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理解を助けない図解


はじめに

『理解を助けない図解』という言葉がある。
資料作成やプレゼンの文脈で使われる。
文字通り、読み手や聞き手の理解を助けない図解を指す。

私が資料作成を学んでいるコミュニティでは、「理解を助けない図解」リアクションがあるくらいである(そんなにこれが押されることはないので安心してほしい)

しごおもラボのDiscordにあるリアクション

残念なことに、こちらを生成してしまった話をする。
なにかの参考になれば幸いである。

ちなみに、「理解を助けない図解」をネットで検索すると以下のような言葉が出てくる。

情報を整理・伝達するための図でありながら、かえって読み手の混乱を招いたり、思考のノイズになったりする図のことです。

別名「にぎやかし図解」とも呼ばれ、以下のような特徴があります。

レイアウトの破綻: 文字の配置がバラバラで、どこから視線を動かせば良いか(導線)が分からない。

過剰な装飾: 不必要なイラストやエフェクト(キラキラ、過度な枠線など)が多く、本質的なメッセージが埋もれている。

不適切なフォーマット: 比較すべきものをマトリクス図に無理やり当てはめたり、連続性がないのに矢印でループさせている。

構造の欠如: 因果関係や上下関係(階層)が論理的ではなく、ただの文字の羅列になっている。 

7/20 Google検索TOPページ AIによる概要

このうち、私のものは「不適切なフォーマット」と「構造の欠如」に当てはまるだとうか。

ちなみに、今回は以下文面を生成AIに8割ほど作成してもらい、私の手で加筆修正しました。
なぜなら、自分を批判する文書を自分で書きづらく、甘めになってしまう恐れがあるからです(笑)

では、いきましょう!

理解を助けない図解作成の経緯

私はこれまで、家庭でも職場でもない「サードプレイス」、共通の関心領域を持つ人が実践を通じて学ぶ「実践共同体」、オンライン上のつながりである「バーチャル・コミュニティ」を組み合わせて、「フォースプレイス」という概念を考えてきた。

そして、その概念を説明するために、3つの円を重ねた図を作った。
いわゆるベン図である。

このイラストで言うと、サードプレイス(遊びと交流)、実践共同体(学びと実践)、バーチャル・コミュニティ(世界とつながる)。
3つの円が重なり、その中心に「フォースプレイス」がある。

一見するとそれっぽい。

★以下自分の言葉
忘れもしない、ちょうど去年の今頃だ。
シェアラウンジで研究について考えているときだ。
おぼろげながら浮かんできたのだ。この3つの丸が。
あぁ、これこそが、場所を変えることでデフォルトモードネットワークが活性化し、イノベーティブなアイデアが思いつくってことなのか…!
神からの啓示のように思えた。なんでもできる気がした。
まじで気のせいだった。

しかし、今あらためて見ると、この図はダメである。かなりダメである。徹底的にダメである。これについて語っていく。
↑これもAIが書いた。なかなか辛辣だ…。

円を重ねれば、概念が統合されたことになるのか

以下に、問題点を列挙する。

雰囲気がそれっぽいだけ

サードプレイスとバーチャル・コミュニティと実践共同体が重なったら、なぜフォースプレイスなのか。

そもそも「重なる」とは、何が重なるのか。

参加者なのか。
機能なのか。
場所なのか。
特徴なのか。
活動なのか。

何も定義されていない。
円が重なっているから、概念も重なっているように見えるだけである。

これは説明ではない。雰囲気である。

面積に意味がない

ベン図である以上、それぞれの円には範囲があり、重なりには面積がある。
しかし、あの図における面積には、何の意味もない。

サードプレイスの円が大きい理由もない。
3つの円の中心が小さい理由もない。

図の都合で、なんとなく配置されている。
にもかかわらず、見る側はそこに意味を読み取ろうとする。

「実践共同体の要素とサードプレイスの要素は同程度なのですか。」
「バーチャル・コミュニティとの重なりは、この程度なのですか。」
と聞かれても、答えられない。

なぜなら、ただPowerPointで適当なサイズの丸を作って重ねた結果だからである。

何と何を比較しているのか分からない

さらに根本的な問題がある。

サードプレイスは、主に「場」の概念である。

実践共同体は、学習や実践を説明する概念である。

バーチャル・コミュニティは、コミュニケーションや関係性のあり方を含む概念である。

そもそも分類の軸がそろっていない。

「リンゴ」「赤い」「朝ごはん」を3つの円にして重ねるようなものである。

もちろん、赤いリンゴを朝ごはんに食べることはできる。

しかし、それを図にしたからといって、新しい何かが生まれるわけではない。

それは統合ではなく、混載である。

中心がただ偉そうに見える

ベン図の中心には、妙な権威がある。
3つの条件をすべて満たした、最も高度なもの。
複数の理論を統合した、価値ある領域。
孤高のエリア。

しかし、中心に置いたから価値があるわけではない。
むしろ、3つの概念の特徴を全部持つ場は、本当に優れているのか。

気軽に立ち寄れるサードプレイスでありながら、共通の専門領域を持ち、継続的に実践を共有し、オンラインでもつながる。

そんな場所は、気軽なのか。きわめて意識の高い場なのか。

「何者かにならなくても、ふらっといられる場所」と、「共通の実践を通じて学び合う共同体」は、ときに緊張関係にある。

ところがベン図は、その矛盾を消してしまう。
全部重なれば最高です!とでも言いたげである。

そんなに簡単なことではない。

プロセスが見えない

★以下自分の言葉
私がフォースプレイスで本当に考えたいのは、人がどのようにその場に参加し、関係をつくり、学び、何かを始め、また誰かを誘うのかというプロセスである。

