トワーズガタリ 002|オキナワ近現代と僕の間に在るもの
くたびれた土曜を抜けた日曜の早朝、スマホの振動で目が覚める。
電話口の父から、「お母さんが倒れて、今から搬送される」と告げられ、彼の謎に穏やかなトーンと寝ぼけた頭が相まって理解が追いつかない。
うつろうつろとしているところへ、姉からも電話が入る。父とは違い、彼女の冷静さはまともに届く。どうやら、一応は無事らしい。今は運ばれた病院で、採血やら点滴やらをしながらひとまず寝ているとのこと。
妻と娘に軽く状況を伝えつつ、ひとり病院へ向かう。
廊下に出ていた姉と落ち合い、病室へ。
疲れた様子の父と、静かに眠る母。トーンが静かすぎて拍子抜けな雰囲気すらある。
どうやら、昨夜は友人たちと会合があり、水割りを3杯ほど飲んだらしく、朝方の低血圧とアルコールの影響でうつろうつろし部屋で倒れてしまっていたらしい。
大ごとにならず良かったと安心しつつ、改めて両親の高齢化を感じる。
姉とバトンタッチして、母の点滴を眺めたり、水を飲ませたり、トイレに付き添ったりしたりしながら、静かな病室でやることもなければ、できることもないままパイプ椅子に座りながらうたた寝した。
数時間の後、病院を出て母を送る車中で何気なく、佐渡山豊を流しながら昔話を振ってみる。
「いくつぐらいのときに天仁屋から沖縄市に出てきたの?」「いくつなってたかねー。ハタチくらいじゃないかな」とかなんとか。
1945年、終戦を迎えてすぐの11月に母は生まれた。どうやら、地元ヤンバルで成人式を迎えた後すぐに妹(叔母)と沖縄市に住み始めたらしい。
安慶田の町に居を構え、田舎山奥から姉妹で出てきた若い頃の2人。未だに片鱗がチラつくほど、まぁまぁパリピだったであろう彼女らの青春を追憶する。
Aサインバーで叔母は働いていて、米兵と恋仲になり都レストランの2階で挙式をあげたらしい。知らなかった。
ファンキー極まる破天荒な叔母に、そんな場面があったのか。まるで独身貴族のオキナワ版みたいに思っていたので、意外に感じたが同時に、人生の深みを強く感じさせられた。
数えてみれば、1960年代後半ごろのことだろう。復帰の少し前。もしかしたら、アメリカに従兄弟がいたかも知れない。同じ頃、中の町あたりの統計庁(琉球政府)で父は働いていた。赤ん坊だった兄を抱いて、母は諸見里の賃貸からコザ暴動を眺めていた。
オキナワ近現代は、すぐそこにあった。僕が生まれるほんの20年ほど前。歳の離れた親だからというのもあるが、「戦後」はどうやらそんなに遠くない気がする。
歴史と思い出のちょうど中間くらいの距離感と言えるかもしれない。
街にしても、なかなか「地元」と言うのに抵抗があった照屋や園田も親たちの生きた日々を数えれば、十分すぎるほど僕のルーツと言えそうだ。
60年代も70年代も、ついこの間だ。
コザの街に感じるノスタルジーは追憶だ。
落ち着いて考えれば当たり前のようだけど、話してみなきゃ見失うことがたくさんある。戦後生まれ、オキナワ生まれ。
この街の近現代史への関心が高まる今日この頃の僕。
もしかしたら、最近のマイ民主主義ブームもこのあたりに関わっている気がする。
なんだかんだ、生身の歴史が土臭く、汗臭く、そして酒臭くてヤニ臭く漂って続いている。
親しみは素直に馴染みに由来しているのだろう。
これはこれで、悪くないかもね。
ぴーしょー!
