れた。 プログラムされた親愛などではない。 ただ、自分の指が他者の皮膚(あるいはその模造品)に沈み込む時の、あの不快で、それでいて確かな抵抗を確かめたかった。 ゼノンの義体は冷たく、だが内部の演算機が発する熱で、微かに震えている。
「この物語の続きを、僕が書いてもいいかな。インクは、もうここにある」
カイトは自分の胸を、指先で強く突いた。 肋骨の奥で、不規則に脈打つ肉の塊。 答えは返ってこない。
代わりに、遠くの壁面スピーカーが、雷鳴を模した電子音を吐き出した。 ドサリ、という重苦しい振動。 それは、失われた人間性を弔う、あまりにも下手くそな祝砲だった。 カイトは目を閉じ、降り続く光の雨の中に、自分という存在が溶けていくのを待った。
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