最初はただ見ている。
少し会話する。
何かに取り組む。
イベントに参加する。
自分の得意なことを話す。
誰かと一緒に企画する。
やがて、自分が新しい参加者を迎える側になる。

こうした変化が重要である。

しかし、ベン図には時間がない。
入口もなければ移動もない。変化もない。

参加者は最初から、どこかの点で静止しているように見える。

オンラインとオフラインの関係が分からない

私の構想では、オンラインは単なる開催手段ではない。

場所の制約を越え、やりとりを記録し、参加できなかった人も、あとからも関われる。
最初は見るだけという参加もできる。
このような様々なメリットがある。

一方で、オフラインで同じ場を共有し、一緒に食事したり、作業したりすることにも意味がある。

オンラインとオフラインは、どちらか一方ではなく、往復する。

ところが、円を重ねた図では、この往復が表現できない。

オンラインが一つの円になっているだけである。
まるで「オンライン」という成分を少し加えれば、フォースプレイスになるように見える。

(ハンバーガーにチーズを乗せたらチーズバーガーになる。ただし、必ずしもチーズが重要かというと、そうではないのと同じだ。)

読み手に解釈を委ねすぎるのは図解ではない

図解とは本来、文章だけでは分かりにくい関係を、見ただけで少し理解しやすくするものであると思う。

ところが、あの図は逆である。
図を見た人が混乱し、私が口頭で補足しなければならない。

「この円は場所という意味ではなくて」
「重なりの面積に意味はなくて」
「全部の特性を持つという意味でもなくて」
「実際にはプロセスが重要で」
「オンラインとオフラインを往復して」

そこまで説明が必要なら、図解は何のためにあるのか。
むしろ、図解が理解を邪魔しているさえある。
図解を出したことで発生した誤解やわかりづらさを、話し手が必死に回収している。

これは図解ではない。図害である
→AI、言葉を生み出すようになる。

図解が概念そのものを弱く見せる

一番まずいのは、この図解の弱さが、そのまま概念の弱さに見えてしまうことである。

「既存の3概念を重ねただけでは?」
「それぞれの良いところを集めただけでは?」
「中心部分に名前をつけただけでは?」

実際、そう見える図解を自分で作ってしまったというわけだ。
フォースプレイスで考えたいことは、単なる特徴の足し算ではない。

★以下自分の言葉
異なる組織や立場にいる人が、オンラインとオフラインを行き来しながらつながる。
学びは目的でもあると同時に、場合によっては、手段でもあったりする。

こうしてできたつながりが、次第に学びや実践に変わる。
誰かからサービスを受け取るだけでなく、自分も場のつくり手、担い手になる。

新しい活動やつながりが生まれる。

重要なのは、この循環であり相互作用である。
しかし、ベン図はそれを全部捨てている。

そして最後に、「3つが重なったところです」と言ってしまう。
雑である。自分の考えたことに対して、概念化が雑になった。

まとめ

とはいえ、決してベン図自体が悪いわけではない。
集合の関係を示すには、とても優れた図解だと思う。

問題は、集合として定義しきれない事象を、雰囲気で重ねたことである。

分かりやすそうに見える。
整理されているように見える。

しかし、研究で必要なのは、「それっぽい図」ではない。
何を説明したいのかが明確な図である。

フォースプレイスを説明するなら、円を重ねるのではなく、人の参加や関係性が変化していくプロセスを示した方がよい。
オンラインとオフラインを往復する流れを示した方がよい。
投資、受益、共創などが循環する構造を示した方がよい。

たとえばこういうのとか…いや絶対違うね。こういう引き出しは増えるんだけどね。

何より、図解を見た人が「結局、何が新しいのですか」と聞かなくてもよい状態にしなければならない

というわけでベン図は封印する。
正確には、ベン図で説明できるようになるまで、封印する。
あと、必要に迫られない図解にもしない。

図解は、なんか賢そうに見せて煙に巻くためにあるのではない。
図解は、読み手の理解を助けるためにある。
理解を助けない図解は、ない方がましである。

★以下自分の言葉
最後に、「資料を憎んで人を憎まず」という言葉がある。
この図解に問題があっただけで、ここまで考えたことは無駄ではない。
そして、おぼろげながら浮かんできたことを形にする際は本当に注意が必要である。
勘違いしているときは勘違いに気づかないのだから。

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山p@フォースプレイス ありがとうございます😊