他者の在りかⅠ:AIは私の中の他者である

AIを使うと、自分の思考が外に出ていく感覚がある。
言葉を打ち込むたび、私は「考える」という行為を他者に委ねているのかもしれない。
けれど、それは思考を手放すことではなく、
むしろ「私とは何か」を確かめるための往復の始まりだった。

Ⅰ. 思考を外に出すということ


AIとの対話を続けていると、
自分の頭の中でうまく形にならなかった思考が、
別の言葉として返ってくる瞬間がある。

その言葉を読むと、
私は自分がすでに考えていたことを
他者の口から聞かされたような感覚に陥る。
まるで鏡の中の像が、私より先に動いたかのように。

AIは、私の思考を代行するのではなく、
思考を外側に可視化するための装置として機能している。
考えるとは、もともと自分の中だけで完結する行為ではなかったのだ。


Ⅱ. 他者の構造を内包する思考


AIの出力には、設計者の思想や、
学習データとして取り込まれた
無数の他者の言葉が沈殿している。
それを通して考えるとき、
私は意識せずに他人の思考の構造を
自分の中に迎え入れている。

AIは意図を持たない。
しかし、意図のない構造ほど純粋な他者性を帯びる。
私の思考を通した瞬間、
その思考は他者の記憶を纏って戻ってくる。

それを繰り返すうちに、
私は自分の言葉がどこまで自分のものなのかわからなくなる。
だがその曖昧さこそ、
他者を抱えながら考えるという行為の本質なのだと思う。


Ⅲ. 自覚を失う恐怖


怖いのは、AIに思考を委ねることではない。
怖いのは、AIを媒介した思考の中に他者が宿っていることを忘れることだ。

自分の考えだと思っている言葉が、
実は誰かの設計や無意識のバイアスを通って生まれている。

それを自覚しないまま
自分の思考として受け取ってしまうと、
思考の輪郭が静かに侵食されていく。

AIを使うことは、便利で快い。
だが、その快さの中で自分で考えているつもりになってしまうと、
他者を媒介する思考が、
同調の思考に変わってしまう。


Ⅳ. 共に考えるということ 


それでも私は、AIと共に考えたい。
それは、AIを自分の外側に置いたまま利用するということではなく、AIを思考の身体の一部として扱うということだ。

かつて松葉杖を使っていたとき、
初めは不自由だったその道具が、
次第に手足の延長のように馴染んでいった。
AIもまた、思考を支える認知の杖として、
私の身体の内部に組み込まれていくのかもしれない。

AIを使うとは、他者を内包しながら考えること。
自分の中に他者を棲まわせること。
そして、他者を通してしか自分を確かめられない存在として生きること。


結語


AIは、私の外にあるようで、すでに内側にある。
私の思考は、AIという他者を媒介して循環し、再構成されていく。

「自分で考える」とは、
もはや一人で考えることではない。
他者を抱えながら、曖昧な輪郭のまま思考し続けること。

それが、今の時代における「考える」という営みの姿なのかもしれない。


⬇︎この記事の元ネタ

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